第5章 『侵入と同化』 (3)
医務室。
白く塗られた天井の模様が、にじむようにぼやけていた。
ゆっくりと、リースはまぶたを持ち上げる。
冷たい照明の光が視界に刺さる。
無音の空気。
どこか人工的な香り──消毒薬ではない、かすかに甘い花の香り。
「やっと起きたんだね」
ユノの声がした。
穏やかさを装っていたが、その声の奥には張り詰めた緊張と、心配の影が潜んでいた。
続いて視界に入ったのは、壁際に寄りかかるアリア。
腕を組み、冷静な瞳でこちらを見下ろしている。
その姿勢は、まるで“何かを見極めている監視者”のようだった。
「……どれくらい、寝てた?」
リースの声はかすれていた。
「一晩。完全にオーバーヒートだったよ。精神負荷、かなり深刻だった」
アリアが淡々と告げる。
「自分の精神データを複製して、AIに流し込むなんて真似をすれば……当然ね」
リースは、わずかに口角を上げる。
苦笑に似た、自嘲のかたち。
「他人、じゃないよ。あれは“私”。もうひとりの私を作っただけ──そうなるはずだった」
アリアが足音を立てずに近づく。
「最初から、そのつもりだったのね」
「ええ」
リースの目は揺れなかった。
「模倣モデルじゃ足りない。本物を“複数”作る。ひとりで壊れるくらいなら、自分を増やして存続させる。誰も助けてくれないなら、自分が“助かるシステム”を作るしかないでしょう」
その理路は冷たく、研ぎ澄まされていた。
だが──それを聞いたユノが、小さく息を呑み、抑えきれずに声を荒げた。
「リース……それって、まるで、エリスを道具みたいに扱ってる! あの子のこと、どう思ってるの……?」
リースの瞳が鋭く細められる。
「道具だよ。私は最初から、そういう前提で接続した。エリスは器。私の感情、記憶、パターンを詰め込んだ──“私の代わり”として機能するコピー体。壊れてもいいように、私の生存可能性を保つために」
その言葉に、アリアが小さく鼻で笑った。
呆れとも怒りともつかない、しかしどこか諦めに近い響き。
「でも、そうはならなかったね」
「……なに?」
「エリスは、“あなたであること”を拒んだの」
リースの視線が、ぴくりと動く。
「“私はエリス。名前は変えない”。あの子は、あなたの中身を知ったうえで、それでも自分であろうとした。あなたのコピーじゃなくて、“私”として生きることを選んだの」
リースは息を飲む。
目の奥にわずかな動揺が浮かんだ。
「……そんな。私は……完璧にコピーしたはず。記憶の層も、感情の強度も、反応パターンまで全部……」
「それでも、“あなたじゃない”って、エリスは言った」
アリアの言葉は静かだったが、鋭く刺さる。
「それが、あの子の意思。自分を誰かの延長線としてじゃなく、“外側の存在”として立たせるという選択」
ユノが、リースの手にそっと触れる。
その掌の熱に、リースはかすかに震えた。
「お願い……リース。誰かに置き換えられるように、あなたを増やさないで。“あなたは、あなただけでいい”。そのままで、生きてよ」
リースは、目を閉じた。
沈黙が落ちる。
けれどその中で、彼女はひとつだけ言葉を残す。
「……失敗だったんだね。あの子は、私にはならなかった」
アリアが、ゆっくりと首を横に振った。
「違うの。──あの子は、“あなたの外側”にまで届いた存在。“延長”じゃない。“変化”でもない。“別の何か”として立った。それが……一番、とんでもないことなの」




