第9章 『WR教団』 (2)
紫のチップが掲げられ、仮面たちの讃歌がいったん収束したあと──空気は、再びぴんと張りつめた。
無表情の仮面が、再びリースの正面に立つ。
「続いて、“初恋”の抽出に入ります」
その一言で、リースの背中を冷たい汗が伝った。
「……やめろ」
声はかすれていた。
恐怖と怒りと羞恥が、喉元で絡まり合っていた。
「初恋は、最も未熟で、最も純粋な情動です。羞恥と自己否定、希望と拒絶、期待と恐怖──すべてが混ざり合い、感情の密度が最も高まる領域」
「やめろって言ってんだろ!!」
リースの叫びは届かなかった。
「恋慕」の仮面が音もなく手を掲げる。
次の瞬間、ホログラムスクリーンにふわりと映像が浮かび上がった。
それは、リースがずっと隠し続けていた記憶。
何度も削除しようとして、失敗した。
自己嫌悪と焦燥が残した、“まだ傷になりきれていない”記録。
放課後の校舎。
夕焼けの光に照らされた下駄箱の前。
制服姿の少女──過去のリースが、ひとり立っていた。
手には小さな紙切れ。
震える手で、それを年上のリザレクテッドに差し出している。
「これ……あの、読んでくれたら、それだけで……」
声が流れた瞬間、リースは必死に首を振った。
拘束された体で、身をよじって抵抗する。
(なんで……どうして、あれが……!)
「初恋──未遂に終わった情動。だからこそ、チップにはできなかった未加工の原石です」
「これは……恋です」
誰かがそう呟いた。
低く、陶酔したように。
映像の中で、少女リースは返事を待つこともできず、逃げるようにその場を離れていく。
何も起こらなかった、だからこそ鮮烈に残った記憶。
痛みでも、喜びでもない、ただ“未完”のまま焼きついた断片。
「……これ以上やったら、マジで殺すぞ……」
リースの声は震えていた。
怒気とも、涙ともつかぬ濁った音。
だが、その声さえも記録されていく。
「心拍、128。呼吸速上昇。視線の揺れ、左右へ6.3回/秒」
「感情波形:恋慕62%、羞恥18%、否定感20%。抽出可能」
そしてまた、背後の装置が、無慈悲な“完了”の合図を鳴らす。
カチリ。
淡いピンクの光を内側に灯した結晶体が、転がり出た。
ころん、と乾いた音。
まるで命の一部が切り離されたように。
「恋慕チップ、完成です」
「“母なる器”が与えし、第二の恩寵」
再び、仮面たちは跪く。
今度の讃歌は、かすかな旋律を帯びていた。
まるで、誰かの失われた恋を悼むように。
リースの視界が、静かに歪んでいく。
涙ではない。
怒りでも、羞恥でもない。
ただ、自分が“誰かに見せたくなかったもの”が、今──“売り物”になっていく。
(私は……どこまで、さらされる?)
その問いに答えるように、仮面のひとりが近づいた。
そして、リースの額に手を置く。
リースの拘束台がゆっくりと傾き、身体は半立位のまま固定された。
仮面たちの気配が遠ざかる。
祈るような沈黙。
だが、そこに漂うのは祝福ではない──執行の予感だった。
「次は、“恐怖”を抽出します」
無表情の仮面が前に出る。
その声には、他の感情とは明らかに違う──冷ややかな敬意が滲んでいた。
「恐怖。それは生存本能の極致。喜びでも、悲しみでもなく、“生きたい”という本能が生む、最古の情動」
「お前らに、“恐怖”の何が分かる……」
リースの声は擦れていた。
だが、彼女の中で何かがすでに揺らいでいた。
無意識が、これから始まるものを察していた。
「記録指定:D114。抽出対象、“ロスト・ポッド事件”」
ホログラムが点灯する。
スクリーンに浮かんだのは、忘れもしない“あの夜”の記憶。
赤く点滅する警告灯。
金属臭の漂う廊下。
扉は閉ざされ、電脳は遮断され、助けの声はどこにもなかった。
──足音が、迫ってくる。
「……やめろ……やめろ、やめろ、やめろ!!」
映像の中で泣き叫ぶ自分の声が、今のリースの心臓を突き刺す。
感情は暴れ、記憶と現実の境界を曖昧にしていく。
耳鳴り。
息切れ。
喉が焼ける。
足音が、背後から聞こえる。
思わず身を捩ろうとする。
だが拘束具が軋むだけ。
逃げられない。
目を閉じたくても、仮面たちは彼女のすべてを記録しようとしている。
「心拍数、157。脳波:過緊張域に突入。恐怖波形、最大反応確認」
「出力、準備──完了」
カチッという機械音。
リースの足元の排出口から、青と黒の、まるで凍てついた心臓のような結晶が転がり出た。
「恐怖チップ、完成」
「出力者:リース・JCF02621」
仮面たちは誰一人言葉を発しなかった。
ただ一歩だけ下がり、そのチップに静かに、深く頭を垂れる。
──それは賛美ではなかった。
畏怖だった。
「これこそが、“命”の証明。我らの神が、かつて“生き延びた”記録」
リースは、呼吸するのもやっとだった。
涙は出ていない。
怒りも出せない。
ただ、自分の最も原始的な弱さが、“崇拝”という名の下に搾り取られていく感覚が、彼女の中を蝕んでいた。
(もう、私の“怖かった”さえ……あいつらの燃料にされてる……)
仮面の一人が、まるで神殿の祭器でも扱うようにチップを掲げる。
光に透けるその結晶の中心に、リースははっきりと見た──かつて自分が声にならない叫びを飲み込んだ瞬間の残響が、まだ震えていた。




