第7章 別れの季節
春が深まり、谷の命が一斉に芽吹き始めるころ。レイノルズのブドウ畑も、若い葉が青々と広がり、再び活気を取り戻していた。
カイルは畑の中央で黒い羽を揺らしながら、レイノルズを見て微笑んだ。春の陽射しを浴びるその姿は、どこか儚げで美しかった。
「お前、本当に忙しそうだな。」
カイルが冗談めかして言うと、レイノルズは少しだけ笑った。
「春は芽かきや支柱立てで毎年こんなもんだ。」
「……でも、今年は違うだろ?」
その言葉に、レイノルズは手を止めた。カイルの声には、どこか切なさが滲んでいた。
「どういう意味だ?」
「お前には俺がいるから、だろ?」
カイルは悪戯っぽく笑いながら言ったが、その金色の瞳には深い感情が宿っていた。レイノルズは何も言わずに彼を見つめ返した。
◇
夜、二人は畑で作業を終え、家に戻って簡単な夕食を共にしていた。暖炉の火が静かに燃え、部屋の中には穏やかな時間が流れていた。
「お前が来てから、畑が少し変わった気がする。」
レイノルズがふと呟いた。
「変わった?」
「なんていうか、命が強くなったような気がするんだ。」
その言葉に、カイルは少しだけ視線を落とした。
「それはお前が必死に守ってきたからだよ。」
「……そうかもしれないけど、お前がいたからだ。」
レイノルズのその言葉に、カイルは一瞬目を見開き、そして微笑んだ。
「ありがとう、レイ。」
その声には、どこか哀愁が混じっていたが、レイノルズは気づかないふりをした。
◇
夜が深まり、家の中が静寂に包まれる頃、カイルはそっと扉を開けた。冷たい夜風が頬を撫で、満天の星空が彼を迎え入れる。黒い羽根が微かに揺れ、谷に漂う静けさが一層際立つ。
「……この時間も、もう少しか。」
カイルは夜空を見上げながら、小さく呟いた。この谷で過ごす日々は彼にとってかけがえのないものだった。しかし、それが永遠ではないことも、彼自身が一番よく分かっていた。
背後から足音が近づいてくる。
「こんな時間に何してるんだ?」
低く響くレイノルズの声に、カイルはゆっくりと振り返った。驚きもせず、いつものように柔らかい笑顔を浮かべる。
「ただ、星を見てた。」
レイノルズは彼の横に立つと、静かに夜空を見上げた。その横顔には僅かな疲れが滲んでいるが、同時に何かを察するような鋭さもあった。
「何か隠してるんじゃないだろうな?」
その問いかけに、カイルは微かに笑い、肩をすくめた。
「……さすがだな、レイ。やっぱり気づくのか。」
「お前のことだ。妙な気配くらい分かる。」
レイノルズは険しい顔をしながらも、どこか優しい眼差しでカイルを見つめている。
「隠すつもりはないよ。ただ、言うべき時が来たら話すさ。」
その言葉に、レイノルズは眉をひそめながらも、それ以上追及することはなかった。
◇
翌朝、カイルはいつものように明るい笑顔でレイノルズを迎えた。
「おはよう、レイ。」
その声には何の曇りもなく、いつものカイルの姿そのものだった。だが、レイノルズはその笑顔の裏に何かを感じ取っていた。
作業をしながら、ふとカイルが口を開く。
「なあ、レイ。」
「なんだ?」
「もし、俺がいなくなったら、お前はどうする?」
その問いに、レイノルズは一瞬手を止めた。そして、少し苛立ったように眉を寄せる。
「……なんでそんなことを聞くんだ?」
カイルは作業を止め、レイノルズの目をじっと見つめた。その金色の瞳には、どこか儚い輝きが宿っている。
「俺には、ここで過ごせる時間が限られてる。それだけさ。」
その言葉に、レイノルズの心臓が大きく跳ねた。
「ふざけるなよ。お前がいなくなるなんて……考えられない。」
その声には、抑えきれない感情が滲んでいた。
「でも、いつかそうなるんだ。」
カイルは微笑んでそう言った。その笑顔は穏やかで、美しく、そしてどこか切なかった。
「お前なら大丈夫だよ。俺がいなくても、きっとやれる。」
「……お前がいなくなったら、どうすればいいんだ?」
レイノルズの低い声に、カイルはそっと手を伸ばし、彼の肩に触れる。
「俺はずっとお前の中にいるよ。」
その言葉に、レイノルズは何も言えなかった。ただ、カイルの黒い羽根が揺れるのを見つめていた。
◇
その夜、再び二人は暖炉の前で向かい合っていた。薪が燃える音だけが部屋に響き、静寂が二人を包み込む。
「お前、さっきの話……本気なのか?」
レイノルズが問いかけると、カイルはゆっくりと頷いた。
「本気だ。でも、今はそのことより、お前と一緒にいる時間を大切にしたい。」
その言葉に、レイノルズは少しだけ目を伏せた。そして、テーブル越しに手を伸ばし、カイルの手を掴む。
「勝手にいなくなるなんて、許さないぞ。」
その言葉に、カイルは微笑みながら力強く頷いた。
この夜がどれだけ続くのか、二人とも知らなかった。それでも、暖かな時間が二人を優しく包み込んでいた。
◇
家の中が静けさに包まれる中、暖炉の炎が微かに揺れていた。その赤い光が二人の影を壁に映し出す。夜遅く、カイルは扉をノックすることなく、そっと部屋に入った。
「レイ。」
名前を呼ぶその声に、ベッドに腰掛けていたレイノルズが顔を上げる。
「なんだ、こんな時間に。」
レイノルズの声は少し苛立ちを含んでいたが、カイルは気にする様子もなく彼の近くまで歩み寄った。
「ただ、顔が見たくなっただけだ。」
その言葉に、レイノルズは溜め息をつきながら呟いた。
「お前、変わった奴だな。」
カイルは微笑みを浮かべ、隣に腰掛けた。そして、自分の黒い羽根をゆっくりと広げる。
「変わってるのはお前もだろ。俺みたいな奴をここに置いてくれてるんだから。」
レイノルズはその言葉に一瞬眉をひそめたが、やがて静かに呟いた。
「置いてるんじゃない。お前が勝手に居座ってるだけだ。」
「それでも、俺を追い出さなかった。」
カイルの金色の瞳が、レイノルズをじっと見つめる。その真剣な眼差しに、レイノルズは目をそらすことができなかった。
「レイ……俺、お前のことが好きだ。」
唐突に放たれた言葉に、レイノルズの心臓が大きく跳ねた。その瞬間、部屋の中にあった静けさが一変する。
「……何を言ってる。」
声を絞り出すように言ったレイノルズに、カイルはそっと微笑んだ。
「本気だよ。お前の側にいられるだけでいいと思ってたけど……それだけじゃ足りない。」
カイルは黒い羽根を軽く揺らしながら、レイノルズの肩にそっと手を置いた。その動きに、レイノルズは微かに肩を震わせる。
「俺のことなんか……。」
言いかけた言葉を、カイルの指が彼の唇に触れることで止められた。
「お前は俺にとって、特別なんだ。」
その囁きに、レイノルズは目を閉じた。
カイルの羽根が微かに揺れ、二人の距離がゆっくりと縮まる。触れる指先、重なる呼吸。
その静かな瞬間が、二人の間にある全ての壁を溶かしていくかのようだった。
レイノルズはカイルの金色の瞳をじっと見つめ、呟くように言った。
「本当に俺でいいのか?」
「お前じゃなきゃダメなんだよ。」
その答えに、レイノルズの手が自然とカイルの頬に触れる。その温もりを確かめるように、二人は互いに身を寄せ合った。
朝の光
朝日が窓から差し込み、部屋の中を柔らかな光で満たしている。レイノルズは目を覚まし、隣で微睡むカイルを見つめていた。黒い羽根が布団の上で広がり、光を浴びて艶やかな輝きを放っている。
「……面倒な奴だな。」
そう呟きながら、レイノルズはそっとカイルの髪を撫でた。その感触に、カイルが目を開ける。
「おはよう、レイ。」
「おはよう。」
二人はしばらく何も言わずに見つめ合っていたが、カイルがふと微笑んだ。
「なあ、今年もいいワイン作ろうな。」
「お前が手伝うならな。」
レイノルズの冗談めいた言葉に、カイルは笑い声を上げた。その笑顔が、レイノルズの胸に温かさを広げていく。
「ずっとここにいられるわけじゃないけど……お前といる時間を、俺は大切にしたい。」
カイルの言葉に、レイノルズは深く頷いた。そして、彼の肩にそっと手を置き、静かに呟いた。
「俺も、お前がいる間にやれることをやるさ。」
そう言いながら、二人は新しい一日を迎えた。谷に吹く風は優しく、二人の物語を次の章へと運んでいく。