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第1章:命の谷に春が来る

春の陽光が谷を包み込み、冬の眠りから目覚めたように大地が息づいていた。風が山肌を駆け下り、ブドウ畑を撫でる。レイノルズはその中に立ち、土の感触を確かめるようにゆっくりと足を踏みしめた。


手には剪定ばさみが握られている。新しい季節を迎え、若い芽が力強く顔を出し始めたこの畑では、余計な芽を間引く「芽かき」の作業が始まったばかりだ。これは収穫の質を左右する重要な仕事だったが、彼の心はどこか遠くにある。


「……命の谷だなんて、どこがだ。」


ふと漏れた呟きは、自分に向けた問いでもあり、この谷に宿る神秘的な何かへの問いかけでもあった。


レイノルズは顔をしかめ、無理に考えを振り払うようにして、目の前の作業に集中しようとした。だが、肩にのしかかる現実は厳しい。ワインは売れず、借金は膨らみ、恋人には逃げられた。暖かい春の光すら、彼の心を癒すことはない。



「おい、そこで何をしてるんだ?」


突然聞こえた声に、レイノルズは驚いて振り返った。そこには見慣れない青年が立っていた。黒髪が春風に揺れ、金色の瞳が陽光を受けて不思議に輝いている。そして何より目を引いたのは、背中に広がる大きな黒い羽だった。


「……誰だ、お前は?」


警戒心を露わにして問いかけるレイノルズに、青年はにっこりと笑って言った。


「カイル。俺の名前だ。おじさんは?」


「……レイノルズだが。」


初対面にもかかわらず、カイルは近づいてきた。その歩みは自然体で、何か特別な意図があるようには見えない。ただその存在そのものが、この谷に溶け込んでいるようだった。


「なんで芽を刈ってるんだ?」


不意にカイルが尋ねた。


「芽が多すぎると栄養が分散してしまう。いい実を作るには間引きが必要なんだ。」


そう説明するレイノルズに、カイルはじっと彼を見つめ、何かを考え込むように目を細めた。


「そうか……命を間引く、か。」


その言葉には妙な響きがあった。レイノルズは眉をひそめながら問い返した。


「お前、何が言いたい?」


カイルは一瞬だけ微笑み、そして目をそらした。


「いや、こっちの話だよ。」



日が沈む頃、レイノルズは作業を終えて家に戻った。カイルはその間ずっと近くで作業を見守り、ときどき奇妙な質問を投げかけていたが、それ以上は何も言わなかった。


「おい、腹は減ってるか?」


「減ってる。」


「そうか……あるものでいいなら、適当に作ってやる。」


家に戻ると、レイノルズは少ない食材で夕飯を準備した。硬いパンに野菜スープ、少しだけ残ったチーズ。そして、今日の疲れを癒すための自家製の赤ワイン。


カイルはテーブルの端に座り、目を輝かせて料理が並ぶのを見ていた。


「ワインってこんな香りがするんだな。」


カイルがワインを手に取ると、レイノルズは笑った。


「初めてか?飲んでみろ。」


カイルは一口含むと、目を大きく見開いた。


「これが……ワインか!すごい、想像してた以上だ!」


その純粋な驚きに、レイノルズは一瞬だけ笑みを浮かべたが、すぐに複雑な表情に変わった。


「まだまだだよ、俺の祖父の作ったものには敵わない。」


彼は戸棚から埃をかぶった一本のボトルを取り出し、静かに栓を抜いた。


「これが、うちの最高傑作だ。」


カイルはその香りを嗅ぎ、一口飲んだ瞬間、顔を輝かせた。


「これだ……前世で一度だけ口にした味に近い!すごいな!」


その言葉に、レイノルズは驚きと困惑を隠せなかった。


「前世……?」


カイルは意味深な微笑みを浮かべたが、それ以上何も言わなかった。



夜が更け、ほろ酔いのレイノルズはベッドに横たわり、深い疲労感に目を閉じていた。今日一日で体にたまった疲れが、重力のように彼を押し下げていた。


ふと、隣の空気が動く気配を感じ、彼は目を開けた。


そこには、カイルが小さな微笑みを浮かべながら立っていた。


「なんだ?どうした?」


レイノルズは少し警戒しながら起き上がる。しかし、カイルはその問いには答えず、ベッドの端に腰を下ろした。


「レイ。」


カイルの声は低く、柔らかかった。名前を呼ばれるだけで、心の奥底に響く何かがあった。


「今日はありがとう。」


その言葉に、レイノルズは少し戸惑いながら眉をひそめた。


「礼を言うことなんて何もしてない。」


「そんなことない。お前の家に泊まらせてもらって、ワインを飲んで、一緒に時間を過ごせた。それだけで十分だよ。」


カイルは言いながら、そっとレイノルズの肩に手を置いた。その手はグローブ越しだったが、どこか暖かいものが伝わってきた。


「カイル……?」


レイノルズの声にはわずかな困惑が滲んでいたが、カイルの金色の瞳に見つめられると、言葉を続けることができなくなった。


カイルはゆっくりと距離を詰め、頬が触れそうなほど近づく。その動きに、レイノルズの心臓は早鐘を打ち始めた。


「触れてみたいけど……だめだな。」


カイルは微笑みながら、グローブを見つめた。その言葉に、レイノルズは息を飲む。


「な、何を言って――」


カイルの顔がさらに近づき、彼の息遣いが耳元に触れた。


「でも、こうやって近くにいるだけで十分だよ。」


カイルは囁き、そっとベッドから立ち上がった。その姿を見送るレイノルズは、彼の意味深な言葉に混乱しながらも、なぜか胸の奥が熱くなるのを感じていた。

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