第1章:命の谷に春が来る
春の陽光が谷を包み込み、冬の眠りから目覚めたように大地が息づいていた。風が山肌を駆け下り、ブドウ畑を撫でる。レイノルズはその中に立ち、土の感触を確かめるようにゆっくりと足を踏みしめた。
手には剪定ばさみが握られている。新しい季節を迎え、若い芽が力強く顔を出し始めたこの畑では、余計な芽を間引く「芽かき」の作業が始まったばかりだ。これは収穫の質を左右する重要な仕事だったが、彼の心はどこか遠くにある。
「……命の谷だなんて、どこがだ。」
ふと漏れた呟きは、自分に向けた問いでもあり、この谷に宿る神秘的な何かへの問いかけでもあった。
レイノルズは顔をしかめ、無理に考えを振り払うようにして、目の前の作業に集中しようとした。だが、肩にのしかかる現実は厳しい。ワインは売れず、借金は膨らみ、恋人には逃げられた。暖かい春の光すら、彼の心を癒すことはない。
◇
「おい、そこで何をしてるんだ?」
突然聞こえた声に、レイノルズは驚いて振り返った。そこには見慣れない青年が立っていた。黒髪が春風に揺れ、金色の瞳が陽光を受けて不思議に輝いている。そして何より目を引いたのは、背中に広がる大きな黒い羽だった。
「……誰だ、お前は?」
警戒心を露わにして問いかけるレイノルズに、青年はにっこりと笑って言った。
「カイル。俺の名前だ。おじさんは?」
「……レイノルズだが。」
初対面にもかかわらず、カイルは近づいてきた。その歩みは自然体で、何か特別な意図があるようには見えない。ただその存在そのものが、この谷に溶け込んでいるようだった。
「なんで芽を刈ってるんだ?」
不意にカイルが尋ねた。
「芽が多すぎると栄養が分散してしまう。いい実を作るには間引きが必要なんだ。」
そう説明するレイノルズに、カイルはじっと彼を見つめ、何かを考え込むように目を細めた。
「そうか……命を間引く、か。」
その言葉には妙な響きがあった。レイノルズは眉をひそめながら問い返した。
「お前、何が言いたい?」
カイルは一瞬だけ微笑み、そして目をそらした。
「いや、こっちの話だよ。」
◇
日が沈む頃、レイノルズは作業を終えて家に戻った。カイルはその間ずっと近くで作業を見守り、ときどき奇妙な質問を投げかけていたが、それ以上は何も言わなかった。
「おい、腹は減ってるか?」
「減ってる。」
「そうか……あるものでいいなら、適当に作ってやる。」
家に戻ると、レイノルズは少ない食材で夕飯を準備した。硬いパンに野菜スープ、少しだけ残ったチーズ。そして、今日の疲れを癒すための自家製の赤ワイン。
カイルはテーブルの端に座り、目を輝かせて料理が並ぶのを見ていた。
「ワインってこんな香りがするんだな。」
カイルがワインを手に取ると、レイノルズは笑った。
「初めてか?飲んでみろ。」
カイルは一口含むと、目を大きく見開いた。
「これが……ワインか!すごい、想像してた以上だ!」
その純粋な驚きに、レイノルズは一瞬だけ笑みを浮かべたが、すぐに複雑な表情に変わった。
「まだまだだよ、俺の祖父の作ったものには敵わない。」
彼は戸棚から埃をかぶった一本のボトルを取り出し、静かに栓を抜いた。
「これが、うちの最高傑作だ。」
カイルはその香りを嗅ぎ、一口飲んだ瞬間、顔を輝かせた。
「これだ……前世で一度だけ口にした味に近い!すごいな!」
その言葉に、レイノルズは驚きと困惑を隠せなかった。
「前世……?」
カイルは意味深な微笑みを浮かべたが、それ以上何も言わなかった。
◇
夜が更け、ほろ酔いのレイノルズはベッドに横たわり、深い疲労感に目を閉じていた。今日一日で体にたまった疲れが、重力のように彼を押し下げていた。
ふと、隣の空気が動く気配を感じ、彼は目を開けた。
そこには、カイルが小さな微笑みを浮かべながら立っていた。
「なんだ?どうした?」
レイノルズは少し警戒しながら起き上がる。しかし、カイルはその問いには答えず、ベッドの端に腰を下ろした。
「レイ。」
カイルの声は低く、柔らかかった。名前を呼ばれるだけで、心の奥底に響く何かがあった。
「今日はありがとう。」
その言葉に、レイノルズは少し戸惑いながら眉をひそめた。
「礼を言うことなんて何もしてない。」
「そんなことない。お前の家に泊まらせてもらって、ワインを飲んで、一緒に時間を過ごせた。それだけで十分だよ。」
カイルは言いながら、そっとレイノルズの肩に手を置いた。その手はグローブ越しだったが、どこか暖かいものが伝わってきた。
「カイル……?」
レイノルズの声にはわずかな困惑が滲んでいたが、カイルの金色の瞳に見つめられると、言葉を続けることができなくなった。
カイルはゆっくりと距離を詰め、頬が触れそうなほど近づく。その動きに、レイノルズの心臓は早鐘を打ち始めた。
「触れてみたいけど……だめだな。」
カイルは微笑みながら、グローブを見つめた。その言葉に、レイノルズは息を飲む。
「な、何を言って――」
カイルの顔がさらに近づき、彼の息遣いが耳元に触れた。
「でも、こうやって近くにいるだけで十分だよ。」
カイルは囁き、そっとベッドから立ち上がった。その姿を見送るレイノルズは、彼の意味深な言葉に混乱しながらも、なぜか胸の奥が熱くなるのを感じていた。