第十二節 第五十一話 手加減
「私は欲張り過ぎていたのかもしれません。到底私の手に負えることではないだろうに、まるで世界全域を見据えたような野望などよく抱いたものです」
クイは感慨深げに呟いた。
「まあ、俺もあんたの思いを全て否定するつもりはない。ただやり過ぎんなよとは言いたい」
アサの言葉がクイの胸にちくりと刺さる。
ユミに話を聞かせようと、茶を飲ませ森へ連れ出したことは明らかにやりすぎだったと言えるだろう。
無理やりにでも話を聞かせることがユミのためになると考えていた。否、信じようとしていた。
幸いにもユミは気丈だったが、少なからず森に不安を覚えていたはずだ。
心からユミのためを思うのなら、行動に移すべきではなかった。
改めてトキの言葉について考えてみる。
――他人のための行動というのは、殊勝な心がけのようで、自身の責任から逃れようという意識が働いている。
クイの場合、自身の責任から目を背けたため、行動に歯止めが利かなくなっていたと言える。
逆説的にクイが自身の目的に向き合うことで、本当の意味でユミのための行動をしていたはずだ。
クイの目的は自由な世界を作ることにあり、それにはユミの協力が不可欠だ。ユミの顰蹙を買う行動は逆効果だと言わざるを得ない。
「あの……、ケンさん。一度ユミさんに会って、お話を聞いては頂けないでしょうか」
腕を組み、不動を貫いていたケンの顔色を伺う。
「アイさんをナガレに連れてくることには、様々な意味を持つことが分かりました。自由な世界の足掛かりにしようなどとは、あまりに大それたことだったと感じています。しかしユミさんは、ただキリさんとの平穏な時間が欲しいだけなのです」
クイ自身のために、ユミの信頼を取り戻す。
自由な世界がやり過ぎた展望であるのならば、まずは手の及ぶ範囲の願いを叶える。
クイに今できることを成すまでだった。
「そう、だな。カラはラシノからの去り際、ガキのことを頼むと言っていたんだ。アイのせいでガキが痛い目にあってんなら、いい加減カラも愛想つかすだろう……」
ケンは自らを納得させるように呟いた。
「会ってやろう、その――」
「ユミさんですよ。一度ぐらい名前を呼んで上げてください」
「でもあいつ、オレのことえらく嫌ってたしな……。名前呼ばれるの嫌がるんじゃないか?」
ケンは悲しげに眉を垂らす。それは6年前にナガレを立ち去る際、ユミに冷たくあしらわれた時の表情とよく似ている。
「……残念ながらそれはそうかもしれません。ですがこのままではユミさんからケンさんに話かけることもないでしょう。どちらかが歩みよらなくてはならないのです」
そりの合わない相手であっても、鳩として意思疎通を図ろうしてきたという自負がクイにはある。
ケンも元は鳩なのだ。曲がりなりにも人と人とを繋げてきた彼なら分かってくれるはずだ、そんな期待を胸にじっと眼を見つめた。
「……善処する」
「ええ、それで充分です。ユミさんを呼んできますよ」
クイはその場で立ち上がる。
「ユミくんは傍まで来てるんだったよな? こんなところに女の子待たせて大丈夫だったのかい?」
アサの懸念は尤もである。
「そうですね。堅牢な護衛が一緒なので滅多なことは起こらないだろうとは思っておりますが……」
とは言ったものの、嫌な予感がよぎる。
「……とうに一刻は過ぎているはずなんですが」
砂時計を20回ひっくり返しても戻ってこなかったら、様子を見に来るように頼んであったのだ。
それがないということは、何かいざこざに巻き込まれているのではないだろうか。
「俺らも行こう」
クイの不安を察した様子でアサは立ち上がった。そしてケンにも目配せする。
「そう、だな」
ケンは重い腰を持ち上げた。
2人の言動に感謝を覚えながらこくりと頷いて見せると、クイは部屋の玄関口へと振り返り先陣を切って歩き出した。
土間で履物に足を通し、引き戸へと手をかける。しかし例のごとく滑りが悪いようだ。
抵抗を感じながらも腰に力を入れて勢いよく戸を開け放った。
クイの前に烏達の姿が露になる。クイらの話し合いが終わるまでずっと待っていたようだ。
しかしその数が増えている。部屋から出した時には7名ほどだったはずだが、今ではその倍の人数が控えていた。
「あ、あなた達……」
クイの背筋に緊張が走る。
元々はアサとケンとの交渉の後ろ盾のために集めたものだった。結果からすると全く必要なかったのだが。
今では後ろ盾どころか、後ろから刺す存在だとさえ言えよう。
「どうなった? マイハに連れて行ってくれんのか?」
最前に佇む大柄の男が口を開いた。
烏の頭にはもはやそれしかないのだろうか。
一瞬呆れるクイだったが、自身の蒔いた種である。
「あなた方の望みを叶える訳にはいきません」
背後にはケンとアサの控えていることもあるが、今ではクイ自身の意思であると言って良い。
いつもなら90度に腰を曲げ謝意を示すところだが、背筋を伸ばし問いかけてきた男をまっすぐ見据えて拒絶を示す。
「クイさん、あんたこいつらに禄でもない約束してたのか?」
「申し訳ございません。あまりにも軽率な――」
諫めるアサに振り返ろうとした時、クイの鼻頭へと拳が飛ぶ。
「てめえ、やっぱり適当なこと言いやがったな?」
鼻を押さえるクイの胸倉を大柄な烏が掴む。その手の甲には焦がされた烙印が燻っている。
「ええ……、そうですね。ですが……、私ももう退く訳には参りません」
ぽつりぽつりと、しかし確実に言葉を紡いでいく。
その態度が烏の気に触れたのか、クイの顎の下から拳が突き上げられた。
「やめろ! お前らがそういう奴だからナガレから出す訳にいかんのが分からんのか!!」
「うるせぇ! てめえの独裁にはいい加減うんざりなんだ。構うこたぁねえ。お前ら、こいつのことやっちまおうぜ!」
アサの怒声を一蹴すると、その男は後方に控える同志達へとクイの身柄を投げ渡した。
クイは烏達に取り囲まれる。腹が蹴られ、頭上には握り拳が落とされた。
「ぐぁっ……」
クイはたまらずその場に倒れこみ、地に向かって吐血する。
しかし、暴行は止まらない。
うつ伏せになったクイの背に、いくつもの足が降り注ぐ。
「クイさん!」
アサはその身をクイの元へと乗り出そうとするも、行く手を阻まれてしまう。
クイへの暴行の輪から溢れた男達が、横並びに立ち塞がっていた。その数は8名。
アサは決して弱くない。しかし多勢に無勢だ。肉の壁を前に、拳を握ったまま突き出すことができない。
「ケン、なんとかしろ!」
未だアサの背後で佇むケンに焦れる。
「……手加減ができなくなるぞ」
繰り広げられる惨状を前に、すでに体が疼き出していた。
「いいからやれ! ただし……、俺とクイさんは殴るなよ!」
アサが言い終わる前に、ケンは飛びかかっていた。
その拳が、肉の壁の中央を成していた烏の鳩尾を捉える。拳を打たれた男は間もなくその場で崩れ落ちる。壁に穴が穿たれた。
アサはすかさずその穴をくぐり抜ける。そこで倒れた男の頭部を踏みつけることも忘れずに。
「クイさん!」
再び客人へと呼びかける。しかし応答はない。
クイを取り囲む男は6名。未だに蹴りの応酬の止む気配もない。
「お前らいい加減にしろ! 殴られてぇのか!」
アサの咆哮も、烏達の耳には届かない。
縋るようにケンを振り返る。壁を成していた残りの7名を相手に奮闘中のようだ。多人数を相手に苦戦を強いられている。
防戦一方、立っているのがやっとというところだろうか。
これでは殴るという脅しも全く効力を持たない。
ケンが度々口にする、手加減をしない状態がどれほどのものかアサは未だに眼にしたことがない。
しかしこれが本気なのだとすると、些か興覚めだという気分にすらなる。
とは言え、より危機に瀕しているのは前方のクイだ。
曲りなりにも、ナガレの行く末を案じた彼のことを無下にする訳にはいかない。
自らを奮い立たせようと、両頬をぱんぱんと叩いたその時だった。
「こぉおおおらぁおおおおお!」
甲高い声が響き渡る。
男の巣窟とでも言うべきナガレにおいて、あまりにも不釣り合いな女の声である。
「なんだ?」
一時休戦とも言えようか。
クイに暴行を加える烏達と、ケンを取り囲む烏達の眼が一斉に声のした方へと向く。
それに釣られるように、アサとケンの視線も奪われる。
「私はサイ! 賽子のサイだ!」
そこには1人の女が立っていた。
足を肩幅に開き、腰に手を当て挑発的な笑みを浮かべている。
「サイ、さん……。良かった、無事だったんですね……」
クイは朦朧とする意識の中で、地に体を伏せながら声の主の姿を確かめる。
「おいお前ら! 男同士で乳繰り合って楽しいか? 今ならお色気むんむんのサイちゃんが相手してやってもいいぞ?」
サイは意味ありげに片目をつぶる。
「た・だ・し……」
言葉の節に合わせて顔の前で指を振る。
「私を倒すことができたらなぁ!」
サイはその場でくるりとそっぽを向いて尻を突き出す。そして烏達に向かって舌を見せ、右手で二度尻を打つとその場から駆け出して行った。
「相変わらず……、下品な人ですねぇ……」
クイは息を絶え絶えに、呆れた声を出す。
「おい、あの女やっちまわねぇか? なんとも見事なケツじゃねぇか」
「おう、おれもそうしたいと思ってたところだ」
「サイだと? おれぁあいつのせいで一財産失ったんだ。その結果こんなところに……。許さん!」
烏一同、各々の思いを胸に、サイの尻を追いかけていく。
ただ1名、クイの傍に佇む男を除いて。
「あなたは……、追いかけなくていいんですか?」
サイには悪いと思いながら、そうあってくれと願いクイは問うた。
「俺は女にゃあ、興味ねぇからな……」
「え……?」
舌なめずりをしながら見下ろしてくる男を見て、クイの全身から冷汗が溢れ出す。
クイの立場上、決して男色に偏見があるわけではない。
しかしそれが烏となると話が変わる。なぜこの男がナガレにいるのかを考えれば身の危険も感じるのだ。
「寝てろ」
太い声とともにその男の体が倒れこむ。
あわやクイの体の上へ重なってきそうだったので、力を振り絞って寝返りを打つ。
「ケン、さん……」
男を倒した者の姿を見上げる。肘をさすっているところを見るに、そこで男の頭を打ったのだろうか。
「ふん」
ケンが鼻で笑うと、駆け出した烏達の背に向かって走り出す。決してサイの尻を追いかけたのではないはずだ。
「クイさん!」
取り残されたアサがクイの元へ駆け寄ってくる。
「大丈夫か? あんた」
「え、ええ。どうにか……、うっ……」
口に鉄の味が広がり、喉に血が回る。
「こほっ、こほっ……」
「無理に喋らなくていい」
アサの手がクイの背をさする。
「いえ、私の、自業自得です……」
自身の浅はかな行動に対する罰なのだと考えると、少しだけ胸が軽くなる。アサもこのような気持ちで烙印に焼かれたのではないだろうか。
一方でケンの言葉も蘇る。
――この烙印は当然だ。だが、これでカラの気持ちが楽になったのか?
クイは此度の一件で多くの者を巻き込んだ。
クイが罰を受けたからと言って、誰も救われることはないのだ。
「さっきのが言ってた堅牢な護衛ってことか。確かに、あれならそう捕まることもないだろう……。ところでユミくんはどこに行ったんだい?」
「どうしたの、でしょうね。サイさんから、離れて、大丈夫、なのでしょう――」
「クイ!」
聞き覚えのある声とともに、足音が近づいてくる。
「ユミ、さん……。申し訳、ございません……」
クイが傷つけてしまった張本人である。いっそこの哀れな姿に指を差して笑ってくれないだろうかと願う。
クイへの罰がユミを救わないとしても、道化としての役割果たせるなら傷ついた甲斐があるというものだ。
ユミの足がクイの眼前まで迫ると、ぐっとその場でしゃがみ込み、とびっきりの笑顔を湛えて見せた。
「クイのばあああああか!」
「……え?」
願いはしたものの、いざ笑われてみると蟀谷あたりにぴりっと来るものがあった。
「気は済んだ? 私はちょっとだけすっきりしたよ!」
どうやらユミなりの気遣いだったらしい。
「ふふ……、なんとも、あなたらしい……」
この調子なら、ひとまずはわだかまり無く話をすることができそうだ。
「ユミくん! ……大きくなって」
アサが懐かし気に声を上げる。
「アサ! その……、ミズのこと……」
「気にしなくていい。ユミくんのせいじゃない。考えてみりゃ、娘をこんなところに来させようっていう方がどうかしてるんだ。ミズには平穏に暮らしてもらいたい」
アサは気丈に振舞っているだけではないだろうか。しかしその表情から本音は伺えなかった。
「この子のことは私が幸せにする。アサも元気で――」
「ユミくん? 何だいそれは?」
意味深長なユミの言葉に、アサは首を傾げた。
「サラさん言葉。アサにちゃんと伝えなきゃって……」
「サラ、だと?」
アサは眼を丸くする。
「うん。これからはミズの代わりに、私が言葉を届けることができる……」
「そう……、か。それはありがたい……、が。俺がユミくんに頼んでいいことじゃないだろうな……」
アサの顔から深い葛藤を伺える。
「アサさんは……、許されて良いと……、思い、ます……」
「クイさん、心遣いは受けありがたいが……」
「大手を振って、歩く訳にはいかない、でしょうが……、サラさんと、言葉を重ねる、ぐらいなら……、こほっこほっ」
クイは苦そうに体を丸くした。
「とにかく無理をしないでくれ。手当をしてやりたいが、あいにく大した道具もないんだ……」
「気に、しないで、ください……。少し休めば……、這ってでも、ウラヤに、帰りますから……。ラシノへの、同行は……、無理そう、ですが……」
ユミもさすがに心苦しくなってくる。
「もういいから! ケンには何を伝えたの? それだけ教えて。ケンはラシノについて来てくれるの?」
「それは……、ユミさん、次第です……。ケンさんには、ユミさんとの……、関係は、伝えていません、ので……」
「うん、分かった。じゃあ、そのケンを助けに行かないと――」
ユミはサイに続く烏と、ケンが駆けていった方角を見据える。
「いや、それは俺に任せてくれ。さすがにユミくんには危険すぎる。ユミくんはクイさんを見てやってくれ」
そう言うと、クイと共に横たわる男に眼を落とした。先ほどケンに倒された男である。
「こいつも邪魔だよな……。ついでに捨ててくる」
アサはよいしょという掛け声とともに男を肩へと担ぎ上げた。そしてゆっくりとケンの元へと歩いていく。
「ユミ……、さん。改めて、申し訳ありません、でした」
遠ざかっていくアサの背を見ながら、クイは口を開いた。
「もういいってば! 気持ちの悪い!」
「もう、ユミさんのことを、利用しようなんて、思いませんから……」
相変わらず話を続けようとするクイを見て、健気だと思う気持ちが芽生え始める。
「別にね、私を利用するなとは言わないの。ちゃんと話をすれば、どこかできっと妥協点は見つけられるんだから」
「はい……、仰る、通りです……、ね。肝に、銘じます……」
クイに伝えたかったことは伝えた。ユミが口を開く度にクイは無理をしてしまうだろう。
これで話は終わりだと言うように、ユミは体を横たえるクイの傍へと腰を下ろした。
そしてふうと息をつく。
アサの穏やかな雰囲気からして、クイの交渉が決裂した訳ではないのだろう。
むしろ話に関係のない烏達によって、クイのこの惨状がもたらされたのだ。
クイの思考力は確かに眼を見張るものがある。ところが人は得てして誤るものだ。それを防ぐために報連相は重要なのだ。
これまでは主にユミが相談に乗ってもらう立場だった。
しかしながら、此度のことでクイも多少は懲りたはずだ。より謙虚な心構えで、ユミに接して欲しいものである。
それはともかくとして、今からサイを追いかけるのはどう考えても足手まといでしかない。
無力さを感じながら、ぼうっと虚空を眺めていた。
「おとーさん?」
不意に幼い声が聞こえてくる。
もしや、まだナガレの鳩の候補たる子供が居るのだろうか。
ありもしない想像を膨らませながら、ユミは声のする方向に眼を向けた。
「……ハリ?」




