第十一節 第五十話 火種
トミサを囲う塀に設えられた門の1つ。門の両脇に立てられた篝籠に、煌々と燃える火が揺らめき、時折ぱちりと音が鳴る。
その篝火の間に、アサは1人佇んでいた。右手には身の丈ほどの棒を携えている。
本来であればもう1人、女の鳩とともに警備するべきこの場所なのだが、当該の彼女は花を摘みに行くと言って立ち去ってしまった。
持ち場を離れることは望ましくないが、この時間にトミサへと訪れる者など稀である。
まだ若い彼女の些細な願いを聞けぬほど、アサは野暮でなかった。
視線の先に立ち並ぶ森の木々達も、頭上に広がる星空も、まるで変わり映えがしない。
暇だと感じながら、1つ大きな欠伸をする。
しかしそれもうかつな行動だったと思い、慌てたように首を振る。
今年32になるアサだったが、未だに鴦を持たない。
本人にその意思のないことが主な要因であるが、トミサの中を手を繋ぎ歩く親子の姿を眺めるのは好きだった。
今後自身の子を持つこともないだろうが、せめてこの門の内にあるかけがえのない未来を守らなくてはと、自らの頬をぺしりと叩いた。
門番の女はまだ戻る気配がない。
ところが、彼方に見える森から横並びに3つの人影が迫ってくるようだ。
篝火の光へと近づいてくる度に、その姿が少しずつ露になる。
人影の内の2つはアサも知る鳩のものであり、トミサのエダとサクラの村のコマだ。その2人は鴛と鴦との関係にある。
アサは職務上、軽く言葉を交わす程度の間柄だった。
一方で残る1つの人影に見覚えはないが、妙齢の女だということは判別できた。コマはその女に寄り添うように肩を抱いている。
状況を把握したアサの眉間の皺が深くなる。
それでも、やがて三人はアサの目の前まで辿り着く。
エダがさらに一歩踏み出すと、その場に膝を折り、地に手を付けた。
「助けてください。アサさん」
エダの頭が深々と下ろされる。
アサは呆気に取られるしかなかった。
「な、なんだ。どうしたんだ一体?」
頭を下げられる謂れなどなく、思わず身を屈めてエダの両肩に手を置いた。
しかしエダは動かない。代わりにアサの頭上からコマの声が聞こえてくる。
「アサさん。彼女はサクラの村のサラです。私の……、古くからの友人です」
アサは不審げに顔を上げ、コマの隣に佇むサラへと視線を這わす。
コマの手の置かれたサラの肩口が微かに震えている。篝火に照らされ青白く光る顔も相まって、怯えた様子が見て取れる。
またゆったりと巻かれた帯の下でほのかに膨らむ腹は、ほっそりとした手足に不釣り合いな印象だ。
「彼女……、身籠っているのか?」
あまり好ましくは思われないだろうと感じながらも、アサの視線はサラの腹へと釘付けになっていた。
「はい、仰る通りです。彼女とその子供を助けて頂きたく、ここまで足を運んだ次第です」
相変わらず頭を地に伏したままでエダが答える。
「まさか……、お前の?」
助けてくれとはどういうことかと考えた結果の問いであった。
「ち、違いますよアサさん! れっきとした彼女の鴛の子供です!」
決して茶化したつもりはなかったのだが、冗談じゃないと言わんばかりにエダが立ち上がる。
「その鴛に問題があるんです!」
エダが鴛と発する度、横目にもサラの肩がびくりと動くのが分かった。
「その鴛から逃げてきたということか? サラさんは。察するに……、暴力とか?」
「ええ。サラの鴛はホシというのですが、とんでも無い奴でした。そしてそのホシをサクラに案内したのは……、俺です」
今度は立ったまま項垂れる。
それを見かねたように、黙っていたサラがようやく口を開く。
「やめてエダ。ホシの鴛鴦文に書かれた甘い言葉の真意を見抜けなかったのは、私だから……」
やはり声は震えていた。サラの肩を抱くコマの腕にぐっと力がこもる。
それに勇気づけられたのか、サラは顔を上げ視線をアサへとまっすぐ向けた。
「この子だけでも助けてあげたいの。乱暴な父親のことなど知らず生きていけるような、そんな未来を与えてあげられないでしょうか?」
腹を大事そうに撫でながら、必死に訴えかけてくる。
サラの言葉に具体的な要求は含まれていないが、要はトミサの中でホシの暴力から匿ってくれということだ。
鳩の縛めに従えば、鳩でも無い者がトミサの門をくぐる機会は多くない。主な機会と言えば、鴛鴦の契りを結んだことにより鴛と鴦とのどちらかが他方の村に移住する際である。サラの鴛であるホシが、既にサクラへと移住した後なのであれば、今後サラがトミサへ足を踏み入れることなどないはずなのだ。
鳩でないサラがその事実を知るか否かを問わず、門番たるアサはここで足止めする義務がある。
しかしつい先刻、かけがえのない未来を守らなくてはとおぼろげながらに夢想したところである。
腹を撫でるサラの手の下から、命の鼓動が聞こえてくる気がした。
「エダくん。君はサラさんに何と言ってここまで連れて来たんだい?」
「すみません。実は何も……。逃げるとすればここしかないとだけ……」
ばつが悪そうにその場で肩をすくめる。先ほど頭を下げてきた理由がここにあるのだろう。
「……コマくんは?」
「私も……、エダに便乗しました。その……、行けば何とかなるだろうと……」
鳩としてあまりにも無責任と言わざるを得ない。
刹那、呆れて物が言えなくなってしまった。
鳩の縛めの原則は人々の安全を守ることにある。
この森に閉ざされたイイバにおいて、鳩無くして生活は立ち行かない。裏を返せば鳩によって世界が支配されているとさえ言える。
鳩が無秩序に行動しようものなら、鳩で無い者に不当な不利益を与えることにもなりかねない。
鳩の縛めはその抑止力にもなり得るのだ。
ましてや妊婦を引き連れて森を歩こうなど、正気の沙汰とは思えない。
しかし、そこまで考えておかしなことに気づく。
――人々の安全を守る?
今アサの眼の前にいるのは、正に暴力から逃げて来た女性だ。
エダとコマはサラの安全を守るためにここまでやって来たのだ。
彼らを拒絶する理由などあるのだろうか。
「……サラさんを中に入れてあげよう」
自然と声が出ていた。
「いいのですか?」
エダが眼を丸くする。
「良いも何も、そのために来たんだろう?」
「え、ええ。そうですが……」
先ほどはアサに手をついて見せたぐらいだ。あまりにもあっさりとした回答に面を食らうのも無理はない。
「だが、俺の責任でな。尊い命を救ったという手柄は俺のもんだ」
その功績を誇るかのように、朗らかに笑って見せた。
「あ、ありがとうございます! ほらサラもお礼を言って……」
コマが、サラの肩を抱いていた手でぽんぽんと叩く。
「あ、りがとうございます……」
少し緊張が解けて来たのか、礼を言う口には少し綻びが見えた。
「ただサラさんにも理解してもらいたいんだが、本来はこの門を通しちゃいけないんだ。つまりサラさんには身を隠してもらう必要がある」
「……そうなんですか? もし私が見つかってしまったら?」
サラの顔が再び曇る。
「サクラに強制送還されるか、最悪の場合カトリという流刑地に送られることになる」
「それなら最悪の場合の方がいい! あんな男の所に戻るなんて嫌!」
そう言うと、大事な物を守るようにぐっと身を丸くする。
「戻るにしても、せめてこの子が生まれてから……」
「なら少し我慢してもらわなければならない。その……、ひとまずは俺ん家に隠れてもらうことになるかなと……」
部屋の中は常に小奇麗にしているつもりではあったが、三十路過ぎの男の家に上がり込むのは抵抗もあるだろうと、伏し目がちにサラの表情を伺う。
「構いませんアサさん。あなたからはあの男のような邪悪さは微塵も感じません」
「そ、そうかなら良かった」
先ほどまでの怯えた様子とは打って変わって、今ではしっかりとアサの眼を見据えている。本来は強い女性なのだろう。
「と言う訳で、今から俺の家にサラさんを連れていく。エダくんとコマくんは俺が戻るまでこの門を守っていてくれないか?」
「はい。もちろんそれは良いのですが……、いつまでもサラを隠せるわけではないですよね?」
コマの問いかけからは、申し訳なさとアサに対する疑念が含まれていた。
「まあ何とかなるだろう。コマくんもそう言ったよな。そうだな、赤子だけでもと言うのなら、いずれウラヤにでも送ってやればいいんじゃないか? なあエダくん」
「え、ああ。な、なるほど……」
突然名指しされ、しどろもどろになるエダをコマがぎろりと睨んだ。
「とにかく、若いあんたらは気にするなってことだ。じゃあ行こうかサラさん」
アサは努めて優しい笑顔を作り、サラに手を差し出す。
サラは自身の意志を示すべく、しっかりとその手を取った。
――――
「ほとんど衝動的な行動だったな。変わり映えのしない日常に何かを刺激を求めてしまったところもある」
アサは感慨深げに呟く。
「言い方は悪いが、サラは俺の家にほとんど軟禁状態だった。それでもどこかほっとした様子だったな。俺が家で寝てようと、仕事で外に出ていようと、何も不満を漏らすことはなかった。本当に赤子さえ無事ならそれでいいと思ってたんだろう」
母は強いものだ。話を聞いていたクイも自身の鴦のことを思い浮かべていた。子を抱え森を歩き回るなど、到底真似できることではないとかねてから感じていたのだった。
そしてアサに語られる赤子について、他にも気になる点があった。
「あの、もしやその赤子と言うのは……?」
「そうだミズだ。俺の子じゃない。まあ、お互いに親子だと思ってるなら別に問題ないだろう」
ことも無さげにアサは語る。
「ミズさんはそのことをご存じで……?」
「さあどうだろうな。俺からは話してない。サラが話していたら知っているだろうが……」
「あの、ありがとうございます。そのようなお話を私にして頂いて」
察するにサラはホシのことなど記憶から抹消し、ミズに事の真相を伝えてはいないだろう。
その関係をかき乱すのも無粋なことである。ミズと再会した折には、口を滑らさないように気を付けねばと決意した。
「しかし、現にアサさんはナガレにいらっしゃるのですよね。ばれてしまったということでしょうか。それに反してサラさんは今もトミサに暮らし続けているという……」
門番の独断で他の村の住人をトミサに招き入れるという例など、クイも耳にしたことがない。
何か特殊な審判が下されたということだろうか。言葉を選びつつも、アサに話の続きを促さずにはいられなかった。
「ああそういうことだ。サラの隠匿生活を続けられたのも7日間が限度だった。その後ごたごたがあってな……」
サラを迎え入れた経緯を口にするアサは楽しそうだとすら感じていた。
しかし今度は口が重そうである。
「ホシが押しかけて来たんだ。コマを人質にとってな」
――――
「助けてください。アサさん」
エダの頭が深々と下ろされる。
アサの眼に、丁度7日前にも繰り広げられた光景が映っていた。時間も場所も変わらない。
しかし視野を広げてみれば、当時と状況はまるで異なることが分かる。
「サラを出せ」
コマの体の前に抱え、首元に小刀を突き付けた男が唸る。
その少しふくよかな男によって、コマの体はがっちりと拘束されていた。
「……お前がホシか」
男は問いに答えず、代わりにアサの眼をきっと睨む。
「てめえか。人の鴦を誑かしやがったのは」
それがホシの認識なのかとアサは絶句する。
アサはまだサラと交わした言葉は多くない。お互いにあまり親しくならないよう、適度な距離感を保つように心がけていた。
そしてサラとホシについては、ともに愛情の失われた関係なのだと思い込んでいたが、少なくともホシは未だに鴛鴦の繋がりを疑ってはいないようだ。
とは言え眼の前の男に、認識の相違の是正など意味を為さないことだろう。
何よりも優先すべきはコマの安全である。
「話は聞いてやる。まずはその小刀をしまってくれない――」
「動くな!」
コマに突き立てていた小刀がピクリと動く。
「ひっ……」
コマの体が小刻みに震え、眼からは涙があふれ出す。
エダはアサに頭を下げた状態のまま唇を噛む。
「まずはその棒を手放せ!」
アサは素直に従った。足元に棒が倒れ、からんと音が鳴る。
「そしたら次はサラだ。そしたらこの女にもう用はない」
サラがホシを嫌悪する理由が良く分かる。
心からサラを求めるのであれば、優しく接すれば良いだけのことだ。
サラの言葉から察するに、鴛鴦文を交わしあっていた当時はそのようにしていたはずだ。文の文面においても、文を託した鳩に対しても、人好きのする態度を見せていたのだろう。
森に閉ざされたこの地は基本的に逃げ場がない。その特性を理解しているのか、サラを魅了し鴛鴦として引き込んだ後に本性をさらけ出すようになったのだろう。
しかし現に、そのサラには逃げられてしまった。思い通りにならない現実が、ホシにここまでの凶行を指示しているのだ。
「……女に逃げられる辛さは分かるつもりだ。俺も昨年――」
「うるさい!」
共感の意を示そうと、飲み屋の娘に拒絶されたという門外不出の与太話を聞かせてやろうと思ったのだが、呆気なく一蹴されてしまう。
コマの潤んだ眼を見ると、軽率な試みだったと言わざるを得ない。
「すまないが話し合いでは解決できそうにないな」
ホシには届かないように、極力声量を抑えて足元のエダに向けて呟く。
「……はい。そういう奴です」
震える声には憎しみを帯びていた。
俄然なんとかしてやりたいという意欲が湧いてくる。
門番に就くにあたって、最低限の体術は身に着けていた。
しかしこの状況下である。下手は打てない。
人質を取った相手に対しては、撹乱行動が有効とされる。
何か使えるものはないか。アサは耳を澄まし、思考を巡らせる。
後方から、篝火の薪がばちんと爆ぜる音が聞こえた。
「エダくん。今から一か八かの奇襲をかける。俺が今だと言ったら、コマくんに向かって走って――」
「何ごちゃごちゃ言ってやがる! こいつが惜しけりゃとっとサラを呼んで来い!」
逆説的に、サラを呼んでこない限りはこの男もコマに手出しができないはずだ。
具体的な作戦が決まり、アサは冷静になっていた。
話はぶった切られてしまったが、エダにも意図は伝わったはずだ。
「すまない。サラさんを呼んでくると話していただけなんだ。彼女は塀の中にいるから少しだけ待っといてくれないか?」
ホシは同意したのか、ふうと息を吐く。
――よし、奴も少し落ち着いたようだ。
アサはホシに背を向け、そびえ立つ門に向き合った。そしてゆっくりと歩いていく。
手を伸ばせば門扉に届くいう距離まで近づいたその時、アサはくるりと振り返り、門の脇に立つ篝籠の脚を手に取り、ホシの顔面に向かって投げつけた。
「うわっ!」
ホシはコマを抱えたまま身を捩る。
「今だ!」
手筈通り、エダが走り出す。
「コマ!」
コマを拘束していたホシの手は力が失われていたようだ。
エダは奪い取るようにコマの体をぎゅっと抱きしめると、あっさりとホシから解放される。そのまま駆け抜け、ホシから距離をとった。
「うぉおおおお!」
もう脅威はない。アサは雄たけびを上げながら走って距離を詰め、小刀を握るホシの右手に手刀を振り下ろした。
しかし、その手はびくともしない。
「おらぁああ!」
ホシがアサを押し返す。アサは受け流すように後方へ飛んだ。しかし、その勢いで刃先が手首を掠める。
「ぐっ……」
思わず痛みの感じた個所に手をあてがった。じわりと血が滲むが、傷は浅い。
ホシはアサに向かって絶え間なく切りつけ始める。まるで箍が外れてしまったようだ。アサは安全な距離を保つように後ずさる。
このホシに背を向けるのは危険である。手放した棒を拾わなかったことが悔やまれる。
「その辺でやめとけ!」
アサの勧告も虚しく、ホシは渾身の突きで応じる。アサはとっさに体を左へ傾け、すんでのところで躱した。
そして伸ばされたホシの腕を掴む。
「サラさんがお前の元に戻ってくることはない!」
間近にあるホシの顔に向かって、投げかけた。しかし、ホシの眼を見てはっと息を飲む。
「おまえ……、泣いてんのか?」
掴んだホシの腕が震えている。明らかに動揺しているようだ。
これを好機とばかりにその腕を捻り、体を地に伏せさせる。
力の失われたホシの手先から小刀を分捕り、刃先をホシに向けた。
「観念しろ。おとなしく従えば悪いようには――」
「うがぁあああああああ!!!」
自らを奮い立たせるための猛りだったのだろうか、ホシは立ち上がりアサに飛びかかる。
不意を突かれたアサは、その場から動くことが出来無かった。
ホシの胸に、真っすぐに向けたままの刃が深く突き刺さっていた。
――――
「人の胸を貫く感触は今でも忘れることはない。他でもないミズの父親をな」
アサの告白を聞き、クイはぽかんと口を開けたまま閉じることができなくなっていた。
ナガレと言う魔境に暮らしながらも思慮深さを維持していたアサが、人1人を亡き者にしていたとは想像もつかなかった。
「結局ホシの粛清によって全てがばれた。責任は俺が全て負うつもりだったが、さすがにそうもいかなかった。それでもエダとコマが100日間の謹慎処分で済んだのはましな方だろう」
「それで、アサさんについては……」
烙印を負い、現在ナガレにいることを考えれば聞くまでも無い事であるが、情状酌量の余地があったのではないかとクイは感じてしまう。
「ホシを討ったこと自体は……、むしろこれの方が重いんと思うんだが、ほとんど糾弾されることはなかった」
「ええ、そうであって欲しいと思います」
アサは辛い話をしてくれているはずだ。理解の意思を示そうとクイは傾聴に徹する。
「しかし、元はと言えばサラをトミサに招きいれたことが原因だ。門番の務めについては鳩の縛めにも明示されていることだしな。それを独断で反したのだから、お咎めなしと言う訳にはいかないさ」
「理屈は分かりますが……。アサさんがその決断をしなければサラさんがどうなっていたか分かりません。お腹のミズさんとともに……」
アサはお咎めという柔らかい言葉を使うが、それにしては処遇が重すぎる。人の命を救ったという事実は賞賛すらされても良いのではないかと感じていた。
「そうだ。分からないんだ。分からずに済んだと言っても良いだろう」
「え?」
「あまりエダとコマを責めたくは無いんだが、もしサラをナガレへ連れて来なければ、ことはサクラの村で完結し、俺をはじめトミサの連中が知る由もないことだった」
「それはそうかもしれませんが……」
クイ自身、門の外に出れば諍いの1つや2つあるのだろうと考えたことがある。
しかし、トミサに住む限りそれを可視化することはできない。たとえ人命に関わることであったとしても。
その中には、サラがトミサへ来なかった場合に想定される事態が含まれていてもおかしくはない。
おかしくはないのだが、クイはそこまで考えることを避けていた。
アサの言葉に自身の浅慮さを指摘された気がして、それ以上言葉を紡げなくなってしまった。
「話には続きがあるんだ。ホシの死は彼の故郷、ガウラの村の家族に通達された。どうなったと思う?」
「……身内の愚行を恥じつつ、悲しみ喘いだ?」
「ふふ、クイさん。あんたのことは腹黒い奴だと思っていたが、本当はいい奴なんだな。心の根っこの部分では人を憎むことを知らないというか……。あ、いや悪い意味じゃない。これでも褒めてるつもりなんだ」
クイとしても決して悪い気がした訳でもなかった。滅多なことでいい奴などと評価を受けることも無いため、思わず眉をひそめてしまっただけだった。
「そいつらはトミサに乗り込んできやがったんだ。ホシと同じ方法を使ってな。恐らく家族ぐるみでそういう集団だったんだと思う。奴らの要求は俺とサラの身柄だった。まだ俺の処遇が確定しない頃の出来事で、俺は獄中に居たんだが」
「それで?」
アサの声が少しずつ重苦しくなっていくのを感じていた。クイもごくりと固唾を飲む。
「やって来た奴らは5名。……残らず粛清したそうだ。それに伴いトミサ側の犠牲も生まれたんだと」
「なっ……」
その光景に反して、あまりにもあっさりとした説明である。
しかしクイが、その状況を思い描くには十分だった。
「結果がどうであろうと、サラを匿ったことについては後悔しないでいようと思ってたんだが、さすがにその時は震えが来たよ。殺戮の発端になっちまったってな」
その当時を思い出すかのように、アサはがっくりと肩を落とす。
「それで俺は懇願した。烙印を与え、ナガレに送ってくれとな。今思えば……、逃げだったかもしれない。烙印を押されている時には、これで良いとすら感じていたからな」
アサの罪の意識がひしひしと伝わってくる。罪に対する罰を求める気持ちも、分からなくはない。
「ナガレに送られてからは、俺はこういう風にも考えるようになった。むしろこれだけの犠牲で済んだんだって」
「これ……、だけ?」
1人の命でも重いものである。先ほどまでのアサの後悔に反して、急に言葉が軽くなったことに違和感を覚えた。
「トミサと接触するにはあの門をくぐらなければならない。よって争いは門前で収束した。ホシ一家に恨みを持つ者もいたはずだが、塀に囲まれているため復讐に赴くこともできない」
アサはクイの顔をぐっと覗き込む。
「鳩の縛めがあったおかげで、それ以上に争いが大きくはならなかったんだ」
「なるほ、ど……」
「逆に塀が無ければ? 人々が自由に動き回れるようになってしまったら?」
アサの主張したいことが見えてきて、背筋にぞっと悪寒が走る。
「地獄の、始まりかもしれませんね……」
「元を質せば悪いのはホシだろう。それでもホシに刃を向けてしまったのは、過剰な防衛だと捉える者がいるのも当然だ。俺だってそう感じてるんだから」
「そんな、ことは……」
否定もし切れず言い淀む。
「理由はともかく、殴られたから殴り返す。殴り足りなければ、誰か他のものに協力を要請する。いずれ元は誰が悪いかなんてどうでも良くなる。それが争いという物だ」
「さ、さすがに飛躍し過ぎた考えなのでは?」
クイは気分が悪くなっていた。本来は血を見るのも嫌な性分なのだ。
「それもそうだな。俺のやらかしによる影響が最小限に抑えられたのだと思うための、俺にとって都合の良い考えだと言えるかもしれないな」
アサは自虐的に笑って見せる。
「しかし、鳩の縛めという形で決められていることだ。トミサを介さずして村を渡り歩いてはならないと。そしてそのトミサは強固な塀で守られていると。こうして人々の行動を制限し、大きな争いへの発展を防いでいるというのは事実だ、と言うのが俺の導き出した結論だ。鳩の縛めの存在意義に関するな」
「あ、りがとうございます。ここまでお話し頂いて……」
クイはそれ以上、言葉を発することができなかった。あまりにも規模の大きな話に圧倒されてしまっていた。
しかし自由な世界を作りたいと考えていたぐらいなのだ。アサの話の多くは想像で占められてはいるが、決して無視できない考えなのだと思い至った。
「ナガレに居る連中は、そんな争いの火種になるような奴らばかりだ。あまりかき乱さないでもらいたいな」
「す、すみません。あまりにも軽率でした」
クイはその場に手を付き、深々と頭を下げた。
この間、ずっと黙っていたケンがふんと鼻で笑って見せる。
「だがクイさん。あんたが主張する自由な世界で救えるものがあると言うのも事実だと思うんだ」
「はい……?」
アサの声がどこまでも温かく感じ、自然と頭が上がる。
「サラの今があるのは、自由を求めてホシから逃げ出したおかげだ。さっきクイさんもそう言ってたよな。その意志まで否定したくない。俺のしでかしたことの大きな問題点は、罰を恐れてサラを迎えたことを黙っていたことだ。考えてみりゃばれて当然なんだ。本気でサラのことをなんとかしてやりたいと思うのなら、然るべきところに報告するべきだった」
アサの言葉がクイの胸に深く突き刺さる。本気で自由な世界を望むのならば、秘密裏に画策するなどどうかしていた。
「そう……、ですね。もっと考えて行動してみようと思います」
何故ちっぽけな自分に成し遂げられると思ったのか。大きな修羅場を乗り越えたアサを前に、無力さを突きつけられた気がした。
「ところで、そのサラさんについてなんですが――」
「ああ、当然疑問に思うよな。司法の奴らも、獄中で烙印を与えてくれと懇願する俺を哀れだと思ったようだ。特別な計らいとして、ミズをナガレで出産し、その後もサラがトミサで暮らすことを許してくれたよ。俺がナガレの奴らを管理するのと引き換えにな」
「司法官も意外に柔軟な考えをお持ちだったんですね。それにサラさんも同意したと……」
「ああ、俺も意外に思ったよ。まさか俺のことを鴛のように慕ってくれるとはな」
――罪を翔けぬ翼に 焦がされた烏
帰る場所を違えて 眠る鴛と鴦
かつてミズが歌っていた歌の一節である。
ここにサラの想いが集約されているのだろう。
「奇妙なものだが、サラとミズと、一緒に暮らしていた時が俺にとって一番幸せだったかもしれないな。俺の好きな物を大事にしようと心から思えた」
アサとミズの親子関係の成立は傍から見れば信じられないことかもしれない。しかし好きな物というアサの言葉から誇りを感じ取ることができた。
知らぬうちにその精神がミズに受け継がれていたのだろうとクイは感じ入っていた。




