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鳩の縛め  作者: ベンゼン環P
第一章 孵卵
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第五節 第五話 鴛鴦

要約動画はこちらから(https://youtube.com/shorts/8VLbq1nn6ww)

「キリは今、森がどう見えてるの?」

「どうって?」

 漠然とした質問だ。その意図が伝わらないのも無理はない。

 2人は手を繋ぎ、既に森へと足を踏み入れていた。

 鳩の素質があると思われるユミはラシノから現在地点までの道のりを覚えている。戻ろうと思えばキリの自宅へ帰ることができる。

 一方でキリは同じことができるのだろうか?

「例えば今、この手を離したとし……」

「ダメ!……こわい。」

 つなぐ手を緩めようとするとキリは食い入るように叫んだ。ユミは慌てて強く握り直す。

「ごめんね。……怖かったよね。」

 孵卵の初日、目覚めてすぐ辺りを見渡した時、ユミはそこまで森に対して恐怖を抱かなかった。だからこそ歩いてきた道のりを覚えることができたのだと思う。

 先ほどのキリの反応を見ると、大人たちが森に入るなと言い聞かせてきたことに納得がいく。恐らくキリの方が正常なのだろう。

 それにしても孵卵の受験者は早ければ3日で音を上げるとのことだが、キリなら3日も正気を保っていられるとは思えない。まさか試験監督は最低でも3日は様子を見るのだろうか。

「ありがとうユミ。絶対に手を離さないでね。」

「うん。約束する。」

 ユミの腕に縋りついたキリは徐々に落ち着きを取り戻したようだった。

 

 「ねえキリ。ほんとにアイに黙って出てきてよかった?」

 ユミはこの期に及んで我ながら卑怯なことを聞いたなと思う。

 キリのことをすっかり気に入ってしまったユミは、キリが帰りたいと駄々をこねたとしてもラシノへ戻るつもりはなかった。森の中ではユミが完全に主導権を握っているのだ。

「……母さんは僕がいなくなってもなんとも思わないよ。」

 強がった口調にも聞こえるが、諦めの感情の方が強いのだろう。

「アイからは森に出るなと言われて来なかった?」

「そんなこと言われたことない。」

 森に入るなと散々言われて来たユミにとって、それはよっぽどのことだと思う。アイはキリのことを何だと思っていたのだろう。

「それでも森に出たのは初めて?」

「うん。父さんからは出ないように言われてたから。」

 またキリの父親の話になってしまった。父親はちゃんとキリに優しかったようだ。

「お父さんとアイは仲良かったの?」

 あまり父親のことを深堀しない方が良いかとも思ったが、訊いてみる。

「……父さんは母さんのこと大好きだった。」

 逆は言うまでも無いということだろうか。どうして二人は結ばれたのだろう。

「父さんがいなくなっても、母さんは悲しそうにはしなかった。でも……。」

 キリは声を詰まらせる。

「その日から母さんは僕を叩くようになった。」

 多少なりともアイはキリの父親を愛していたと見るべきか。それとも……。

「多分、父さんが僕のことを守ってくれてたんだと思う。」

 ――そっちか。だったら、

「これからは私がキリを守るね。」

「ユミ――。」

 キリがユミの眼をじっと見つめる。


 突然、キリは眼を背け、その場にしゃがみ込んだ。

 ひどく怯えているようだった。体がぶるぶる震えている。

「どうしたのキリ!?」

「見ないで!!」

 ユミは驚いて繋いでいた手を離してしまった。

「手は離さないで!!」

 何が何だか分からないユミはその小さな体を両腕で抱え込んだ。

「私はここにいるから。」

「ごめん、ユミ……。でも今は、眼だけは見ないで。」

 キリの言葉が胸に刺さる。守りたいと思っていた存在から投げかけられた拒絶の声。

「大丈夫、すぐおさまるから。ユミの眼もちゃんと見るから。」

 ――眼か。私はどんな眼をしているんだろう。

 アイからは眼に異常な執着を向けられた。一方キリからは、現在眼を拒絶されている。

 ユミはうっすらと川面に移る姿でしか自分の眼を見たことが無かったが、今はとてつもなく悲しい眼になっているのだろうと思った。


 怪我を負っていたとはいえ、ユミがイチカからラシノまで歩いた時には半日以上要した。

 この日、ラシノを発ったのが昼過ぎであったので、日が出ている内にイチカへたどり着くのは無理があった。

 再び森を歩き始めた二人をだんだん闇が包んでいく。幸いにもこの日は満月で、何とか地表を見ながら歩くことができた。

「ねえユミ。今はどこに向かっているの?ウラヤの場所は分からないんだよね?」

 暗さで不安が増したのかキリが尋ねてくる。ちゃんと説明していなかったが、ここまで黙ってついて来てくれていたのだ。

「イチカってところ。私が名前を付けたんだけどね。」

「そこって遠いの?」

「もう少しだから、頑張ろうね。」

 嘘は言っていなかったが、ユミも疲労を感じていた。そのもう少しが遠く感じてしまう。

「うん。大丈夫。」

 キリは明るく振舞おうと笑顔を見せたが、声から力が失われていた。

 孵卵の初日、ユミは所構わず寝てしまったが今はキリがいる。

 キリがユミより先に就寝し、後に起床するのであれば、キリが起きている間ずっと手を繋いであげることができる。

 しかし、森に慣れたユミより、キリの方が寝付くのに時間がかかるだろうというのが道理だ。

 ユミに先に寝付かれた後、(うつつ)へ取り残されたキリはどうなってしまうのだろう。

 もちろんイチカであれば一人でも怖くないという保障はないが、少なくとも獣に襲われる危険性は下がるだろう。

 挿絵(By みてみん)

「ユミ、あれ……。」

 獣のことを考えたせいだろうか、キリの視線の先に眼をやると牡鹿が睨みつけてきているのが見えた。月明かりで眼を光らせているのが不気味な印象だ。今にも二人に飛び掛かろうとしているようにも見える。

「鹿だね。大丈夫……、鹿は草食性だから私たちを食べることはないよ。」

 ユミは努めて冷静になり、ヤマから教わったことを口に出す。しかし、不覚にもその声は震えていた。

 キリがばっと握っていた手を離す。

「キリ?」

 怖くないのかと問おうとすると、再び手を取り今度はキリの指と指の間にユミの指を絡めた。先ほどよりも一層強く握りしめてくる。

 その手と手の間から汗が滲むのを感じた。

「大丈夫。僕だってユミを守りたいんだ。」

 キリは静かに、しかし力強く声を発する。全く震えなど感じなかった。

 キリは鹿の眼をじっと見つめその場を動かない。刻一刻と時が過ぎて行く――。

 

 やがて鹿は諦めたかのようにその場を立ち去った。

「ふぅ。」

 キリは膝から崩れ落ちる。さぞ神経をすり減らしたをことだろう。

 ユミはご褒美と言わんばかりに、両手でわしゃわしゃとキリの頭を撫でまわす。

「ありがとう、キリ。とってもかっこよかった。」

「ユミが無事で良かった。」

 キリがじっとユミの眼を見つめる。今度はそのまま視線を捕えて離そうとしなかった。

「うん、もう大丈夫。」

 ぼそっとキリが呟いた。


 鹿が立ち去った場所でしばらく見つめ合っていた二人だが、今度はユミの方が耐えられなくなり立ち上がる。

「よし、少し休憩もできたし、もうひと踏ん張りだよ。」

「うん、行こうユミ。」

 手の繋ぎ方はラシノを発った時の仕様に戻っており、ユミはそれが少し寂しく思えてしまった。

 

 程なくして二人はイチカに辿り着く。

「これがイチカ?」

「そう、ここが今日の私たちの寝床。」

 キリは目の前にある洞穴をじっくりと眺める。

「中に茣蓙と毛布があるから一緒に寝ようね。」

 口にしてからだんだん恥ずかしくなってくる。思えばキリとは今日出会ったばかりであるが、一日でかなり仲が深まったとを感じる。

 初めて抱きしめた時も羞恥心を感じたが、母性からくる行動だと思って自身を納得させていた。

 しかし、今となっては母性だけでは説明のつかない感情がキリに向いている。

「ねえ、キリ。手を離しても大丈夫そう?」

「あー、うん。ここなら怖くなさそう。」

 イチカは森とは異なる空気が流れているのだろうか。ユミにはその違いを感じ取ることができなかった。

 

 キリの持ってきた握り飯で簡単な食事を済ませた後、二人は身を寄せ合って横になる。

 キリの温もり感じながら眼を閉じると、やがて寝息が聞こえ始めた。

 疲れてしまったのはあるだろうが、どん底の暮らしだったラシノから離れ、安らかな気持ちになったのかもしれない。

 ユミもそれに呼応するように微睡んでいく。


 そのままどれくらいの時間が経っただろうか。

 キリの呻き声で目を覚ます。

「……ごめんなさい、母さん。ごめんなさい。」

「……キリ!?」

 夢にユミの声が届いたのかもしれない。キリの声がぴたりと止まる。

 かと思うと、

「やめて……、父さんを殴らないで!」

 ユミの前で明るく振舞う少年は、どれほど心の傷を抱えているのだろうか。

 これに加えて森の怖さも覚えたはずだ。ユミは見ていられなくなった。

「キリ!キリ!」

 キリの肩を揺らす。

「……ユミ?」

 ぼんやりとした表情のキリの眼から、一粒の涙が零れ落ちた。

 たまらずその体を抱きしめる。

「大丈夫だから。大丈夫だから!」

「……母さんは?」

 キリが力なく耳元で囁く。

「アイはいない。悪いやつもいない。……いるのは私だけだから!」

「そっか。そうだった……。」

 キリはユミの体を強く抱き返した。

 

「キリは……、アイのこと好き?」

 キリの体を抱いたまま尋ねる。

「……うん。……多分。」

 酷な問だっただろう。これ以上追及しない方が良さそうだ。

 母のことが大好きなユミにとっては信じられないことだった。母とは無償の愛を注いでくれるものとばかり考えていた。

「多分……、ユミの方が好き。」

「キリ……。」

 こんな状況でありながら、キリの言葉にどきりとしてしまう。

 ユミは先ほど、キリに対して母性以上の感情を自覚した。キリも同様なのだという確信が欲しくなる。

「キリはウラヤに着いたらどうしたい?」

「ユミと暮らしたい。」

 即答だった。当然、ユミもそうしたいと思い始めている。

 しかし、ウラヤへの帰着は孵卵の合格を意味する。そうなれば当初の目的通り母をトミサへ連れて行かなけらばならない。キリも一緒に行けるのだろうか。トミサへ連れて行けるのは鳩の家族だけだ。

 

 そこまで考え、活路を見出したユミはぱあっと眼を輝かせる。

「キリ!私たち鴛鴦(おし)にならない!?」

「おし?」

「そう!なんていうかその……、仲の良い男と女のこと!」

「じゃあ、僕らはもう鴛鴦だね!」

 躊躇いの無いキリの言葉に、心躍らせながらもユミは言葉が足りなかったかなと思う。

 仲の良い男と女ならマイハで働く百舌鳥(もず)と、トミサからやってくる鳩の郭公(かっこう)も同じだ。しかしそれじゃダメなはずだ。百舌鳥と郭公は家族じゃない。家族でもないのになぜ彼女たちは仲が良いのだろう、という疑問を浮かべつつ説明を付け足す。

「鴛鴦になれば私たちは家族になる。」

「家族かぁ……。」

 キリにとって家族とは何だろう。一番身近な家族はアイのはずだ。むしろ悪いものだったかもしれない。

「うん!なろうよ、鴛鴦に!」

「……うれしい。」

 鴛鴦になるためには何か特別なことをしなければならないのだろうか。しかし、そんなことはもうどうでも良かった。

 キリが認めてくれたのだ。誰が何と言おうと私たちは鴛鴦だ。

 幸せな気持ちを胸に、二人は体を横たえた。


 キコキコキコ……。

 何やら小気味のいい音でユミは眼を覚ました。あたりはもう明るい。

 愛しい(おし)の背中が見える。木の棒を両手に挟み、右手と左手を交互に前後させ回転させている。それを木の板に擦り付けているようだ。

 それらはイチカを発つ前にユミが拾い集めていたものだ。

「キリ?」

「おはよう、ユミ!」

「おはよう。」

 昨晩は暗くてよく見えなかったが、キリの顔が出会った時よりも輝いて見えた。

「火をつけようとしているの?」

「うん、でもなかなかつかなくて。」

 火打石あるよ、と言いかけて野暮なことかと思い言葉を引っ込める。ここまで頑張ってくれたキリの労力を無駄にしたくない。

 ならば、

「キリ、ちょっとだけここで待っててね。」

 ユミは立ち上がり、木々の間に入っていく。

 一人でイチカ周辺を探索した日々を思い出しながら、湾曲した枝と植物の蔓を集める。

 それらを抱えてイチカに戻ってくると、キリが不思議そうな顔で見てきた。

 構わず蔓をより合わせ縄を作る。そしてその縄を枝の両端に括りつけ弓状にする。

「棒を貸して、キリ。」

 キリは素直に渡す。弓の弦で輪を作り、そこに棒を通す。

 棒の先を木の板に当て、もう片方の先を左手で押さえる。足で木の板を踏み、右手で弓柄(ゆづか)を前後させると枝がくるくると回り始めた。

「へぇー。」

 キリは感心したように声を上げる。

「これでも難しいんだけどね。」

 この着火方法もヤマから教わっていた。火打石の方が格段と楽なのでほとんど使ったことはなかったが。

 この機構の名前は――。

 はっと声を上げ気づいてしまったユミは、それを口に出すのが恥ずかしくなった。

 ――いつかとっておきの機会にキリにも教えてあげよう。

 途中でキリにも代わってもらいながら、初めての共同作業に成功した二人は手を合わせて喜びを分かち合った。


 

「ねー、クイー。あたしたちいつまであの阿呆鴛鴦(あほうどり)見てなきゃいけないのー?」

 ささやかな朝食を囲む二人を見守る影があった。ユミの孵卵を監督するクイとヤミだ。

「さて、いつまででしょうね。」

 ――阿呆鴛鴦か、なるほど今の二人を言い表すのには適しているのかもしれない。とは言え、傍から見れば我々も阿呆鴛鴦なのだろうが。

 クイはかけていた眼鏡を、右手でくいと押し上げる。

 ヤミがその様子をうっとりと眺める。

「クイー。」

 ヤミが甘えた声を出し、上目遣いでクイへと迫りその腕に絡みつく。

「何でしょう。」

 その声に惑わされないようにとクイは視線をやや上に向ける。しかし口元は自然と緩んでしまっていた。

「あの子たち見てたら、あたしもクイのこと欲しくなっちゃたんだけどー。」

「やめてください!!」

「えー。」

 全く朝から何を言い出すんだ。いや刻限は関係ない、今は森の中でかつ業務中なのだ。

 

 クイはヤミと正式な鴛鴦になってからまだ日が浅かったが、今すぐにでもユミとキリのもとへと飛び出ししかりつけてやりたかった。軽はずみに鴛鴦になるなどと言うんじゃないと。しかし孵卵の規定上、受験者の命に係わる状況となるまで、監督が姿を現すことは許されていなかった。

 しかりつけたいのはそれだけではない。孵卵が始まってから試験を忘れたかのように森でのうのうと暮らし、命に係わるほどではないにしても危険な目には会い、囚われそうになったかと思うと少年を一人連れ出してきた。

 おまけに川では服を脱ぎだしたので、ヤミに眼鏡を割られそうになった。

 過去に監督を務めた先輩らからも、こんな経験は聞いたことが無い。

 初めての監督業務がこれか。もう散々だ。ヤミは何とも思わないのだろうか。

「ねー、クイ―。いいでしょー……。うっ……。」

 ヤミは腕に絡みつけていた手を離し、口を押える。

「ヤミさん!?」

「……てないの。」

「は!?」

 ――まさか。

「来てないの。」

 ――そんなことが。

 いや当然あり得る話だ。

 

 二人が鴛鴦になってすぐ、試験監督を務める話が舞い降りた。

 一度、孵卵が始まってしまえば10日間ほど森に滞在し続ける場合もある。その間、受験者の安全のため休息時間にも気を遣わなければならない。大変な仕事だ。

 それでも給金は高額であるし、この初めての共同作業を乗り越えれば、二人の絆をもっと深められるのではと高揚感すら覚えていた。

 しかし、体は正直であった。森に入れば当分軽率なことはできないだろうと、ユミがウラヤを発つまでの数日間、二人はお互いを激しく求めあってしまった。

「――ヤミさんは私が支えます。」

「おねがい……。」

 先ほどまでのふざけた態度はどこへ行ったのか、ヤミは急にしおらしくなった。

 しかし、支えると言えどどうすれば良い?

 ユミがウラヤに辿り着くか、助けを求めるかしなければ監督業務を終了することができない。

 あの阿呆鴛鴦らの様子を見ている限り、そのどちらへ至るにしても、いつまでかかるか予想だにできない。

 ――どうせあの二人は放っておいても大丈夫だろうが……。

 もしこのままヤミが産気づくまで試験が長引こうものなら、ユミをおいてウラヤへ帰ることも覚悟せねばならない。

 クイにとってヤミの方が大切なのは言うまでもない。しかし、その決断を下したときにどうなるだろうか。

 

 孵卵をはじめ、鳩の業務は「鳩の(いまし)め」によって細かく規定されている。

 縛めの禁を侵した場合、罪の重さに応じて罰を受けることとなる。孵卵の受験者を見捨てたとなれば(からす)烙印(らくいん)を免れることはないだろう。

 最悪、クイへの烙印だけで済めば良いが、ヤミと腹の子供はどうなる?

 かといって森で出産を迎えるのか?それも縛めによって禁じられていることだ。

 新しい命にとって、森はあまりにも危険すぎることがその理由だが、好き好んで森でお産に臨む者などいない。

 ましてやクイとヤミにとっては第一子だ。産婆の立ち合いも無しに、子を取り上げられる自信などない。

 

 あるいはユミの意志を無下にして、孵卵を強制終了させるかだ。適当に進行を妨げ、助けてと言わせれば良い。

 しかし、これもユミ一人だった場合だ。今は状況が変わってしまっている。

 鴛を得たユミが果たして弱音を吐くことがあるだろうか。

 これは孵卵が10日超えた時点で実行するべきだったことだろう。

 

 クイも鳩の縛めをすべて覚えているわけではない。しかしその大概は、常識と倫理観を鑑みれば禁を侵すことの無いような項目だ。

 逆に言えば、どこかの村から少年を誘拐してくる、などといった蛮行が到底許されることではないだろうと見当がつく。

 ラシノの村に足を踏み入れた時点で止めれば良かったのか?

 クイは自身が最悪の事態にある時も、それを誰かのせいにしないように心がけていた。他人に責任の所在を求めず、自身の落ち度を省みてそれを是正していくことが根本的な問題解決につながるからだ。

 クイに落ち度があるとすれば本能に抗えずヤミを求めてしまったことだろう。しかし、それは正式な鴛鴦にとって当然の営みであるし、本来なら孵卵は十日以内で終了するはずだ。出産の危難が生じるほど、長期化するなどとは誰も予想できなかったはずだ。

 したがってどう考えても、現在クイとヤミが置かれている危機的状況は、ユミが作り出したものでしかなかった。恨み言の1つも言いたくなるが、それではやはり問題は解決しない。

 ――一体なんなんだ、あの少女は。

 クイ自身の孵卵について振り返ってみる。十五年ほど前の記憶だ。できれば思い出したくない記憶でもある。


 例に漏れず、茶を飲み眠らされたクイは森の中で眼を覚ました。

 辺りを見渡すととてつもない恐怖感に襲われ発狂した。――ちょうど手を離されたキリがそうであったように。

「おかあさーん!!」

 現在の冷静沈着なクイからは想像もつかない慟哭(どうこく)だった。

 ソラと同じようにウラヤに生まれたクイは本当の母の姿を知らなかった。ただ何となく百舌鳥(もず)の誰かだろうとは見当がついていたので、その内の一人を思い浮かべ、縋ったのだった。今思うと、その百舌鳥はヤミと少し似ていた。

 

 しばらくろくに食事にもありつけぬまま、起きては恐怖に身を震わし、疲れては眠るを繰り返していた。

 4日ほど経った頃、こっちだよ、とクイを誘う声が聞こえた。あれは本当の母の声だったのだろうか。

 声のする方角には何も見えなかったが、クイはただそれに向かって歩き続けた。

 いつの間にか恐怖心も消えており、気づいたころにはウラヤに辿り着いていた。

 そして、試験監督から合格を言い渡されたのだった。


 後に、この経験が鳩に与えられた能力、「帰巣本能」の発現であったことを知る。

 孵卵とは試験を称しているが、帰巣本能を発現させるための儀式と言った方が正確かもしれない。

 森は人を迷わせる。迷い、惑わせる。全く迷惑な話だが、この森に及んでいる力は千鳥と呼ばれている。

 迷いは幾つになっても取り払われないが、惑いは17歳を超えた辺りで自然と取り払われるらしい。

 17へ達する前に、この惑いを自ら克服した時、帰巣本能が目覚める。と、クイは解釈していた。

 

 惑いが恐怖として現れる者は多いらしい。人によっては、森へ入った途端に笑い転げたり、歌を奏でたりするそうだが。

 トミサでは、森に恐怖を感じられる者こそ鳩の適性が高いと言われている。

 なぜなら恐怖とは叶うことなら打ち勝ちたいものだからだ。

 恐怖に打ち勝ち、生へと縋りつこうとする思いが母の声を感じ取らせたのだとクイは信じたかった。

 ヤミをはじめとした同僚の鳩に、森での惑いとその克服の過程を尋ねたことはあるが、誰も答えてはくれなかった。

 クイだって、あの恥ずかしい経験を語りたくはなかった。とくにヤミには知られたくないことだった。


 ユミの場合、千鳥に惑わされた結果、探求心に囚われたのだろうと見ていた。

 似た系統の例として、森そのものに母性を見出してしまった受験者がいる。

 受験者は木に体を擦り付けたり、大地に口づけたりするなど繰り返し、見ていて気持ちの良いものではなかったそうだ。

 それでも命に別状はないと判断し、試験監督はしばらくその経過を観察していた。気づいた頃には受験者は眼に虚ろな影を宿し、危うく廃人となるところだったと言う。

 ユミがイチカで暮らし始めた頃、これは森に生気を持っていかれかねないなと思ったクイは、いつ孵卵を打ち切ったものかと機会を伺っていた。

 しかし、目安の10日を超えてもユミの眼はイキイキとした光を帯びており、廃人となる気配など微塵も感じさせなかった。

 颯爽と歩くユミの姿をずっと追いかけてきた。

 追いかけたところで、夜にはいつもと同じ洞穴に帰りついている。それに気づいた時は驚愕したものだった。

 

 帰巣本能は、一度目覚めてしまえば二度と目を閉じることはない。

 クイは帰巣本能を得たが、今現在、森のどこにいるのかは把握できていない。一般の村人同様、森を歩いた道のりなど記憶できないのだ。

 分かるのはウラヤのある方向だけだった。やろうと思えば、目を瞑りウラヤに帰り着くことだってできる。

 そしてヤミはトミサのある方向が分かっているはずだ。

 

「ヤミさん。一人でトミサに帰れますか?」

「イヤ!……なんでそんなこと言うの?」

「……すみません。軽率でした。」

 クイは鳩になった現在森への恐怖をあまり感じてはいないが、これも人によりけりだ。

 惑いの克服の過程によっては、森へ根強い心の傷を残す鳩もいるようだ。


 通常、鳩が村の間を渡り歩く時、2人1組で行動する。トミサの鳩とそれ以外の村の鳩との組み合わせだ。トミサを中継地とすることで、あらゆる村同士の接続が可能になるのだ。

 例えば、ウラヤの名産と言えばユミも好きなツツジであるが、ツツジの種をウラヤからラシノへ届けることを考える。

 クイとヤミの場合、トミサから発った2人はクイの帰巣本能により、ウラヤへ向かうことになる。ウラヤで仕入れた種をヤミの帰巣本能によってトミサへ届ける。そして、その種はトミサに滞在しているラシノの鳩に引き継がれることで、ラシノへの輸送が可能になる。

 

 ――まさか、あの洞穴を拠点として帰巣本能が目覚めたのか?

 そんなはずはない。帰巣本能が機能する先はその者の出生地だけであるはず。

 鳩は森を迷わずに歩けると言われてはいるが、ただ出生地に向かって歩けるだけだった。

 ――だとすれば、あの娘はあの洞穴で生まれたのか?

 信じがたい話であるが、あわや我が子がそうなりかねない事態である。

 クイはただ、ユミの得体の知れなさに呆れていた。


 ヤミの悪阻が治まらないまま、ユミとキリが手を繋ぎイチカを発つのが見えた。

 ――追いかけなくては……。

 一歩踏み出そうとしたクイの裾をぎゅっとヤミが掴む。

「行かないで……。お願い、クイ……。」

「……ヤミさん。」

 ユミとキリが歩き出した先は、クイの帰巣本能が働く方角から大きく外れていた。ならば、今日も諦めてイチカに戻ってくるだろう。

「私はここにいます。」

 クイはこの日、孵卵で初めてユミを見失った。

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