第五節 第四十四話 能力
「あ……、クイさん居たの?」
「相変わらず失礼な方ですねぇ。少しは成長したかと思ったのに……」
ナガレで囚われていた時の話を聞こうと、ヤミの家の戸を叩いたのだが、出迎えて来たのはクイだった。
彼の右手は傍らにいるハリの肩に乗せられ、左手には色鮮やかな手毬が携えられている。
嫌味を帯びた彼の口調ではあったが、表情は穏やかだ。久方ぶりに会う我が子の存在が、彼の心を朗らかにさせているのだろう。
「ところでキリさんに会うんじゃなかったんですか?」
当然の疑問を投げかけてくる。
「うん、その……。ちょっとね……」
「何かあったようですね。察するに、その件についてヤミさんへ相談しに来たと言ったところでしょうか」
「うん。もうクイさんとは散々言葉を交わしたことだけどね」
状況はともあれ、めったにない乙女同士の団欒の機会である。無骨な男にこの場の邪魔をされたくはない。
「昨日話をした時に言ってくれればよかったのに……。今日ウラヤに帰ってくるもりだったって」
思いがけない邂逅に、ユミは口を尖らせてしまっていた。
「心配しなくても私はハリと遊んでますよ。そのために帰って来たのですから」
「よかったー!」
「それが失礼だと言うんですよ!」
口元に笑顔を浮かべるクイだが、眼は笑っていなかった。
「おとーさん?」
手元のハリの声が聞こえ、クイの眼に光が戻る。
「あ、ごめんなさい叫んじゃって。 今日は一緒に毬遊びをするんでしたね」
「うーん。ぼく、やっぱりおねーちゃんたちといっしょがいい!」
「ハ、ハリ……?」
今度はその眼に絶望の色を宿す。それを見たユミは飛びっきりの笑顔を作った。
「こらこらハリ。そんなこと言ったらお父さん悲しむでしょ? お父さんにはお友達が少ないんだから、ハリが支えてあげないと」
「うぅ……。ごめんね、おとーさん。やっぱりぼくがいっしょにあそんであげる!」
ハリもクイに飛びっきりの笑顔を見せた。
「……ユミさん。あまりハリに変なこと吹き込まないでください」
「変なこと? なんだろう? それよりもクイさん、せっかくハリが遊んでくれるって言ってるのにそんな態度でいいのかな?」
挑発的に首を傾げてやる。
「ハリ、鴦はちゃんと選ばないといけませんよ?」
クイは歯を食いしばりながら、努めて冷静を装った。
「あら、今日はお揃いね? どうしたのかしら?」
クイの背後から、ヤミがひょっこり顔を出す。
「こんにちは、ヤミさん。ユミがヤミさんにお話があるんです」
睨み合ったままのユミとクイを傍眼に、ソラが先陣を切る。
「そうなの? 家に上がる? ちょうどトミサでお茶菓子を貰って来たところなのよ」
「はい! じゃあ遠慮なく上がらせてもらいますねー!」
お気楽な調子のサイはユミを押しのけた。
――――
「ソラ、いつもハリのことをありがとうね」
ヤミは盆を運んでくる。その上には湯気の立つ4つの湯のみと、色とりどりのあられの積まれた鉢が乗っていた。
「ソラおねーちゃんとのお勉強が楽しいって毎日のように言ってるわ、あの子」
そう言うとヤミは庭先へと眼を向ける。
居間の障子が開け放たれ、露わになったその場所ではハリとクイが毬を投げ合っているようだ。
「いえいえ。ハリは頑張ってると思います」
ソラも感慨深げに答える。
ヤミの持っていた盆がちゃぶ台の上へと置かれる。他の3人は既に席についていたので、ヤミはまだ空いている空間へと腰を下ろした。
湯のみが配られると、ことり、ことりと音が鳴る。サイはあられを前に眼を輝かせた。
「あの……、ヤミさんはハリがこのまま医師の道を歩めばいいと考えていますか?」
ふと、これまでにソラが思っていたことを問うてみる。
生まれて早々ヤマの元へ預けられることになったハリだったが、自然な流れでソラを慕い、医術を学ぶようになった。
ヤミの言葉からも分かるように、現時点においてハリはソラの教示を熱心に聞き入れようとしている。
しかしそれは、ハリにとって与えられた筋道に従っているだけなのではないのかと感じていた。
ソラ自身も物心がついた頃よりヤマから医術を叩きこまれてきたが、特に不満を感じたことは無かった。一方で具体的な目標があった訳でも無いのだが。
ただ漠然と、ユミの母をはじめとするウラヤの民達に少しでも楽に暮らしてもらいたい。少しでもその手助けができれば良い、というのが当時の彼女の考えだった。
従って、ユミから一緒に鳩になろうと声をかけられた時は俄然やる気を出したし、ヤマからそのやる気を制されるとあっさりと諦めもした。
その後ユミとハコはトミサへと旅立ち、それを機にギンと知り合った。そしてようやく自身の意思でやりたいと思えることが出来た。
トミサでギンと共に暮らし、現地の医術院で働きたいという夢だ。
思えばこれも、周囲の人物の影響によるものだと言えるのだが、ソラに後悔など無かった。
とは言えその夢のためにはヤマの医院と別れを告げることになる。
師であるヤマが高齢であることを考慮すれば、ハリにソラの後を任せることになるだろう。しかしこのことは、ハリからそれ以外の道を奪っているのではないかとも考えてもいた。ソラは自身がそうであったように、ハリにもやりたいことを見つけてもらいたいという思いがある。
しかし、まだ幼いハリが将来に向けての意思決定など出来ようはずもない。故に、ハリの母であるヤミの考えを一度聞いてみたいと思っていたのだ。
「そうねぇ。あの子がそれを望むのだったら、私は応援してあげたいと思っているわ」
「私も、ハリの将来はハリが望んだように決めるべきだと考えています。でも……、ハリには医師になってもらって、このウラヤを支えて行って欲しいと言うのが私の正直な思いです。なのでこれからも、ハリが楽しいと思えるような指導を心がけるつもりです。ハリが医師になりたいと思えるように」
「あらそう! だったらハリも一層頑張らないといけないわね」
明るいヤミの返答に対し、ソラは顔を曇らせる。
「でも……。それはある意味において、彼の可能性を狭めることになるかもしれません。眼の前にある楽しいことに眼を奪われたまま、将来を決めることになるんじゃないかなって……」
ソラの声はだんだん小さくなっていく。
ハリの意思を尊重しよう、というヤミの考えはソラにとって都合が良い一方で、困惑の種でもあるのだ。
「それでいいと思うよ、ソラ」
うつむき気味のソラへとユミは声をかける。
「やりたいことのきっかけなんてなんでもいいんだよ。確かに、ハリがお勉強を頑張るのは可愛いソラの近くに居たいからかもしれないよ? でもちゃんと身にもなってるでしょ?」
「それは、そうだけど……」
ハリは既に簡単な傷の手当てぐらいはできる様になっていた。それには怪我を理由に、ソラへ近づこうとする輩を自らの手で処置しようという意図も見えるのだが。
「それにね、もしハリが本当にやりたいことを見つけたらちゃんと言い出せると思うよ。私もそうだったから」
ユミは母のために、母の反対を押し切って鳩になった。
その気持ちは、ユミのことをずっと見ていたヤミにとっても、大いに共感出来るところがある。
「ユミの言う通りね。私も本当は実家の菓子屋を継ぐことになってたの。それに鴛鴦文も書かないまま、トミサにいる男と鴛鴦の契りを結ぶことになってた。それが嫌で孵卵を受けたの。両親の心配をよそにね」
「そうだったんですか!」
眼を丸くするソラへ、ヤミはあられを1つ摘み掲げてみせる。
「私も作ろうと思えばこのお菓子を作れるわ。でも飽くまでも趣味。売ろうとまでは思わない。ハリが喜んでくれさえすればそれでいいのよ」
そう言うと、持っていたそれを口へと放り込んだ。
ユミとソラも釣られるように、あられの山から1つを手に取った。一方のサイは、拳でその山を鷲掴みにする。
「私も似たようなもんだな。姉さんが死んだって言うから居ても立っても居られなくなって巣に飛び込んだんだよ。孵卵を受けるためにな。まあ、さすがに父さんと母さんの悲しそうな顔を見るのは辛かったけど」
「あれ? サイのバカ力を誰かの役に立てろ、って親から言われたから鳩になったって言ってなかったっけ?」
「お前よくそんなこと覚えてるな……。あそうか、もりすか」
「もりす? あ、森巣ね……」
ヤミが呟いた言葉は、サイの耳には届いていなかった。
「バカ力を役に立てろって言われたの、本当は姉さんだったんだよ。姉さんが居なくなったんじゃ私が言われているのも一緒だろ?」
サイは得意げな様子だ。
「ふふ、サイが鳩になったのはやっぱりスナのためだったのね。きっとスナも喜んでるわ」
ヤミの声にサイは思わず目頭が熱くなる。ごまかすように、大口を開けて拳の中のあられを放り込んだ。
「ソラ。スナはサイと殴り合ってる内に力が強くなったって言ってた。それが楽しかったんだとも言ってたけど、結果として鳩のお仕事にもつながったのよね。それと同じように……、なんて言うのもおかしいけど、今はハリが楽しくお勉強してるってことを信じて上げて。そのまま将来の仕事になるかもしれないし、そうでなくてもきっとハリが見つけたやりたいことの役には立つんだから」
「ヤミさん……。はい、分かりました。ありがとうございます」
素直に礼を述べるソラを見て、ユミは胸をなでおろす。
その一方で、ハリの将来についてまた別の懸念事項があった。
「あの、ヤミさん」
「どうしたの?」
「ハリを鳩にしようとは思わないの?」
ハリの出生を知る者であれば、彼が鳩になればどうなるか一度は考える。
これまでヤミの前で避けてきた話題であるが、先日ミズが最後の孵卵に落第したことでハリの潜在能力には大きな意味を持つことになる。
「ユミ……」
ヤミの顔から困惑の色の浮かぶのが明らかだった。
「そうねぇ。確かに私たちが鴛鴦になったばかりの頃はクイと話したこともあったわ。生まれた子が鳩になりたいと言うのなら応援して上げようってね。でも今となっては分かるわ、私の親の気持ち。我が子を森に出したくないっていう気持ちがね」
「あの……、それもあると思うんだけど。その……、ハリをミズの代わりにナガレの鳩にしたいとは思わないよね?」
「それはそうよ! あんなところにハリを行かせたくないし、特別な責務も負わせたくない!」
穏やかだったヤミの口調が急に強くなっていた。
「ご、ごめんなさい。やっぱりそうだよね」
慌てて謝るユミではあったが、その問いかけ自体に後悔は無かった。
「えっと、クイさんも同じ考えなんだよね?」
「それは……、そうよ?」
仮にハリの帰巣本能が目覚めたとなれば、その足の赴く先はナガレだ。
ユミが懸念していたのは、クイが非公式にナガレの鳩に仕立て上げようと考えるのではないかということだった。
自由な世界を作りたい。クイが度々口にしていたことである。
具体的にはそれが何を意味するのか、ユミにはまだ分からない。
しかし1つの可能性として、ナガレという場所が自由な世界への足掛かりとなるのではないかということを先日議論したところである。
鳩の縛めの機能しないナガレは、治安の悪さと引き換えに究極の自由を得た場所と言えるのだ。
これまではただ一人存在するナガレの鳩の手引きによって、そこに住まう者達の生死ぐらいは把握されていたようだ。それも近い将来には失われてしまう見込みである。その時、ナガレは究極の自由を得たとも言えるのだ。
そこへ赴くことの出来る可能性を持つハリは、クイにとって都合の良い存在と言えるはずだ。灰色領域の概念をユミに説いた彼のことだ。何かうまい方法を考えていたとしてもおかしくない。
ヤミの考えは飽くまでもハリの身を案ずるものだ。
そもそもクイが危険な思考に陥っていないに越したことは無いのだが、いずれにしてもヤミの想いがクイへの抑止力になるはずだとユミは信じている。
「あの、今日お話を聞きに来たのはナガレのことなの」
「ナガレのこと? 私に?」
「そう、ヤミさんさっきもナガレに対する嫌悪感を見せてたよね。きっと私とクイさんがウラヤに行っている間にも、ケンとアサに酷いことされたんじゃないかって」
「ああ、そういうことね……」
眉をひそめるヤミを見て、ソラにも緊張が走る。願わくば父親が人を害するような人物であって欲しくないという心情の現れだった。
「アサもケンも何もしなかったわ。アサなんか特に紳士だったと言えばいいかしら。たとえクイが戻ってこなくても、ちゃんと私のことをトミサへ帰してくれるとも言ってたわ」
「そうなの!?」
ユミは声を張り上げる。アサから多少の思慮深さは感じていたものの、そこまでであるとは思っていなかった。
「ええ、アサも烙印持ちとは言え鴦と子を持つ身。クイの気持ちをちゃんと汲んでくれたみたいよ。とは言えハリの扱いについては困ったみたいだけど……」
「それはまあ……、仕方ないかもね。そのままハリをトミサへ連れ込むわけにもいかないし」
扱いに困ることと言えばもう一点あった。それを察したように、ユミに代わりソラが口を開いた。
「あの、キリくんのことは? お父さ……、ケンさんはキリくんのことを守ってくれていたんですか?」
「お父さん?」
ヤミはソラの失言を聞き逃さなかったようだ。
「え、えっと……。ごめんユミ……」
「別にいいよ。ヤミさんは私のことをずっと見てくれてたんだし、むしろ知っといてもらいたいぐらい」
ユミは一度こくんと唾液を飲み込んだ。
「あのね、ヤミさん。ケンは私とソラの父親なの」
「えぇ!?」
「当然の反応だよね。でもそうなの」
呆気にとられた様子のヤミに構わず、ユミは言葉を継いでいく。
「で、ケンはキリのお父さんを怪我させたんだけど、その時にキリを守るって約束したみたい。ソラが聞きたいのはその約束がちゃんと守られたのかなってこと」
「え、ええそうね。ケンとキリとの間に多くの言葉が交わされた訳ではなかったけど、少なくともキリを害そうという様子は無かったわ」
「じゃあ、もし私達がナガレに帰ってこなければ? ケンはキリがラシノに帰るべきだとは思ってたみたいだけど、どうやって帰そうと思ったんだろう?」
そこまで口に出してしまってから、ユミにある仮説が思い浮かぶ。
「ねえヤミさん。私の能力って知ってるの?」
返答に困っていた様子のヤミに、新たな質問を投げかける。
「能力? そんな13歳ぐらいの子が言いそうな言葉……。あ、もしかしてさっきサイが言ってた?」
「そう、もりす」
「あなた達はもりすって呼んでるのね。ふふ、クイが知ったら怒りそう……」
「クイ?」
「いえ、何でもないわ。ユミは森の中でも道を覚えられるのよね。そのもりすを使って」
もりすについてヤミと話すのは初めてだったが、彼女も概ね理解できているようだ。
「そう、だからウラヤにもトミサにもラシノにもナガレにも、それにイチカにも私は行こうと思えば行ける」
「イチカ、あの洞穴のことね。私も懐かしいわ」
「でも、もりすのことってアサもケンも知らないはずなんだよね。確かに私はラシノへの行き方が分かるとは言ったよ。どうしてケンはその言葉を信じたんだろう?」
ラシノへの行き方が分かるという事実から導き出される答えがある。ケンがそれに思い至ったのではないだろうか。
「もしかして、ユミがラシノで生まれたと思ったから?」
ユミの仮説に気づいたソラがはっとしたように声を上げる。
「ウラヤで暮らしている女の子のはずなのに……」
「さすがだね、ソラ。つまりどういうことでしょう。サイくん分かりますか?」
相変わらず、あられを摘まんでは口に運ぶを繰り返していたサイだったが、急に声を掛けられびくっと背筋を伸ばす。
「うんにゃ?」
「話聞いてた?」
「お、おう聞いてたぞ! ……だからユミがウラヤで暮らしてたはずなのに、ラシノで生まれたと思われてたって、……あ!」
手に持っていたあられをぽろりと落とす。
「お前ソラだと思われてんのか? ケンに」
「多分ね」
ユミがソラに視線を送る。2人は見つめ合う形になった。
「お父さんの文、ユミの眼が私にそっくりだって書いてたし、それにも気づいてたってことなんだよね」
ユミとソラはヤミに向かって見せつける様に顔を並べた。
「確かに……、似てる」
ため息交じりにヤミは呟いた。
「前置きが長くなってごめんね、ヤミさん。実はさっき、もうキリに会ってきたの」
「そうなの!?」
「でも、やっぱりアイの存在がキリを縛り付けてる。アイは私を監禁しようとしたことがあったけど、あれって本当は私に父親であるケンの影を見出してたから、のはず。そしてアイはソラの母親でもあるの。アイが私をソラって呼んでたのはそのせい」
「え、えっと……」
情報量の多さにヤミは混乱しているようだ。
「結論として、アイはケンのことを求めてる。だからケンをアイの元へ連れて行けばキリも開放されると思ってるの」
「……真偽はともかくとして、言いたいことは分かったわ」
自らを落ち着ける様にヤミは茶をすすった。釣られてユミらも湯のみへ手を伸ばす。
茶はすっかり冷めていた。ユミは一気に飲み干す。
興奮のあまり気づいていたなかったが、相当喉が渇いていたようだ。
「これから私とサイとナガレに行くつもり。ケンを連れ出すためにね」
「えっと……。色々大丈夫かしら? 鳩の縛めのこともそうだけど、ミズの件ではアサ達を騙したことになるのよね?」
「うん、だから事前にヤミさんのお話を聞いてアサとケンの人となりを確かめたいと思ってた。だけど、ケンが私をソラだと思ってるなら話は早いね」
ケンはソラを愛している。ならばきっと悪いようにしないはずだ、という確信を得ることが出来た。
「そう……、腹は決まってるのね。あのユミだもの。私が引き止めることも出来ないんだろうね……」
ヤミは語尾に余韻を残しつつ、庭を見やる。そこには四つん這いになったクイに跨るハリの姿があった。一体どういう経緯でそうなったか、室内の一同には皆目見当もつかない。
突然、思い立ったようにヤミがユミに向かって顔をぐいと近づける。
「ねえユミ。クイのこともナガレに連れて行ってあげてくれない?」
「え? なんで?」
咄嗟の提案はユミに緊張を走らせる。
「えっとね。やっぱり女の子達だけでナガレに行くのは危険よ。せっかくクイがこの場にいるんだから頼ったらいいのよ?」
「い、要らないよ! サイの方がクイよりよっぽど戦力になるし!」
確かにヤミの提案はありがたい。戦闘力においてクイは足手まといにしかならないだろうが、舌戦においては頼りになるはずだ。
ナガレに行く目的はケンを連れ出すことだ。アサがそれを良しとするかどうかが課題となる。
その論争の場にクイが居れば心強いことは間違いない。
一方で、やはり先日のクイの発言が気がかりだ。忘れてやるとは言ったが忘れられる訳が無い。
クイにとってナガレは自由な世界を作るための足がかりなのだ。
ナガレという不法地帯を利用することによる代償は想像に難くない。ここでヤミの善意を鵜呑みにする訳にはいかないのだ。
「あらそう。まあユミがいいならいいわ」
ユミの懸念に反して、ヤミはあっさりと引き下がる。
「おかーさーん! のどかわいたー!」
とてとてという音とともに、ハリの声が近づいてくる。
「あらハリ。いっぱい遊んで疲れちゃったかしら。お茶淹れてくるからちょっと待ってて。ユミ達のも新しく注いで来るわね」
ヤミは立ち上がり、盆を取るとちゃぶ台に置かれた湯のみと鉢を回収した。
――――
「お父さん、私が会いに言ったら喜んでくれるかな?」
ソラは何の気なしに放った言葉だったのだろうが、ユミとサイはぎょっとして彼女の方を見る。
「えっと……。ソラ? もしかしてナガレに行くつもり?」
「当たり前でしょ! お父さんは私を愛してくれてるんだから、私が行ったらきっと話を聞いてくれるよ!」
いつに無く強い口調だ。
「それにアイさんにも一言言ってやらないと。キリくんいじめるのやめてって!」
「どうしたのソラ? この前はアイが怖いって言ってよね?」
ソラはその場に立ち上がる。
「確かにあの時は怖いと思った。でももう、キリくんのこと考えたら黙ってられない!」
「ねえ、話聞いてたソラ? ケンは私のことをソラと思ってるからそれで十分なんだよ。それよりナガレはソラみたいな可愛い子が行っちゃダメなところなの。……サイでさえ何されるか分からないんだよ?」
「こら」
ユミの頭に手刀が下ろされた。
「まあまあ、頼もしいわね、ソラ」
盆を抱えたヤミが戻ってくる。今度は6つの湯のみが乗っている。湯気は立っていないようだ。
「はいハリ」
「ありがとう!」
ハリは茶を受け取ると、おずおずと湯のみの縁へ口元を近づけた。
「はいソラ。気持ちは分かるけど落ち着かないとダメよ?」
ソラは差し出されたそれを乱暴にぶん取った。
そして礼も言わず、腰に手を当てぐぐっと飲み干す。
が、熱かったのかすぐに舌を出して顔をしかめた。
対するユミとサイは、受け取った茶をゆっくりとすする。意外なほど熱くは無いようだ。
「飲んじゃダメ……」
ソラの声が聞こえると同時に、彼女は足元から崩れ落ちていく。
ユミは口の中にほのかな甘さを感じていた。




