第二節 第四十一話 眼
「文、先に読んでおけば良かったね……」
ソラはキリに書かれたはずの鴛鴦文を広げて見せる。
黒々とした毛筆で刻まれたそれは、書きなぐったという言葉が良く似合う。
いいから帰ってきなさい空あの日約束したでしょう帰って来るってそれに約束したでしょうその眼を誰にも見せちゃダメってなのに空の眼は今誰を見てるの誰に見られてるの錐と鴛鴦になりたいんじゃないのだったらラシノに来たらいいじゃないそしたら錐のことは開放してあげる錐はもう必要なくなるし代わりに空のことを精一杯可愛がってあげるお茶を飲ませてあげるしお風呂にも入れてあげるもちろん寝る時だって一緒今までできなかったことたくさんしようね空は剣の代わりなんだから
「うわー……」
サイが顔をしかめた。
「これ、どう考えてもキリくんからじゃないよね……」
ソラも声を震わせる。
「アイだね。ああ、おぞましい……」
ユミは肩を落とす。
「なんでこんなことになってんだ? キリはちゃんとソラからの返事を読んだのか?」
「読んだって言ってたよ」
キリと会話から得られた数少ない情報の1つである。
「それならまだ良かった……」
弟の無事を願うソラの言葉は届いていたようだ。ソラはほっとため息をつき、文を文机の上に置く。
「この件についてはトミサへ帰ったらクイに苦情入れとかないといけないね」
「ああ、そうだな」
鴛鴦文の取り扱いについても鳩の縛めに規定されることである。鴛鴦文の対象でも無い者が執筆するなど言語道断だ。
アイがどのような方法を使ったのかは定かでないが、規則を破ってでも成し遂げようという執念を感じさせる。
しかしながら先日、ユミ自身もソラの手を借りて鴛鴦文に想いをしたためたことになる。
とは言え、これは飽くまでもユミの言葉の引用に過ぎない。鴛鴦文となる便箋へ文字として記述したのはソラなのだ。
鴛鴦文を書く者は、それぞれの村に伝わる寓話や童歌などを引用することがある。ユミがやったこともそれと同じなのだ、と解釈することにした。そしてこれは、クイの言っていた灰色領域に該当するはずだと自らを納得させていた。
何より、ユミとアイとの行動には大きな差がある。ソラはユミの言葉を納得した上で執筆したのに対し、キリはアイの心情の吐露など承知していようはずもない。
ソラが言ったように、ユミらがこの文を開くのはこれが初めてだった。
ユミとサイがウラヤを発ったのは今日の朝のことである。親が不在であるハリをヤマの医院に送り届けると共に、改めてソラへ決意を示そうと出発の直前に顔を合わせに行ったのだった。
その際、クイから託された鴛鴦文を手渡していた。しかし午前の診療が始まる前と言うこともあり、中身を確認しないままその場を後にしたのだった。
今思えばソラの指摘は尤もであり、何故キリと会う前に文を読まなかったのかと疑問にすら思える。しかし、現在の状況を考えれば読まなくて正解だった言えるかもしれない。
読めばアイの恐ろしさを再認識し、ラシノへの出立を足踏みしていたかもしれないのだ。
ユミに今すべきことは、何よりもキリに会うことだった。
サイの言葉を借りるなら、それが壺を開けることに該当する。
そして壺を開いたからこそ、前に進むことも出来るのだ。
結果的にはラシノへ向かい、そこから生還を果たしたユミとサイは、再びヤマの医院の戸を叩くことになる。ただならぬ2人の心情を察し、ヤマはソラに半日ほど暇を与えてくれたのだった。
現在3人が腰を下ろす場所はユミの生家である。
かつては母と共に暮らしたこの家であるが、定住する者が居ない現在においては、密談におあつらえ向きの場所だと言える。
「なあ、キリってユミが出会った時――6年前か、そこからずっとアイにいじめられてるんだよな?」
「うん。お義父さんが居なくなってから、アイはキリを叩くようになったって言ってた」
「それっておかしくないか? なんで村の奴らはキリを助けてやらないんだ?」
サイは腕を組み、眉をひそめた。
現在のキリの安否を思うとあまり悠長な気分でもいられないが、自身の鴛について真剣に考えてくれようとするサイを見てユミは少し心が軽くなった。
「サイはトミサの生まれだからそういう発想になるんだろうね」
「ほう?」
サイは眉間の皺を深くしてユミの眼前へ詰め寄った。
「ち、近いよサイ……」
ユミにはそのつもりは無かったのだが、嫌味を含む口調になってしまったようだ。
「え、えっと。気分を悪くしたならごめんね。私が言いたいのは、トミサの中では鳩の縛めでがちがちに取り締まりを受けるんだけど、その他の村ではそうでもないんだってこと。サイはトミサの環境下で育ったから、虐待を許さないって意識があるんだよね。それはとっても優しいことだと思うよ」
「ユミぃ……」
あからさまにサイの機嫌が良くなったようだ。ユミに近づけていた顔をそっと離す。
「ふう、サイが単純で良かった」
「あ? なんか言ったか?」
「何も言ってないよ? お姉ちゃん」
ユミは頬に右手の人差し指を当て、小首を傾げて見せた。
「お前はやっぱり可愛いなぁ!」
ユミの頭が両手で鷲掴みにされる。そしてわしゃわしゃと撫でまわされた。
「ユミとサイさん、相変わらずだなぁ……」
ソラは優しく微笑む。もはやソラにとって姉同然の二人だが、傍からこのようなやり取りを見るようになって久しい。
身近に血の繋がる家族の居ない彼女である。しかしギンを始め、新たな家族とのつながりをもたらしてくれたユミには密かに感謝の念を抱いていた。
「サイにも見せたでしょ、私の懐に入ってた覚書。もりすはトミサの門の外で使うのも自由だって書いてたやつ」
サイに撫でられる手が止まるのを待ち、ユミは切り出した。
「あー、あれか。あれがどうした?」
「あれの意味は、もりすを使って村を渡り歩いてもトミサにはばれない……、こともあるってこと。さっき言ったようにトミサ以外の村には縛めの穴があるからね」
ユミはソラに目配せする。ソラは鳩の縛めに存在する穴の恩恵を受けた象徴とも言えるのだ。
「えっと、サイさんには私のことどこまで話したっけ」
「アイの娘ってことは聞いたぞ? ……そういやなんでこんなとこにいるんだ?」
今更ながらの問いかけだが、細かいことは気にしないサイらしい性格が現れている。
「私が生まれたばかりの頃、先生にラシノから連れ出してもらったの。その……、アイさんってあんな人だから……」
「なるほどな。ソラを連れ出した動機については納得だ。でもどうやって?」
「えっと……」
ソラは頭を捻る。鳩でないソラにとってその説明が難しい。
「細かいことは省くけど、やっぱりトミサの外に出たら取り締まりも手薄ってこと」
見かねたユミが代わりに口を開く。
「ふーん。確かに今日ラシノに行った限りじゃ、私たちがいることも他の鳩にばれる気はしなかったなぁ」
「そう。だからキリへの虐待に対しても縛めによる抑制を受けていないという現実がある。後はラシノの村の人達に、キリの行く末が委ねられていると言うところだろうけど……、誰も関わりたくないんじゃないかな、アイには。冷たいなとは思うけど、あのアイだからなぁ……」
同意を求める様に、ソラの様子を伺う。
「うん。娘であるはずの私だって嫌だもん……。あんまり村の人達を責められないかな。悪いのはアイさんだよ」
母親のことをお母さんと呼べないのは不幸なことだろう。ソラに対するそんな憐みの念が押し寄せたが、ユミ自身にも思い当たる節があり、しばらく言葉を紡げなくなってしまった。
「なあ、キリを縛めてるのって本質的にはアイなんじゃないのか? 鳩の縛めなんかじゃなくて」
場の沈黙を裂くように、サイが口を開いた。
「それは……、そうかも……」
言葉はおぼつかないが、思わぬ着眼点を得たとユミに衝撃が走る。
鳩の縛めの抜け穴、アイの狂気。これらを踏まえるとサイの発言は理にかなっている。
ユミがウラヤに住んでいた頃、鳩の縛めなど知る由も無かった。
それはユミが幼く未熟だったこともあるが、意識する機会もほぼ無かったためだ。
しかしながら、物心ついた頃より子供が森に出てはいけないと言いつけられていた。今となってはそれが鳩の縛めに由来するものであるとは分かっている。それでもユミの中では未だに、子と平穏に暮らしたい母の願いによるものだという認識が強かった。
アイからキリに向けてそれがまるで感じられない。
文机に置かれた文へ、ユミは改めて眼を通す。
「錐のことは開放してあげる錐はもう必要なくなる……か」
読みにくいなと思いながらも、気になっていた一文を拾い上げた。
必要なくなると言うことは、現時点においてアイはキリを必要としていることを意味する。
あれだけ虐待しておきながら、曲がりなりにもキリは今日まで育ちあがったのだ。
衣食住、最低限生命活動の維持に必要な世話はしていたと言うことだろう。そしてそこにはアイの明確な目的があったのだとユミは思い至った。
「アイの奴、まさか姉弟で鴛鴦の契りを結ばせようとしてたってことか? ダメだ、鳥肌立ってきた……」
先日、ユミの計らいもあって、ミズとコナという同性間にて鴛鴦文をつなぐことは出来た。
もはや他人事とも言えないサイは、その事実を知った時に驚きこそしたが特に抵抗もなく受け入れた。
そして性的指向の多様性について認識する機会にはなったのだが、姉弟同士という関係性はサイも受け入れ難いようだ。
「ま、まああれだな。私も姉さんとは小さい頃風呂でふざけて抱き合ったこともあるし、それと似たようなもんか? ……うーん、やっぱりちがうなぁ」
知らないこと、理解できないことを間違っていると切り捨てず、自身に適用しようと試みる。
そこにサイの人の好さが現れていると言えるのだが、やはり納得は行かない様子だ。
「サイ、トキ教官も言ってたでしょ? 近縁の者同士が鴛鴦の契りを結ぶのは良いことでないって」
「あー、そういえば」
「人には本能的にそれを避ける仕組みが備わっているらしいよ。今サイが嫌悪感を覚えているのはそのせい。サイは悪くない」
「じゃあ、仕方ないのかなぁ……」
しかし今1つ腑に落ちないという態度だ。
「それはともかく、アイにとってキリはソラをおびき寄せるための手段だったってことだね」
ユミはソラに視線を送る。
「ソラさえアイの手元に置くことが出来ればキリは用済み、そう思ってるんだよ」
「キリくん……」
「キリはすごいよ。あれでもアイのことを母親として扱ってるんだもん」
「うぅ……」
不意にソラの顔が曇る。
「あ、ソラ。ごめんね?」
キリには敬意を表してみたものの、ソラの前では無神経な発言だったかと反省する。
「ねえユミ。……私がアイさんの元へ行けばキリくんを助けられるの?」
ソラは伏し目がちに問うてみる。
「バカなこと言わないで!」
対するユミはおぞましい提案を全力で拒否する。
アイの文に従えばソラの言う通りである。しかし、当然ながら受け入れられるような要求ではない。
「アイはソラのことなんて求めてない。……本質的には」
「そうなの?」
ユミの言葉はあまりにも酷だが、ソラは気にしていない様子である。
「思い出して。アイにとってソラって誰のことか」
ソラの中でのアイの記憶は、6年前の邂逅に集約される。
「アイさんにとってのソラ……、あっ! アイさんの言うソラってどっちのこと? 私? それともユミ?」
「多分、どっちもなんだと思う」
ユミは即答する。ユミの中では既に結論づいていたのだが、ウラヤに舞い戻って来たのはそれをソラに納得してもらうためだった。
「覚えてる? ラシノに辿り着いちゃった時、アイが私達2人を見てどっちも欲しいって言ってたこと」
「うん。今でも訳が分からないけど、それがアイさんの認識ってことだよね。つまりアイさんは私じゃなくてもいいってことか……」
「そう。本質的に求めてないってのはそういうこと」
ソラのアイに対する感情は複雑だ。彼女に唯一評価を与えられるとすれば、ソラを我が子だと認識していたことである。その立場さえもユミに奪われてしまいそうなのだが、この件についてユミに嫉妬するのもお門違いと言うものだ。
「なあ、私にも分かるように説明してくんないか? 確かにアイ、気が狂ったようにソラって叫んでたよな。あれってユミに向けて言ってたのか?」
サイは不審そうに問いかける。
「そうだよ! 他にいないでしょ!」
ユミはつい口調を荒げてしまう。
「なんでだよ!?」
それに乗じる様に、サイの声色も強くなる。
「なんでって……。分かんないのサイ?」
「分かるかっ! お前ソラなのか!?」
「そんな訳ないでしょ! はぁ……、やっぱりダメだねサイは」
「んだと? こんにゃろう!」
サイは立ち上がり、ユミとの間合いを詰める。
「ま、待ってよ2人とも! 言い争ってる場合じゃないでしょう?」
既にユミの胸倉を掴んでいたサイの右手を、ソラは必死で引き剥がそうとする。しかししっかりと握られたそれは、ソラの力では遠く及ばない。
「わっ!」
サイがソラに顔を振ったかと思うと、その瞬間にはソラの体が横抱きに抱え上げられていた。
そして自分の物だと言わんばかりに、ユミから離れた場所へとソラを運ぶ。
「撫でさせろソラ。テコの代わりだ。なんかいらいらする」
サイはその場であぐらをかくと、その上にソラを座らせた。サイの左膝へソラの背を持たれさせ、その頭を乱暴に撫でまわす。
「ちょ、サイさん……。テコくんてサイさんの? いつもこんなことしてるの?」
ソラは胸元で両拳を握り、サイにされるがままである。
「ああ、可愛いものは可愛がってこそ可愛いからな」
ぐらぐらと首を振り回されながら、ソラはその言葉の意味を考える。しかし真相に辿り着くことは出来なかった。
「サイ、一旦手を止めて」
「あ?」
相変わらず不愛想な口調だったが、ユミの真剣な眼差しに射貫かれ、サイの手は動きを止める。
それに伴い、ソラの首の動きもぴたりと止まる。ちょうどサイの顔を見上げる角度だった。
ソラの美貌に見つめられると、サイの視線も自然と引き寄せられる。そして思わずソラの顎を掴んでしまう。
その2人の位置関係はユミにとって都合が良かった。
「空の眼は今誰を見てるの誰に見られてるの」
「サイさん……」
ユミに読み上げられたアイの文の一文。ソラは無意識のままに答えていた。
「サイ、何か気づかない? ソラの眼を見て」
「こいつぁ綺麗だなぁ……」
ため息混じりの呟き。ユミは嬉しくなってしまう。
「その綺麗な眼、他でも見たことない?」
「他でも? こんな綺麗なもん……」
呟きながらサイはユミへと視線を移す。
――そして息を飲んだ。
「ユミ、お前……」
もう一度、手元のソラの眼を見る。そこでようやくユミが言わんとしていることを理解する。
納得した様子で大きく頷くと、ソラの体をユミの隣に運び、座らせた。
そこには、赤い瞳に目尻の切れた眼が4つ並んでいる。
「同じだ……」
「やっと分かった? ギンも気づいてたみたいだよ。ソラの顔を初めて見た時から」
「いや、あいつは女ばっか見てたから気づくだろ」
「もーギンくんったら……」
まるで自分のことのように、ソラに羞恥心が芽生え出す。
「もう1人、同じ眼を持つ人を知ってるよ」
「え? ……あっ!」
「そうだよソラ。先生言ってたよね。ソラは父親と眼がそっくりだって」
子が親と似るのは普遍の真理である。
「お母さんも言ってた。私の眼がお父さんそっくりだって」
普遍の真理が重なり、新たな事実が明らかになる。
ユミは一度眼を閉じる。答えを勿体ぶろうとしての行動だったが、かつてアイには閉じた眼もそっくりだと言われたことを思い出す。
それがバカらしくなり、覚悟を決めて両眼を開いた。
「ソラは私の妹だ」




