第十三節 第三十九話 博打
奇術師と別れた後、ユミは大きな問題に直面していることを思い出す。
「あ、あんみつ……」
どんぶり鉢の中に鎮座するそれは、未だスイカの先端が齧られたのみであった。
その下には白玉や角切りにされた寒天がずっしりと構えている。
「無理すんなよ、ユミ。食え無さそうだったら残りは私が食ってやるからな」
事も無げに、サイはとんでもないことを言い出す。
その胃袋の底知れなさに圧倒されるが、余裕そうな口ぶりにユミはなぜか劣等感を覚えた。
「ねえサイ。今はテコと一緒に暮らしてるんだよね?」
「おうそうだ。鴛のいる暮らしはたのしいぞぉ」
顔に満面の笑みを張り付ける様は、ユミの眼から見ても気味が悪い。
「テコの飯は美味いんだ。あいつはすごいよな。5年前から私をぶっ倒すって目標掲げて、おまけに宣言通り料理までたくさん覚えてきやがって……」
だんだん腹が立ってくる。
かつてギンは、サイに対して女としての魅力がまるでないと評価していた。そんな彼に言い寄られていたのだから、嫌悪感は覚えつつもサイに対しては密かな優越感を抱いていた。
それが今や、ユミを差し置いて鴛鴦との幸福を享受している。
「サイには負けないから」
「んあ?」
間の抜けた返答はユミの苛立ちを一層募らせていく。
鬱憤を闘争心へと昇華させる。
ユミは匙を手に取り、あんみつを掻きこみ始めた。
――――
「素敵な鴦は吐いたりしないんだから……」
周期的にこみ上げてくる吐き気を我慢しながら、ユミは森を歩く。
キリの居るラシノへ行くためには、まずはウラヤへ辿り着かなくてはならない。
「だから無理すんなって言ったのに……」
サイは前屈みになるユミの背をさすってやる。体勢的にユミの眼からは確認できないが、サイが憐みの眼を浮かべているだろうと思うと情けなくなる。
「う、うう……」
「悪かったって、私が勝手に頼んだから」
あんみつを注文をしたのがサイだとしても、食べきると決意したのはユミだ。
思えばトミサにやって来た初日にも、クイに振舞われるまま獣肉の類を平らげていた。ユミにとって生涯で初めて満腹を味わう体験であったのだが、その晩は苦しむこととなり、おまけに母には叱られてしまった。これでは5年前からまるで成長していない。
「おぶってやろうか?」
「私が歩かないとウラヤの場所はわかんないでしょ……」
「それもそうだな」
トキから教わって来た助け合い。今はユミがサイを案内する立場にあるのに、それすらままならない。
「ねえ、このままキリに会っていいのかな? なんだか立派な鳩である自信が無くなって来た」
「今更何言ってんだよ。失敗は誰にでもあるんだ」
「でも……」
サイはその場にしゃがみ込み、ユミと眼の高さを合わせる。
「いいか、自信なんてもんは浮いたり沈んだりするもんだ。ほんの些細なきっかけでな」
「……まるで自信を失う体験をしたことがあるみたいな口ぶりだね」
「あるよ!」
ユミの背をさすっていた手を持ち上げ、そのまま勢いよく振り下ろす。
「ぶっ!」
うなじの下あたりを打たれ、吐き気が急激に喉元まで押し寄せる。ユミは慌てて両手で口を覆った。
「あ……、すまん」
恨めし気な視線がサイを貫いた。
「そうだな。今もやっちまったって気分にはなってるんだが、例えば……」
サイは屈んだまま顎に手を当て考え始める。
「ユミも知っての通り私はよく賭場に行くだろ? だけど勝てそうだったり、負けそうな気がしたり、日によって気持ちは傾くんだよな」
「負けそうなら行かなきゃいいのに……」
「そう思うだろ? でも行くんだよ。自信を無くすきっかけなんてほとんど義兄さんに叱られるせいだな。よく言われるんだよ、いい加減遊ぶ金と貯める金の区別ぐらいつけろってな。でも義兄さん、姉さんのこと出したら黙るんだよ。姉さんも金遣いは荒かったからさ。幼い頃から孔雀屋にはよく連れて行ってくれたよ。そんで食え食えって言ってくれるもんだから私も遠慮なくでかいあんみつを食べることが出来た。本当にいい思い出だよ」
「何の話?」
「何だっけ?」
「はぁ……」
ユミは首を左右に振り、深いため息をついた。
「自信がどうのって話でしょ?」
「ああそうだそうだ。さすがユミは賢いな」
「私じゃなくても分かるよ。多分」
未だに気分が優れず、サイへの駄目出しに切れが無い。
「さっきは自信を無くすきっかけの話だったけど、自信を取り戻す方法も知ってる。テコの頭を撫でてやるんだ。あいつは可愛いぞぉ。大人になって私の鴛になったって言うのに未だに……」
「もういいから!」
息も絶え絶えに声を張り上げた。
サイは家族の話になると止まらなくなる。ユミのことも、知らぬところであることないこと触れ回っているのではないかと疑わしい。
いつもであれば微笑ましくもなるこの性分だが、気分の悪さも相俟って苛立ちを隠すことが出来なかった。
「えーっと、そうだ。自信があろうとなかろうと、私は丁半博打の最初は丁に賭けるって決めてんだ。ピンゾロは丁だからな」
「わーたのしそー」
「当たるか外れるか、半々ってとこだな」
「そらそうでしょ……」
だんだん相槌を打つのも億劫になってくる。
「自信の有無は影響しないんだよな。既にそこにあるものに対しては」
「そこにあるもの?」
「壺の中に賽子を入れて振るだろ。そんで壷振りの手が止まって……。ああ、めんどくせー!」
サイは立ちあがり、顔の両脇の髪を束ねている賽子を抜き取った。そして懐に手を突っ込み、こぶりな壺を取り出す。
サイは右手に壺を持ち、左手に2つの賽子を握り込む。そして体の前で腕を交差させ見栄を切る。
「入ります」
ぼそっと呟くや否や腕の交差を解き、賽子を壺の中に放り込んだ。そしてその場に壺を伏せる。
「さあ、張った張った! 丁か半か?」
「え……」
淀みのない慣れた手つきにユミは圧倒されてしまう。
「当てたらまたあんみつおごってやるぞ」
「もう要らないってば!」
うんざりとしながらもユミは考える。
一体サイはユミに何を伝えようとしているのだろうか。
「外したら何か罰則あるの?」
「そうだな……。今日一日私のことをお姉ちゃんと呼んでもらおうか」
あまりのくだらなさに絶句する。
「……じゃあ半で」
「なんだよ投げやりだな。まあいいや」
サイはごほんと咳払いする。
「ようござんすか? ようござんすね?」
「いいよもう……」
壺は開かれる。
「シニの丁。ユミの負けだな」
「サイ、なんか仕込んだ?」
「こらこらユミ。お姉ちゃんだぞ」
サイは片目をつぶり、したり顔をして見せる。
「はいはい、お姉ちゃん」
「おーユミはいい子だなぁ」
ユミの頭へと手が伸ばされる。
「むー……」
怪訝な顔でサイを睨みつけるが、撫でられることでまんざらでもない気分になってしまう。
「賽子勝負は私の勝ちってことだが、結論から言うと私は何も仕組んでない」
「ほんとに?」
「ああ、ほんとだ。私は奇術師じゃないからな」
「でもお姉ちゃんよく言ってるじゃない。勝負には手段を選んでられない時があるって」
「あー……」
サイの顔から動揺の色が浮かびあがる。
「まあそれはあれだ。大人の勝負の時だ。おこちゃまのユミに対してそんなことしないぞ」
「……むしろその言葉で信用したよ」
その返答を聞き満足そうに頷くと、ユミの頭から手をどかした。
「今回に限っては、壺を伏せてしまった時点で出目は決まってる。賽子を確認するまでは、丁と半の事象が重なって存在しているなんて主張するバカもいるけど、そんなはずはないからな」
「それはそうだよね。お姉ちゃんにバカって言われる人は気の毒だけど」
「あ?」
サイは眉毛をつり上げる。
「いいから続けて」
「……いいか? これからユミはキリへ会いに行く。これは壺を開ける段だ。つまり半か丁か、既に張り終えているんだ」
「ん?」
「ああ、ユミは既にキリに会うための成果を上げてきたんだ。お前の自信があろうとなかろうとキリの答えは変わらんぞ。だがな……」
勿体ぶるように言葉を区切る。
「壺を開かなければ、答えを確認することは出来ないぞ」
「うん……。分かってる」
鴛鴦文の配達を通じ、告白とは確認作業であるとユミは感じていた。
ユミがこれから起こそうとしている行動は、告白とは異なるが同様だと言える。
キリがユミを迎える準備が出来たか、それの確認作業なのだ。
「さっき壺を開いていいか確認した時、ユミは特に躊躇わなかったよな? 少し投げやりだったのは気に食わんけど」
「そうだね。負けたところでお姉ちゃんて呼べばいいだけだから」
既にユミはサイのことを姉の様に慕っていた。お姉ちゃんと呼ぶことに抵抗をもたらすものがあるとすれば、少々気恥ずかしいという感情ぐらいだ。
「結果論でしかないけど、半に張った時点でユミの負けは決定していた。それでも負けを確認しに行った。その後に取る行動を既に考えていたからな」
「あー……」
サイの言いたいことが分かるような分からないような、複雑な感覚が芽生え出す。
「お姉ちゃん、なんかまだるっこしいな」
毒づいて見せるが心は既に穏やかだった。
「ユミの溺愛っぷりから察するに、今更キリがユミを拒絶するとは思えんけど、たとえそうなったとしてもその後でできることはあるんだ」
「うん」
「ユミは前に進むことは出来る。自信は無くてもいい。まずはとにかく壺を開け」
サイはにっこりと微笑みかけた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
ユミも自然な笑顔で応えてやる。
「よし、ウラヤまでの道案内頼んだぞ。腹ごなしにもちょうどいいだろ?」
「うん、大丈夫。ゆっくりでも前に進んで見せる」
――――
ユミらがウラヤの村に着く頃には、既に日が沈みかけていた。マイハの煌びやかな明かりが灯り始めている。
「ラシノに行くのは明日でいいよな?」
「うんそうだね。キリの前でお姉ちゃんって呼んでるの見られたくないし」
「別に明日以降も呼んでくれていいんだぞ?」
「今日限りだよっ!」
さすがにユミの腹は落ち着いていた。
今夜はユミの生家で休むことになる。
キリに会うのは確認の作業だとは言ったものの、風呂に入るなり、香を焚きしめるなり、できる準備はしておきたい。
「晩飯はどうするんだ?」
「もー、お姉ちゃんはそればっかり……。ごめんだけど一人でなんか食べといてよ」
「む、それは寂しいな。そんじゃソラんとこでも行くか」
サイはぽんと手を叩き、ヤマの医院のある方向を見据えた。
「お、あれはハリか?」
サイの視線の先に、とてとてと歩く少年の姿が見える。
「そうっぽいね。今日の診療のお手伝いが終わったとこじゃないかな?」
「おーい。ハリぃいいい!」
サイは大きく手を振り呼びかけた。その声量にユミは思わず耳を塞いでしまう。
少年との距離はまだ遠い。しかし、サイの大声は届いたようだ。嬉しそうな顔を浮かべ、ユミらに向かって走ってくる。
「サイおねーちゃん!」
やがて傍までやって来たハリを、サイは両手を広げて迎えてやる。
「おー、ハリ元気だったか?」
胸へと飛び込んできたハリの頭を撫でながら言う。
「うん! サイおねーちゃん久しぶり!」
ぐー。
ハリの耳元でサイの腹の音が聞こえてくる。
「サイおねーちゃんお腹空いてるの?」
耳のすぐ傍で聞こえて来た雑音に、ハリは首を傾げた。
「ああ、今からソラんとこ行って飯にしようかと思ってた」
「今はソラおねーちゃんいないよ?」
「そうなのか?」
「うん。なんかきゅーかんが出たからおーしんって言ってた」
「そうか、残念だな……」
サイはユミに目配せし、どうするかと問いかける。
「ソラには明日の朝会いに行くつもりだったんだよね。キリに会いに行く前に。だから今日は行かなくていいよ、先生のとこ」
「じゃあぼくのおうち来る?」
ハリはユミへと首を捻り、眼を輝かせる。
「いいの? 大飯食らいのお姉ちゃんも一緒だけど」
ユミの頭へゆっくりと手刀が振り下ろされた。
「今晩おかーさんいないの。トミサにしゅっちょーって言ってた」
「え、ハリ一人? 大丈夫なの?」
「ぼくもう6つだよ! おかーさん、明日の昼過ぎには帰って来るって。だから1人でも……」
気丈な言葉とは裏腹に、その口調はか細く頼りない。今にも泣きだしてしまいそうである。
やがてぶるぶると首を振り、再び口を開いた。
「あのね……。ソラおねーちゃんが忙しそうだったから、おかーさんのこと言わずに帰って来たの。でもやっぱり1人はこわくて……」
サイの胸へとぐっと頭が押し付けられる。
「なーんだ。そうならそう言ってくれればいいじゃないか! ユミ、今晩はハリと一緒に寝てやろうぜ!」
「そうだね。それにしてもハリ、優しくなったね。でも無理しちゃダメだよ? ソラだってハリが悲しむの見たくないんだから」
ユミはハリの頭の上にぽんと手を置いた。
「ユミおねーちゃん……。ごめんなさい」
「こらこらハリ。別に謝ることじゃないぞ。ユミはお前が心配なだけだ」
サイはハリの顔を覗き込み、微笑みかけた。
「よし、そうと決まれば飯だな!」
場の重い空気を裂くように、柏手を打ち立ち上がる。
「うん! おこめいっしょにたいてくれる?」
「おう、任せとけ! テコに美味い炊き方教わったからばっちりだぞ!」
食にこだわりのあるサイのことだ。さぞかしうまいのだろうと、ユミは思わず涎を垂らす。
「あ……、私は少しだけにしとくね?」
不意に戻って来た食欲を、理性で押さえつけた。
「ふふ、ユミ。遠慮はすることないんだぞ?」
サイは不敵な笑みを浮かべる。そしてひょいとハリの体を持ち上げると自らの首元へ跨がせた。
「お前んちまで肩車してやるよ!」
「やったぁ!」
その晩、ユミが苦しんだのは言うまでもない。
――――
母に叩かれた頬が疼く。
一打一打の威力は高くないが、繰り返される折檻は体に鈍い痛みを与えていた。
ラシノの鳩であるフデは何かとキリのことを気にかけてはくれる。しかし、母の暴力までは止めることが出来ないようだ。
アイはこっそりとフデに件の茶葉を要求することがある。それは母に束の間の安らぎを与えるのだが、効果が切れて眼を覚ました頃には気が狂ったようにキリを責め立てる。
アイの狂気は5年前、ユミとソラがラシノへ訪れた日より一層強く現れるようになったとキリは感じていた。
キリが2人を逃がしたことが原因だが、当然ユミを恨むつもりはなかった。むしろキリに希望をもたらす出来事だったと言える。
募るユミへの想いを鴛鴦文に託したことは博打だった。
想いが届かないどころか、誘拐というユミの凶行が露呈してしまう懸念さえあったのだ。それでも気持ちを抑えることが出来なかった。きっとユミも同じ気持ちなのだろうと信じていたこともある。
ソラからの返信が来た時は狂喜乱舞した。
キリはユミのことが大好きだと書いた。
ユミもキリのことが大好きだと書いてきた。
そしてユミは約束を守るため、頑張って来たとも書いてきた。立派な鳩になり、素敵な鴦になってキリを迎えに行く。5年前に交わした約束だ。
一方のキリも約束を守ると書いていた。アイと仲良くなるという約束だ。それは父の想いに報いる決意であり、ユミと再会するまでに果たさなければならない縛めであった。
しかし、キリは約束を果たせていなかった。体中に刻まれた痣がそれを物語っている。
故に姉のソラが返してきた鴛鴦文には未だ返事を書けないままでいた。
それでも約束を交わしたあの日以来、再会を果たした場所に佇み、森を呆然と見つめることはやめられないでいた。今現在のキリがそうであるように。
またひょっこりと、ユミがやって来てくれるのではないかと願いながら。
とは言え約束すら果たせぬ自分に、再びユミに手を引かれることなど許されないとも考えていた。
ユミとの森での生活が脳裏に浮かび上がる。
気恥ずかしくも麗しい記憶に心を温めながら、くるりと森へと背を向けた。
腰の上辺りまで伸びた髪がしなる。その中程にはユミから受け取った赤い織物が結われていた。
「キリ!」
不意に背後から、女の声が聞こえてくる。信じられない声だった。
既に森に惑わされなくなる歳だ。そもそも森に足を踏み入れている訳でもない。
何がこの声をキリに聞かせているのだろうか。
「キリ!」
もう一度声が聞こえる。先ほどよりも大きく、はっきりとした声だ。
思わず森の方へ向き直る。
そこには鴦の姿があった。ずっと想いを募らせてきた鴦の姿である。
「なん……で」
呟いたきり、キリは動けなくなってしまう。
鴦はキリに向かって駆け出した。
「キリ!」
三度目の呼びかけにキリは我慢できなくなった。たとえ幻影でだとしても、その声の主を迎え入れたくなっていた。
腕が自然と開かれる。
鴦が近づいてくる毎に、その姿は大きく目に写る。それと同時に、その体の小ささが露わになっていく。
目の前にユミの顔が迫る。当時は見上げていたその顔を、今では見下ろしている。
キリの脇の下にユミの腕が回される。
キリもその体を抱き留めた。




