四日目 危機
「バカめ、どうしてぞんざいに扱った!? あの女はすぐに乗り換える女なんだぞ!」
権藤は野間口絵梨子を邪険にした秘書を怒鳴りつけた。
「申し訳ありません!」
秘書は汗まみれになって頭を下げた。
「税理士会の会長から聞いていただろう? 人を簡単に裏切り、恩人にも後ろ足で砂を平気でかける女だと!」
権藤は秘書の不注意に激怒していた。
「恐らく、剣崎のところに売り込みに行ったはずだ。どうするんだよ!」
権藤は口に咥えていた葉巻を灰皿にねじ伏せて秘書を睨みつけた。
「何としても思い留まらせます。どうか、どうかお待ちください!」
秘書は床に土下座をして詫びた。
「必ず何とかしろ」
権藤は回転椅子に沈み込んで言った。
「はい」
秘書は立ち上がると一礼して幹事長室を出て行った。
「忌々しい女だ」
権藤は新しい葉巻を咥えて呟いた。
昼食を久しぶりに親子三人で摂った隆之助と綾子と凛太郎だったが、何の会話もないまま、回らない寿司屋を出た。
「さて、どうする?」
表通りに出たところで、隆之助が言った。
「麻奈未さんに連絡をしてみるわ。今夜会えないか」
綾子が応じた。凛太郎はギョッとして母親を見た。
「今更怖気づかないでよ、凛。しっかりしなさい!」
綾子は尻込みしている息子の背中を叩いた。
「う、うん……」
凛太郎は顔を引きつらせて綾子を見た。
「母さんが一緒に行かないとダメそうか?」
隆之助が尋ねた。綾子はムッとしたが、
「できれば、一人で会いたいよ」
凛太郎が言ったので、えっとなり、
「ちょっと、ホントに大丈夫なの?」
悲しそうに凛太郎の顔を覗き込んだ。凛太郎は綾子から顔を背けて、
「母さんと一緒に会ったら、マザコンだと思われるよ」
「いいじゃない、思われたって。実際にそうなんだから」
綾子は凛太郎の右腕に左腕を絡めた。
「嫌だよ! 好きな人にそう思われるの、どんだけつらいかわからないの!?」
凛太郎が腕を振り払って叫んだので、綾子は面食らってしまった。
「凛……」
綾子の目に涙が浮かんだ。隆之助は綾子の右肩を軽く叩いて、
「わかった。じゃあ、一人で会って来い。連絡も自分でするんだぞ。ラインではなくて、電話でな」
凛太郎の右肩をグッと掴んだ。
「え?」
凛太郎は父がそこまで突き放すとは思わなかったのか、目を見開いた。
「そうよ。マザコンでないなら、一人でできるでしょ?」
綾子は涙を拭って凛太郎に詰め寄った。
「あ、うん……」
まさか母にまでそんな事を言われるとは思っていなかった凛太郎は不承不承頷いた。
「あ」
昼休みを終えてフロアに戻る途中だった麻奈未は、凛太郎からの電話に気づき、足を止めて柱の陰に立って通話を開始した。
「はい」
凛太郎を怖がらせないようにと冷静に返事をした。
「麻奈未さん、今、大丈夫ですか?」
凛太郎の声は小さかった。麻奈未は泣きそうになったが、
「大丈夫よ」
凛太郎の反応を待った。
「今夜、空いていますか? 直接会って謝りたいので」
凛太郎の声は相変わらず小さかった。
「今夜?」
「ダメですか?」
麻奈未は凛太郎が尻込みしてしまうと思い、
「いいわよ。どこで会う?」
つい意地悪で「割烹料亭伊香保にする?」と訊きたくなってしまったが、流石に酷だと思い、
「最初にあったカフェにする?」
すると、
「はい。ではそこで。何時にしますか?」
凛太郎の声が明るくなった気がした。
「二十時で。いい?」
「はい。今度は遅れませんから」
凛太郎は喜んでいるように聞こえた。
「平気よ。じゃあ、また」
「はい」
麻奈未は涙が出そうになったのを堪えて、スマホをスーツのポケットに入れた。
(凛君は何も悪くないんだから、責めちゃダメ)
麻奈未は凛太郎にたくさん訊きたい事があったが、訊かない事にした。そして、実施部門のフロアへと歩き出した。
「あ、先輩」
麻奈未がフロアに入ると、中禅寺茉祐子が待っていた。
「中禅寺さん、どうしたの?」
麻奈未はこちらをじっと見ている姉小路を気にしながら、茉祐子に近づいた。
「今、織部統括官にも話したのですが、赤坂の割烹料亭伊香保で裏献金が渡されているという密告があったのはご存じですよね?」
茉祐子は麻奈未と共に姉小路から距離を取って、フロアの隅に行った。姉小路は諦めたのか、席に着いた。
「ええ。それが何か?」
麻奈未は眉をひそめた。茉祐子は声を低くして、
「密告して来たのは、剣崎総理の秘書官だとわかりました」
「ええ? それ、どういう事?」
麻奈未は目を見開いた。
「恐らくですが、剣崎総理が権藤幹事長の追い落としを始めたのだと思います。我々が調査した結果、ナサケの電話の着信記録から、秘書官の携帯の番号が判明しました」
「知られても構わないという事?」
麻奈未は茉祐子を見た。茉祐子は頷いて、
「恐らく。もし、隠すつもりなら、公衆電話でもいいはずですから」
麻奈未は剣崎の権力欲に寒気がした。
「それから、尼寺部長に事務次官が連絡して来たのも、剣崎総理の圧力のようです」
茉祐子は声を更に低くした。
「事務次官は権藤側じゃないの?」
麻奈未はまた目を見開いた。
「多分、乗り換えたのだと思います。権藤は潰されるのではないでしょうか」
茉祐子の言葉に麻奈未は溜息を吐いた。
「ちょっと、ごめんなさい」
麻奈未はスマホが振動するのを感じて、ポケットから取り出した。
(お母さん?)
それは母親の美奈子からだった。
「もしもし」
麻奈未はすぐに通話を開始した。昼間の美奈子からの連絡は、緊急以外はないからだ。
「大変よ、麻奈未。貴女の彼氏のスキャンダルが出てしまいそうなの」
美奈子の声はふざけているようには聞こえなかった。
「え? どういう事?」
麻奈未は何の事かすぐにわかったが、確かめてみた。
「貴女の彼氏が、赤坂の料亭の伊香保で同僚の女性と関係を持ったという記事が写真週刊誌に掲載されるという裏情報が入ったの」
「えええ!?」
麻奈未はつい大声を出してしまったので、慌ててフロアを飛び出した。
「先輩、どうされたんですか?」
茉祐子は出て行ってしまった麻奈未を見て、織部を見た。織部も只事ではないのを感じて、
「どうした、伊呂波坂?」
席を立って茉祐子と共にフロアを出た。
「お母さん、詳しく教えて。どうしてそんな事になっているの?」
麻奈未は廊下に誰もいないのを確認してから訊いた。
「ニュースソースは明かせないけど、私の伝によると、政治家が絡んでいるらしいわ。貴女の彼氏、何をしでかしたの?」
美奈子は愉快そうだ。麻奈未は溜息を吐いて、
「何もしでかしてないわよ。権力闘争に巻き込まれただけ」
「なるほど。合点がいったわ。権藤と剣崎ね。という事は、剣崎の手下が垂れ込んだって事か。これは貴重な話ね。ありがと、麻奈未」
美奈子は陽気な声だ。麻奈未は眩暈がしそうだったが、
「剣崎って、総理大臣の?」
「他に誰がいるのよ。貴女達、権藤を洗っているんでしょ?」
美奈子は得意そうだ。そして、
「貴重な情報をもらったから、力になってあげる。貴女の彼氏、晒し者にはさせないから、安心して」
「はあ? どういう事?」
麻奈未は美奈子の魂胆がわからず、焦った。何をするかわからない母親だからだ。
「貴女の彼氏、なかなかの色男だから、一度デートさせてくれる条件で、力になってあげる」
「バカな事言わないで! そんな事に応じられる訳ないでしょ!」
麻奈未が声を荒らげたので、後から来た織部と茉祐子はギョッとして立ち止まった。
「冗談よ。いくら私でも、可愛い娘の彼氏を盗ったりしないから」
「お母さん……」
麻奈未は脱力してしまった。
「でも、貴女の彼氏を助けるのは本当よ。期待して待っててね」
美奈子は麻奈未の返事を待たずに通話を切ってしまった。麻奈未はまた溜息を吐いた。
「どうした、伊呂波坂?」
織部が声をかけた。麻奈未は織部を見て、
「母からでした。どこからか、査察の事を聞き出したみたいで」
織部は苦笑いをして、
「さすが、鬼査察官の伊呂波坂太蔵の元奥さんだな。情報源が豊富なようだ」
「申し訳ありません」
麻奈未は織部に頭を下げた。
「いや、連間才明の時は、世話になったからね」
織部はチラッと茉祐子を見てから、
「それで、例の件はどうなったかな?」
麻奈未はハッとして、
「すみません、今夜直接顔を合わせますので、その時に訊きます」
「わかった」
織部は踵を返すと、フロアに戻った。
「本当はどんなお話だったのですか?」
茉祐子が小声で尋ねた。麻奈未は茉祐子を見て、
「今のが本当の話よ」
さすがに凛太郎の名誉に関わる事なので、笑って誤魔化した。
「ええ? 本当ですか、先輩?」
麻奈未が歩き出すと、茉祐子はそれを追いかけて食い下がった。
「本当よ」
麻奈未は茉祐子を見て言うと、自分の席へ歩いて行った。茉祐子は諦めてナサケのフロアに戻って行った。
「どういう事かしら?」
美奈子は麻奈未との通話を切って、不審に思った。彼女は元の夫の太蔵と昼食を終えたところだった。場所はまさしく凛太郎が優菜に誘惑された現場である割烹料亭伊香保の座敷だ。
「どういう事とは?」
太蔵は口に持っていきかけたお猪口を止めて美奈子を見た。
「ここは確か、権藤幹事長のお友達のお店のはず。麻奈未の彼氏の事をリークしたら、この店だって無傷ではすまない。そんな事をあの切れ者の幹事長がするかしら?」
美奈子はお猪口の酒をくいっとあおった。太蔵はお猪口をテーブルに置いて、
「そうだね。となると、やはり本命は剣崎総理か」
美奈子は手酌でお猪口に酒を注ぎ、
「そうね。現職の総理大臣のくせに、まだ権力欲むき出しなのよね、あのおじさん」
「警戒心が強いのだよ、あの人は。叩き上げだから、官僚出身の権藤幹事長とは徹底的に反りが合わない」
太蔵はお猪口を持ち直して言った。そして、
「それにしても」
美奈子に目を向けて、
「冗談でも、娘の彼氏とデートなんて、口にしないで欲しいね」
美奈子は目を丸くして、
「あら? ヤキモチ? 可愛いんだあ、太蔵さんてば」
ニヤニヤした。太蔵は顔を赤らめて、
「ヤキモチではなくて、貴女の品性を指摘しているだけだよ」
美奈子は機嫌良さそうに微笑み、
「はいはい。こんなおばさん、二十代の男の子が相手にしてくれる訳ないでしょ? 心配し過ぎよ、太蔵さん」
「いや、美奈子さんはおばさんではないよ。だから……」
太蔵がそこまで言うと、不意に美奈子が太蔵の脇に動いて頬にキスをした。
「み、美奈子さん!」
太蔵は倒れるのではないかというくらい顔を紅潮させた。
「ありがとう、太蔵さん。だから、大好き」
美奈子は屈託のない笑顔で言った。
夜になった。凛太郎は麻奈未と最初に会ったカフェの窓際の席でソワソワしながら待っていた。前回、久しぶりに会った時は、麻奈未が先に来ていたので、今回は一時間前に到着していた。しばらく待つ事になると思ったのだが、その十分後に麻奈未が現れた。
(よかった、早めに来て)
早過ぎたかと思ったのだが、麻奈未も早く来たので、ホッとした。
「凛君!」
麻奈未はにこやかに手を振り、凛太郎に近づいて来る。
(ああ、俺はこんな素敵な人を裏切る事をしてしまったんだ……)
そう思うと、涙が出て来た。
「ちょっと、凛君、泣かないでよ!」
麻奈未は驚いて向かいの席に座った。
「すみません、麻奈未さんの顔を見たら、何だか自分の情けなさが悲しくて……」
凛太郎はボロボロと大粒の涙をこぼした。
「ほら、泣くのはやめて」
麻奈未は鞄からポケットティッシュを取り出して、凛太郎に手渡した。
「ありがとうございます」
凛太郎は一枚ティッシュを取り出すと、涙を拭い、もう一枚取り出すと、鼻水をかんだ。
「本当に申し訳ありませんでした!」
凛太郎はテーブルに両手を突いて、頭を下げた。
「やめてよ、凛君。もう謝らないで。顔を上げて」
麻奈未は凛太郎の左肩を軽く叩いた。
「はい……」
凛太郎は涙目で麻奈未を見た。
「確かに、凛君は私を酷く傷つける事をした。それはそんな簡単に許せる事じゃない」
麻奈未は真顔で告げた。凛太郎は心臓が止まるかと思うくらい驚いた。
「私は優菜さんとは未だに面識もないし、電話で話した事すらないから、どんな人なのかは全然わからない。でも、凛君は、何年も優菜さんと一緒に仕事をして、彼女の事はある程度わかっているのよね?」
「あ、はい……」
我に返った凛太郎はかろうじてそれだけ声に出せた。
「だから、優菜さんに食事に誘われても、特に警戒する事なく、応じたんでしょ?」
麻奈未は、
(ああ、これじゃあ、脱税者を尋問する時みたいだ)
我ながら、職業病が出ていると思った。
「はい……」
凛太郎は俯いてしまった。麻奈未は苦笑いをして、
「私は凛君を責めているんじゃないの。自分の気持ちを整理するために確認したいだけ」
そう言いながらも、
(嘘よ。貴女は凛君を吊し上げたいの。正直になりなさい!)
自分自身を責めた。
「優菜さんが迫ってきた時、どう思ったの?」
麻奈未は凛太郎の顔を覗き込んだ。凛太郎は麻奈未の視線から逃れるように顔を背けて、
「驚きました。あのおとなしい優菜さんがこんな大胆な事をするなんてと……」
「そう」
麻奈未は従業員が注文を取りに来たので、身を引き、アイスコーヒーを二つ頼んだ。
「でも、俺が悪いんです。優菜さんに抵抗しないで、そのままにして……」
凛太郎はこの期に及んで、優菜を庇っている。麻奈未は凛太郎のその優し過ぎる性格が仇になっていると理解した。
「そうね。凛君が悪い。私もそう思う」
敢えて麻奈未はきつく出た。凛太郎がまた涙ぐんだ。
「だから、次はないと思って。次にその優柔不断さのせいで、私を傷つける事をしたら、その時はお別れするから」
麻奈未の言葉に凛太郎は目を見開き、固まった。
「凛君、優し過ぎるのも、相手に酷よ。きちんと自分の気持ちを伝えないと、優しくした分、傷を深くすると思う」
麻奈未は両手で凛太郎の右手を包み込んだ。
「私は別れたくないから。凛君とはずっと一緒にいたいから。だから、お願いね」
麻奈未も涙ぐんでいた。