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四日目 苦悩する者、歓喜する者

 麻奈未は涙を拭い、凛太郎からのラインを読んだ。

(優菜さんと一線を超えてしまったって、どういう事? どうしてそんな事になったの?)

 凛太郎はその事について詳細は語らず、ひたすら謝罪をしていた。そして、後日、直接会って謝りたいと結んでいた。

「あ」

 その時、知らない携帯番号から着信が入った。

「誰?」

 全く見覚えのない番号だったので、麻奈未は出るのを躊躇したのだが、

(凛君に何か関係のある人?)

 意を決して通話を開始した。

「はい、伊呂波坂です」

 麻奈未が応答すると、

「突然お電話して申し訳ありません。私は凛太郎の父親の木場隆之助と言います」

 相手は隆之助だったが、麻奈未は会った事も話した事もないので、眉をひそめた。

「凛君のお父様、ですか?」

 麻奈未が訝しんでいるのを感じたのか、隆之助は、

「重ね重ね申し訳ないです。昨夜、息子から連絡をもらって話し合った結果、ラインを送らせました。息子は貴女と話ができる程立ち直っていないため、そうさせてもらいました。ご了承ください」

 言葉を選びながら告げた。

(そうだったんだ……)

 麻奈未はまた涙ぐんだ。

(凛君は望んで優菜さんと一線を超えた訳ではないんだ……。よかった……)

 隆之助は麻奈未からの反応がないので、

「取り敢えず、この一件は、凛太郎の本意ではないのはご理解ください。私としましては、面識のある柿乃木優菜さんに直接会って話をしようと思っています。凛太郎の方は、恐縮ながら、妻の綾子が同席して、お話をしたいと申しております。そして、妻が改めて連絡を差し上げます」

 麻奈未は涙をもう一度拭って、

「わかりました。ご連絡、ありがとうございました。凛君、いえ、凛太郎さんにもよろしくお伝えください」

「こちらこそ、ありがとうございました。では、失礼します」

 隆之助は通話を切った。麻奈未も通話を切ると、スマホをスーツのポケットに入れた。


「どうだった、麻奈未さんは?」

 隆之助のすぐ横で聞いていた綾子が尋ねた。隆之助はスマホをスーツの内ポケットに入れながら、

「かなり動揺していたが、同意してくれたよ」

 綾子を見てから、凛太郎を見た。凛太郎はまた泣いていた。

「しっかりしなさい、凛! 午後になったら、母さんが麻奈未さんにアポを取るから、夜にでも会うわよ」

 綾子がソファに戻って凛太郎の背中を強めに叩いた。

「いたっ!」

 凛太郎はその勢いに顔を歪めて悲鳴を上げた。

「でも、麻奈未さんは忙しいんだから、少し間を置いてからの方がいいんじゃないの?」

 凛太郎は涙を拭って綾子を見た。

「そんな悠長な事を言っていたら、麻奈未さんに別れを切り出されるわよ! こういう事は早くした方がいいの!」

 綾子はまた凛太郎の背中を叩いた。

「わかったよ。叩かないでよ、痛いから」

 凛太郎は口を尖らせて言った。

「じゃあ、私は優菜ちゃんに連絡を取ってみるよ」

 隆之助がスマホを取り出すと、

「どうして貴方が優菜さんの連絡先を知っているのよ?」

 綾子が立ち上がって隆之助に詰め寄った。隆之助は苦笑いをして、

「おいおい、優菜ちゃんにまで嫉妬するのか? 彼女は啓輔の娘だぞ」

 綾子は「嫉妬」という言葉に反応して赤面し、

「嫉妬なんかしてないわよ! 優菜さんと会った事があるのは、あの子が子供の頃でしょ? 携帯なんか持っていなかったはずよ」

 口を尖らせて反論した。


「あ!」

 麻奈未は肝心な事を訊けなかったと気づいた。

(でも、凛君と話せていないから、仕方ないか)

 直接会った時に訊こうと思い、麻奈未は国税局の廊下を歩いた。

(お母様が連絡をくださるみたいだけど、いつ頃になるのかな?)

 ずっと待つのはつらい気がしたので、こちらからかけようかとも思い、

(凛君と直接話すのはまだ無理だけど、高岡先生となら話せる気がする)

 時間があったら、こちらから連絡してみようと決心した。

「伊呂波坂、連絡はできたか?」

 席に戻ると、姉小路と話していた織部が声をかけて来た。麻奈未はハッとして織部を見ると、

「すみません、まだ連絡していないです」

 頭を下げた。

「いや、構わないよ。急いではいないから」

 織部も茉祐子からそれとなく事情を聞いているので、無理強いはしたくないと思っていた。

「ありがとうございます」

 麻奈未は織部の心遣いを感じてまた頭を下げた。織部は麻奈未に微笑んで応じると、統括官の席に戻った。

「ねえ、何の話?」

 向かいの席に来た姉小路が小声で訊くと、

「姉小路、余計な詮索をするな」

 椅子に座りながら、織部が釘を刺した。

「あ、はい」

 姉小路は焦って頭を下げると、席に着いた。


「ふう……」

 高岡税理士事務所にあった私物を入れたバッグを抱えてアパートまで戻った優菜は、大きな溜息を吐いた。

(何してるんだろ、私……)

 凛太郎とそういう事になったのは全く後悔していないが、それが元で凛太郎と疎遠になってしまう事を考え、優菜は自己嫌悪に陥っていた。

(これじゃあ、一番軽蔑していた野間口絵梨子と同じだ。最低だ……)

 父親である啓輔とその愛人だった絵梨子の関係を心の底から蔑んでいた優菜自身が、それと同じ事をしてしまった。凛太郎を自分のものにしたいがために、肉体関係を持った。

(もう、お父さんを非難できない。私も同じ……)

 優菜は涙を流していた。

(凛太郎さんをまなみさんから奪うにしても、こんなやり方はしてはいけなかった。感情が先走って、まなみさんだけではなく、凛太郎さんも傷つけてしまった)

 優菜は床に置いたバッグに顔を埋めて泣いた。

(取り返しがつかない……。謝って許してもらえる事じゃない……)

 料亭では気持ちがたかぶっていたため、そんな負の感情は湧かなかったが、今日になって事務所へ行き、アパートまで帰る道すがら、冷静になるにつれて、怖くなっていた。

「え?」

 その時、スマホが鳴り出した。鞄から取り出して確認すると、「木場のおじ様」と出ていた。

(凛太郎さんのお父様?)

 優菜は鼓動が高鳴るのを感じた。

(どうしよう?)

 出るのが怖かった。隆之助に罵られるのではないかと思ったのだ。優菜が迷っているうちに、スマホは留守番電話に切り替わった。ピーと音が鳴って、隆之助の声が話し始めた。

「優菜ちゃん、久しぶり。ちょっと話がしたいので、時間がある時でいいから、連絡をください。お願いします」

 隆之助とはここ数年連絡を取っていなかったが、高校生の頃までは、家に帰らない父の代わりに話を聞いてもらっている親戚のおじさんのような存在だった。その頃と変わらない優しい声だったので、優菜はすぐに折り返す決心がついた。


「やっぱり出ないな」

 隆之助はスマホを切った。すると綾子はふふんと鼻を鳴らして、

「もう連絡先にないから、誰だかわからなくて出なかったんじゃないの? 留守電になってよかったわね」

 隆之助は呆れ顔で綾子を見て、

「見苦しいぞ、そういう態度は。優菜ちゃんに対抗意識を持ってどうするんだよ」

 綾子をたしなめた。綾子はムッとして隆之助に詰め寄ると、

「冗談じゃないわよ! 対抗意識なんかじゃありません! むしろ、優菜さんを心配してるのよ」

 隆之助が何か言おうとした時、スマホが鳴り出した。

「あ、優菜ちゃんからだ」

 隆之助は得意顔で綾子を見てから、通話を開始した。凛太郎は優菜からだと知り、ビクッとした。

「はい、木場です」

 隆之助の声が弾んでいるように聞こえたので、綾子はまたムッとして隆之助を睨みつけた。

「優菜です。ご無沙汰しています」

 優菜の声はか細かった。隆之助は微笑んで、

「そうだね。五年ぶりくらいだろうか」

 穏やかな声で告げた。

「はい。お元気ですか?」

 優菜の声が少しだけ明るくなったのを隆之助は感じた。

「元気だよ。優菜ちゃんは?」

 隆之助は自分から凛太郎の話を振るつもりはなかったので、優菜が言うのを待っていた。

「はい、何とか。ええと、お話って、もしかして、あの、凛太郎さんの事ですか?」

 優菜がゆっくりと切り出した。隆之助は綾子と凛太郎に目配せしてから、

「そうだよ。話せる事だけでいいから、教えてくれないかな?」

 隆之助は電話を代わりたがっている綾子を手で制して言った。

「はい……」

 優菜の声がまたか細くなった。隆之助は倫太郎を見てから、優菜が喋り出すのを待った。優菜はしばらく沈黙していたが、少しずつ何があったのかを話し始めた。しかし、実際に凛太郎の上に跨ってからの事は言わなかった。いや、言えなかった。

「そうか。そんなに凛太郎の事が好きなんだね。ありがとう、優菜ちゃん」

 隆之助の意外な返答に優菜は驚いたようだった。

「え? おじ様、凛太郎さんからも聞いているんですよね? ありがとうって、どういう……?」

「優菜ちゃんの凛太郎に対する思いに感謝しているんだよ。誰も優菜ちゃんを責めたりしないから、安心して」

 隆之助はパントマイムで電話を代わってと主張している綾子を無視して話を続けた。

「だけど、やり方は感心できないね。一度だけ、凛太郎に謝ってくれないかな。それだけでいいから」

 隆之助の言葉に優菜だけではなく、凛太郎も目を見張った。しばらく、沈黙が続いた。隆之助はなおも代われと身振り手振りで表現している綾子を押し戻して、優菜の返事を待った。

「是非、謝罪させてください。凛太郎さんだけではなく、お父様とお母様にも、そして、まなみさんにも」

 優菜は泣いていた。それは隆之助にもわかった。

「麻奈未さんへの謝罪は本人に聞いてみないとね。私と妻にはしなくていいよ。優菜ちゃんも凛太郎も大人なんだから、凛太郎にだけでいいと思う」

 隆之助はまた微笑んで言った。

「ありがとうございます、おじ様」

 優菜は涙声で言った。隆之助は、

「じゃあ、その時また連絡をください。待っています」

 スマホを切った。

「もう、代わってって言ったのに!」

 綾子が膨れっ面をした。隆之助はスマホをスーツの内ポケットにしまうと、

「ダメだよ。感情が先立っている君が優菜ちゃんと話したら、絶対に彼女を責めるのがわかっているからね」

 綾子を見上げた。綾子は顔を赤らめて、

「それはその……」

 隆之助の分析に一言もなく黙り込んだ。

「父さん、ありがとう。助かったよ」

 凛太郎は涙ぐんでいた。隆之助は涙脆い息子を苦笑いをして見ると、

「優菜さんとは二人で会って話をするんだぞ。そうでなければ、この件は収まらないから」

「ええ?」

 凛太郎は涙を拭っていたが、ギョッとして隆之助を見た。

「母さんがついて行ってあげるから……」

 綾子が助け舟を出したが、

「ダメだよ。そうやって甘やかすから、凛太郎が優柔不断で奥手になったんだぞ」

 隆之助がピシャリと拒絶した。

「だってェ……」

 綾子は口を尖らせた。彼女にもその自覚はあったのだ。

「わかったよ。父さんの言う通りだと思う」

 凛太郎は隆之助を見て言ってから綾子を見ると、

「ありがとう、母さん」

 微笑んだ。

「あ、うん」

 綾子は息子の言葉に照れて俯いた。


 一色は凛太郎の二股話を知り合いがいる丸山書房の雑誌の編集部に持ち込んだが、

「東京国税局のマルサの女をネタにして、そんな曖昧な情報で記事を書ける訳ないだろ? 今、そんな恐ろしい事をできる立場じゃないんだよ、ウチは」

 けんもほろろに門前払いをされた。一色はその事をすぐに絵梨子に話した。

「ならば、私がつてを使って通させてやるわ。待っていなさい」

 絵梨子は意気込んで権藤の秘書に連絡をした。マルサに目をつけられている権藤なら、必ず協力してくれると思ったのだ。しかし、

「ダメだ。そこは幹事長のご友人の店だ。そんな記事が出たら、店の名に傷がつく。絶対にそのネタは公表するな。もししたら、君を社会的に抹殺するぞ」

 秘書に激昂されて、断られた。

「そんな……」

 絵梨子はそんな風に言われるとは思っていなかったので、唖然とした。秘書は通話をそこで切ってしまった。一色に大見得を切って宣言してしまったので、絵梨子は途方に暮れた。

(何かいい方法はないものか……)

 絵梨子は所長室をうろうろしながら思索した。だが、なかなか思いつかない。そこへ一色からまた連絡が来た。

「どうでした?」

 一色の声に絵梨子はイラッとして、

「そんなに簡単に話が進むはずがないでしょう! 待ってなさい!」

 大声で言うと、一色が何か言っているのを無視して通話を切ったその時、ハッとなった。

(逆をつく? 権藤の敵である剣崎総理に話をすれば、聞いてくれるかも知れない)

 我ながらいい案だと思った絵梨子は、ほくそ笑んだ。


「野間口絵梨子? 何者だ?」

 剣崎は官邸の執務室で自席の回転椅子に座りながら尋ねた。

「権藤に情報を提供した税理士です」

 秘書官が答えた。剣崎は右の眉を吊り上げて、

「ほう。スパイではないだろうな?」

「その心配もありますが、どうやら権藤にあしらわれたようで、こちらに乗り換えるつもりみたいです」

 秘書官はニヤリとした。

「なるほど。話を聞いてやれ。権藤を陥れる事ができれば、願ったり叶ったりだ」

 剣崎もニヤリとした。

「畏まりました」

 秘書官は一礼して執務室を出て行った。

(権藤め。つくづく人望のない男だな)

 剣崎は与党本部がある方を見た。

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