一ヶ月と五日目 恋人の終わり
土曜日、大安。麻奈未と凛太郎は揃って役所に婚姻届を提出した。拘ったのはそれだけで、どちらかの誕生日とか、語呂合わせは考えなかった。
「凛君、忘れないでよ。結婚記念日を」
役所を出たところで麻奈未が告げた。
「もちろんです! 忘れるはずがありません!」
凛太郎は鼻息荒く応じた。
(こいつ、何でこんなに興奮しているの?)
麻奈未は引いてしまった。天然の彼女にはわからなかったのだが、凛太郎はとても口にはできないような事を思い巡らせていたのだ。
(遂に、遂に、麻奈未さんと夫婦になった! これで晴れて……)
そこまで考えると、凛太郎はハッと我に返った。麻奈未が半目でこちらを見ていたのだ。
「凛君、まさかとは思うけど……」
麻奈未が詰め寄って来たので、
「ち、違います! そんな事は考えていません! 純粋に麻奈未さんと結婚できた事を喜んでいるだけです!」
凛太郎は大汗を掻きながら必死になって言い訳した。
「え、それってどういう事? 釣った魚には餌をあげないって思っていたんじゃないの?」
麻奈未は全然違う事を考えていた。
「へ?」
凛太郎はキョトンとした。
「凛君たら、結婚した途端に私に冷たくなるんじゃないかって思ったんだけど、違うんだ」
麻奈未は微笑んだ。
「そんなはずないじゃないですか、麻奈未さん! 俺はもう永遠に麻奈未さんを愛し続けますよ!」
凛太郎は麻奈未が全然方向違いな事を想像していたのでホッとした。
「ちょっと、凛君、こんな公共の場で、大きな声で言わないでよ、恥ずかしい」
麻奈未は顔を赤らめた。周囲にいる人が立ち止まり、くすくす笑っていた。
「あ、すみません……」
凛太郎も顔を赤らめた。
「凛太郎達、無事婚姻届を出したそうだ」
自宅のリヴィングのソファで凛太郎からのラインを見て、隆之助が言った。
「どうして貴方にだけなのよ?」
綾子は自分のスマホに愛する息子からのラインがないので口を尖らせた。
「それはそうだろう? 何に対しても一言余分な君は、凛太郎に敬遠されても仕方がない」
隆之助は澄ました顔で綾子を見た。
「……」
綾子も最近凛太郎に露骨に避けられているのを感じているので、グッと詰まった。
「凛太郎が心配するのも無理はないな。君が嫌な姑になって、麻奈未さんをいびりそうだと言っていたからね」
隆之助がニヤニヤして言ったので、綾子はヒートアップした。
「冗談じゃないわよ! 私が麻奈未さんをいびるわけないでしょ! 私は麻奈未さんとは仲がいいんだから!」
綾子は隆之助に詰め寄った。
「貴方こそ、麻奈未さんにデレデレして、嫌われないようにしてよね」
「どうして私が麻奈未さんにデレデレするんだよ。バカな事を言わないでくれ」
いつもはやり過ごすスキルを身に付けている隆之助だが、綾子の言葉に珍しくムッとした。
「貴方は若い女性がお好きなようだから、心配してるのよ」
隆之助の怒りの感情を気にしてない様子で、綾子は言い返した。
「自分の息子の配偶者にそんな感情を持つ訳がないだろう! いい加減にしてくれ!」
隆之助が立ち上がって怒鳴ったので、綾子は自分が言い過ぎたのに気づいた。
「じょ、冗談よお。そんなにムキにならないでよ。悪かったわよお」
綾子は久しぶりに見た隆之助の剣幕に怯んで後退り、謝った。
「冗談でも、言っていい事と悪い事があるんだよ。そのくらいの事を弁えられないのなら、麻奈未さんにあの事を言うぞ」
隆之助はまだ収まらないらしく、伝家の宝刀を抜いた。
「だ、ダメよ、それだけは許して!」
綾子は顔色を変えて床に土下座した。
「わかればよろしい」
隆之助はフッと笑った。綾子は涙ぐんでいた。
「本当に婚姻届だけで終わりみたいね」
美奈子が言った。
「そのようだね」
太蔵が応じた。二人は老舗の喫茶店にいた。
「何年ぶりだろうか?」
太蔵が店内を見渡して呟くと、
「十年ぶりかしらね。懐かしいわ。このお店、何も変わっていない」
美奈子は微笑んで応じた。
「貴女も変わらないよ」
太蔵は微笑み返して美奈子を見た。
「やだ、太蔵さん、照れるわ。貴方がそんな事を言うなんて、何かあるんじゃないかしら?」
美奈子は太蔵に褒められたので、顔を赤らめた。今までそんな事を言われた事がなかったのだ。
「何もないよ。麻奈未に言われたんだよ。お父さんはお母さんに対して、言葉が足らないってね」
太蔵は美奈子が照れたので、自分も気恥ずかしくなり、赤面した。
「まあ、麻奈未ったら、自分の事に余裕ができたものだから、太蔵さんにアドバイスしたの? 驚いたわ」
美奈子は目を見開いた。
「急に二人の娘が結婚してしまったので、寂しくなると思ったが、聖生が伊呂波坂の名字を継いでくれると知って、少しだけホッとしたよ」
太蔵は運ばれて来たコーヒーを一口飲んだ。
「そうよねえ。麻奈未の夫の凛太郎君は一人息子だから、麻奈未があちらの姓になるのはわかっていたけど、聖生がまさか伊呂波坂のままになるとは思っていなかったわ」
美奈子は紅茶セットのケーキを一口食べた。
「一つだけ、訊きたい事があるのだが、訊いていいかね?」
太蔵はカップをソーサーに戻して言った。
「何かしら?」
美奈子はフォークを更に置いた。
「貴女は何故、私と離婚した後、名字を伊呂波坂のままにしたのかね?」
太蔵は美奈子をジッと見た。美奈子はクスッと笑い、
「面倒臭かったからよ」
その返答に太蔵は呆気に取られた顔になった。
「って言ったら驚くでしょ?」
美奈子はいたずらっ子のように笑った。
「あ、ああ。悪い夢でも見ているような気分だよ」
太蔵は噴き出した額の汗をハンカチで拭いながら言った。
「貴方はどう思っていたの?」
美奈子は頬杖を突いた。太蔵は俯いて、
「私に未練があるのだと思っていた……」
消え入りそうな声で言った。
「正解。未練たらたらなの」
美奈子は微笑んだ。
「ねえ、二人が結婚したのだから、私達もそうしない?」
美奈子が恥ずかしそうに提案したので、
「ああ、そうしよう。早く戻って来て欲しい」
太蔵は満面の笑みで美奈子に告げた。
「了解」
美奈子は太蔵の両手を自分の両手で包み込むように握った。
聖生と大介は、早くも結婚を隠し切れなくなり、同僚に話して、ホッとしていた。
「伊呂波坂は引き継ぐけど、あの家は出たいの。どこかに賃貸マンションを見つけないとね」
聖生は大介の寮にいた。だが、そこは独身寮なので、聖生が引っ越して来る事はできない。
「そうですか。じゃあ、探しましょう。いつ異動になるかわからないから、署の近くでいいですよね?」
大介が言うと、
「何言ってるのよ。署の近くなんて、高級マンションしかないわよ。無理に決まってるでしょ!」
聖生は大介に詰め寄った。だが、
「ああ、それでいいかも。やっぱり通勤に便利なとこが一番よね!」
大介を間近で見てしまうと、デレデレになってしまう症状は未だに続いていた。
「そうなんですか」
大介は聖生がそんな状態なのには気づいていないので、聖生の言動の不可解さに引いていた。
「そうと決まったら、探しに行こう、大介」
聖生は大介の腕に抱きついた。
「あ、はい」
大介は聖生の大きな胸の柔らかさを感じながら、顔を赤らめた。
「不動産屋さんも、私達の職業を見て、きっといい物件を紹介してくれるわね」
聖生はちゃっかりそんな事を考えていた。
(不動産屋を遠回しに脅して、家賃とか下げさせたりするつもりだろうか?)
大介は聖生ならそこまでやりかねないと思っていた。
「充、喜んで!」
トイレから飛び出して来た茉祐子が言った。
「え? どうしたんですか?」
妻のはしゃぎように充は面食らっていた。
「遂に命中したのよ! ほら!」
茉祐子は充に妊娠検査キットを見せた。
「は?」
まだピンと来ない充がキョトンとしていると、
「妊娠したのよ! 喜びなさいよ!」
茉祐子は充の襟首を捻じ上げた。
「ひい!」
充は怯えてながらも何とか茉祐子の手を振り払って、
「本当ですか? 本当に?」
涙ぐんで尋ねた。
「当たり前でしょ! こんな事、嘘吐かないわよ!」
茉祐子も充の涙を見てもらい泣きした。
「茉祐子さん!」
充は号泣して茉祐子を抱きしめた。
「苦しいよ、充!」
茉祐子はもがいたのだが、充は茉祐子を抱きしめ続けた。
「病院に行きましょう。早く!」
充は茉祐子の手を取って、玄関へ向かおうとした。
「待ちなさいよ! 私達、まだパジャマでしょ! 落ち着いて、充。そんなに慌てなくても大丈夫だから」
茉祐子は動転している充を嗜めた。
「ああ、はい」
充も自分の姿を見て我に返った。
「只今!」
麻奈未は太蔵からの思いもよらない連絡に驚き、凛太郎と共に帰宅した。
「いらっしゃい、凛太郎君。待ってたわ」
玄関で美奈子が出迎えたので、凛太郎の顔が引きつった。
「さあさあ、上がって」
美奈子に先導されて、麻奈未は複雑な思いを抱きながら、怯える凛太郎の手をしっかり握って、太蔵が待つリヴィングルームへ行った。
「お父さん、お母さんとよりを戻すって本当なの?」
麻奈未は未だに信じられないので、改めて尋ねた。
「それよりも、きちんと紹介してくれないか、麻奈未」
太蔵は凛太郎を見て言った。
「あ、ごめんなさい。こちら、高岡凛太郎です。私の夫です」
麻奈未は凛太郎を見てから、太蔵とその隣に座った美奈子を見た。そして、
「凛君、母は知ってるよね。こちらが、私の父の太蔵です」
父を紹介した。
「初めまして。高岡凛太郎です。麻奈未さんと結婚致しました。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
凛太郎は深々と頭を下げた。太蔵は美奈子と立ち上がり、
「丁寧な挨拶、ありがとう。伊呂波坂太蔵です。こちらは、また私の妻になる美奈子です。よろしくお願いします」
二人で頭を下げた。
「座って、凛太郎君」
美奈子は凛太郎が自分を怖がっているのを感じたのか、苦笑いをして、太蔵とソファに戻った。
「あ、はい」
凛太郎は麻奈未と一緒にソファに腰を下ろした。
「もうすぐ、聖生も帰って来るから、少し待ってくれるか?」
太蔵が言ったので、
「ええ?」
麻奈未と凛太郎は異口同音に叫んでしまった。
「あれ、お姉達、もう来てるの?」
そこへ聖生の声が聞こえた。麻奈未はふうっと溜息を吐いた。凛太郎は黙って麻奈未の肩を抱き寄せた。
「凛君」
麻奈未はそれが嬉しくて、凛太郎に頭をもたれさせた。
「あらあら、早速見せつけられちゃったわね、大介」
聖生がリヴィングルームに入るなり、大声で言った。
「聖生さん、失礼ですよ」
大介は相変わらず、聖生に丁寧語で接していた。麻奈未は反射的に身を起こして聖生を睨んだ。しかし、隣にいる大介が申し訳なさそうに手を合わせているので、何も言わなかった。
「凛太郎さん、この人が私の夫の大介です。伊呂波坂姓になってくれました」
聖生はデレデレで言った。麻奈未は半目で聖生を見ている。
「高岡凛太郎です。よろしくお願いします」
凛太郎は立ち上がって大介に頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします、お義兄さん」
大介が右手を差し出したので、凛太郎はそれを握りしめて、
「はい」
照れ臭そうに応じた。
(何だか、同じ星の人のようね)
麻奈未と聖生は自分の夫を見て思った。
「転居先は決まったの?」
麻奈未は凛太郎の隣にちゃっかり座った聖生を睨んで訊いた。
「まあね。職場の近くの不動産屋さんに行ったら、すごく丁寧に接客されて、いいマンションを紹介されたの。お家賃も手頃だったので、即決」
聖生はドヤ顔で言った。
「あんた、一歩間違えると、収賄罪になるわよ」
麻奈未が真顔で告げると、
「大丈夫よ。別に安くしてもらった訳じゃないし、何も要望していないもんね?」
聖生は大介を見た。
「はい、そうです。お義姉さん、何も問題ありません」
大介は聖生がギリギリな線で交渉していたのを見ていたが、言えなかった。
「お姉はどうなの? いつ凛太郎さんのお家に引っ越すのよ?」
聖生はここぞとばかりに反撃に転じた。
「当分、難しいと思うわ。今日もこの後、出勤しなければならないし、明日も資料集めで忙しくなりそうなの」
麻奈未の話を悲しそうに聞いている凛太郎を見て、
「可哀想な凛太郎君。寂しかったら、いつでもここに来ていいのよ」
美奈子が言い出したので、
「お母さん!」
「美奈子さん!」
麻奈未と太蔵にほぼ同時に嗜められた。
「はーい、慎みまーす」
美奈子は肩をすくめた。
「では、凛太郎君のご家族との食事会は先になりそうか?」
太蔵が言った。
「そうなりそうね。ごめんね、お父さん」
麻奈未が頭を下げると、
「私は別に構わないが」
太蔵はしょんぼりしている凛太郎を見た。
「どっちが先かしらね、お姉の引っ越しと食事会」
聖生がニヤニヤして言った。
「同時くらいじゃないの? 麻奈未が休めるようになってからだから」
美奈子が言った。
「それってさ、大介も参加していい?」
聖生が言うと、大介はギョッとした。
「もちろんよ。だって、すでに伊呂波坂大介なんでしょ? 参加資格あるわよ」
麻奈未までもがそんな事を言い出したので、大介の顔が引きつった。
まだまだ騒動がありそうな様相を呈していた。




