一ヶ月と四日目 急ぐ女、決意する女
「そうか。急だな。おめでとう」
麻奈未は翌日、織部統括官に結婚する事を報告した。
「はい、慌ただしくてすみません。婚約から日も浅いのに……」
麻奈未は織部に頭を下げた。
「謝らなくてもいいよ。公務員こそが働き方改革を推進して、育児休業を男女共取れるようにしていかないと、民間の方が動きが鈍くなるからね」
織部は微笑んで告げた。
「ありがとうございます」
麻奈未はもう一度頭を下げた。
「仕事の方は、気にしなくていいから、君達のタイミングで子供を作りなさい。ああ、これはもしかするとセクハラかな?」
織部は苦笑いをして机の向こうに立っている麻奈未を見上げた。
「いえ、そんな事はありません。温かいお心遣いだと思っています」
麻奈未は微笑んだ。
「それから、婚姻届の証人の欄にご署名をお願いしたいのですが」
麻奈未は婚姻届を差し出した。
「おお、もちろん、喜んで引き受けるよ。もう一人は、お相手のご家族かな?」
織部が婚姻届を受け取りながら訊くと、
「それが、あちらのご両親は複雑な関係なので、凛太郎が頼まなかったのです。ですから、もうお一人は、尼寺部長にお願いできないかと思いまして」
麻奈未は頭を掻いた。
「そ、そうか」
織部は顔を引きつらせて、
(確か、母親はあの高岡綾子税理士だったな。後で揉めたりしないのだろうか?)
一抹の不安が頭を過った。
「部長には私からお願いしておくよ」
織部は自分の署名をすませると、麻奈未を見上げた。
「よろしくお願いします」
麻奈未はもう一度頭を下げると、自分の席へ戻って行った。
「ええ!? 証人は麻奈未さんの上司にお願いした?」
織部の予感は的中してしまいそうだった。綾子は凛太郎から証人の事を聞き、目を見開いていた。
「そうだよ。その方がいいでしょ? 東京国税局の査察部の統括官と査察部長だよ」
凛太郎はここは怯んではいけないと思い、強く出た。
「まあ、それは箔がつくでしょうけど、ウチの方から証人を選べないのは、ちょっとねえ」
綾子は不満そうだ。すると凛太郎は、
「仮にウチの方から証人を選ぶとして、誰にするつもりだったの?」
半目になって尋ねた。綾子はグッと詰まった。
「まさか、母さんがなるつもりだったんじゃないだろうね?」
凛太郎は綾子に詰め寄った。
「悪い?」
綾子が詰め寄り返した。凛太郎は溜息を吐いて、
「前にも言ったけど、麻奈未さんは俺がマザコンだと思っているんだよ」
「マザコンじゃないの」
綾子が半目になった。
「違うよ! 母さんがムスコンなんだよ!」
凛太郎はムッとして反論した。
「それは違うわよ。私は母親として貴方を心配しているだけ」
綾子もまた自分が「母バカ」なのを認めない。
「そういうところなんだよ、母さんのいけないところは。だから、証人は麻奈未さんに一任したんだよ」
凛太郎は反省しない母を嗜めた。
「え……」
綾子は息子にそこまで言われるとは思っていなかったので、絶句した。凛太郎は更に、
「息子の入浴を覗く母親に証人なんか頼むと思った?」
追撃をした。綾子は真っ青になった。
「凛、まさか、麻奈未さんに言ったんじゃないでしょうね?」
綾子は震えながら訊いた。
「言う訳ないじゃん、そんな恥ずかしい話」
凛太郎は顔を背けた。
「そ、そう。絶対に言わないでよね」
綾子は引きつり笑いをした。
「それは約束できないよ。麻奈未さんと結婚して、母さんが麻奈未さんをいびったり、家に入り浸ったりしたら、容赦なく教えるから」
凛太郎は机の上に置いてあった鞄を持った。
「ば、バカな事言わないでよ。麻奈未さんをいびる訳ないでしょ?」
綾子の引きつりは酷くなった。凛太郎はドアに歩きながら、
「わからないさ。結婚した途端、義理の母親が意地悪になったって聞いた事あるから」
綾子が何か言い返そうとすると、
「行って来ます」
凛太郎はそのまま事務所を出て行った。綾子は溜息を吐くと、回転椅子に座った。
「父さんに矛先が向いたの? どうしようもないな」
凛太郎は昼休みに父からクレームの電話が入り、うんざりしていた。
「貴方が甘やかすから、凛がすっかり横柄になったって言って来たんだよ。凛太郎、いい加減、母さんの事務所を出たらどうだ?」
隆之助は半ば本気のトーンだ。
「父さんのところで働けって事?」
凛太郎が訊くと、
「それはダメだ。お前が来ると、優菜ちゃんが辞めてしまう。そうしたら、彼女は今度こそ行き場がない」
これは更に本気のトーンだ。
「ああ、そうか」
優菜の事を考えないようにしていたら、父の事務所で働いている事を失念していたのに気づいた。
「証人の件は、麻奈未さんと決めた事だろうから、口出しするなと叱っておいたから、もう言わないだろう。結婚したら、大変になりそうだな」
隆之助の言葉に凛太郎は大きく溜息を吐き、
「母さんにも言ったんだけど、結婚した途端、義理の母親が意地悪になったって話、聞いた事があるからさ」
「まあ、麻奈未さんは負けていなそうだから、心配していないんだが、母さんが家に入り浸るっていうのは、ありそうだから、くれぐれも戸締りには気をつけろよ」
夫の隆之助にそんな事を言われてしまう綾子は哀れであるが、自業自得だろう。
「もちろんだよ。鍵は付け替えるし、防犯カメラも付けるつもりだよ」
凛太郎は本気だ。
「そこまでは必要ないと思うが、何かあったら、すぐに知らせてくれ。離婚届を突きつけてやるから」
隆之助が爆弾発言をしたので、
「えええ!? それこそ、やり過ぎだよ、父さん!」
凛太郎は仰天してしまった。
「離婚はしないが、そのくらい脅かさないと、止まらないんだよ、母さんは」
隆之助は溜息混じりに言った。
「そうだね」
凛太郎はまた溜息を吐いた。
(どうしておじ様は何も言って来ないのだろう?)
優菜は、麻奈未の妹である聖生に会いに行った事を隆之助が問い質して来ない事に疑問を抱いていた。
(聖生さんが言っていないのかしら?)
聖生が麻奈未に黙っていてくれているのかと思った。実際は、優菜が聖生に「柿乃木優菜さんですよね?」と言われる遥か前に隆之助も凛太郎も知っていたのだから、優菜は取り越し苦労をしているのだ。
「水野さん、ちょっと」
そんな時、隆之助が所長室から顔を出して優菜を呼んだ。
「あ、はい」
優菜は立ち上がって隆之助に近づいた。優菜自身も、自分が隆之助の隠し子とか愛人とか噂されているのを伝え聞いている。だから、なるべく隆之助とは親しそうに話をしないようにしているのだが、以前、泣きながら所長室を出た時は、かなりあれこれ質問されてしまったので、より気をつけるようにしていた。
「失礼します」
優菜は一礼して所長室に入ると、後ろ手にドアを閉じた。
「すまないね、優菜ちゃん。少し話せるかな?」
隆之助は微笑んで告げた。しかし、優菜は警戒心MAXになっていた。
(遂に宣告されるの?)
隆之助は優菜が小刻みに震えているのに気づいた。
(どうしたんだ? 優菜ちゃん、怯えているのか?)
隆之助は優菜が怯えている理由に心当たりがないので、優菜の震えを理解できなかった。
「かけて」
隆之助はソファに優菜を座らせて、向かいに腰を下ろした。
「何か思い違いをしているのかなと思うのだが、どうだい?」
隆之助はまた微笑んだ。優菜は目を見開いた。
「君は一色雄大という愚か者に追われて、転居までした。その君を私が追い詰めるような事を言うと思っているのかね?」
「え?」
優菜は自分が勘ぐり過ぎだった事を思い知った。
「私の友人に警視庁の幹部がいてね。知らせてくれたんだよ。一色雄大は逮捕されて、すでに検察庁に送検されたそうだ。恐らく、実刑は免れないと言っていたよ」
優菜は一色が姿を見せなくなるとわかり、ホッとして涙を流した。
「おいおい、またそのまま飛び出して行かないでくれよ。私が極悪人にされてしまうから」
隆之助は苦笑いをした。優菜は釣られて笑い、
「すみません。これは嬉し涙です」
ハンカチを制服のポケットから取り出して拭った。
「そうか。よかった」
隆之助はもう一度微笑んだ。
「詳しい事はさすがに教えてもらえなかったが、奴は野間口税理士の元でいろいろと悪事を働いていたそうだ。服役は長くなるだろうとも言っていたよ」
隆之助は立ち上がった。優菜はハッとして隆之助を見上げて、
「あの、それだけ、ですか?」
尋ねた。隆之助は優菜を見て、
「そうだよ。あと何かあるのかね?」
肩をすくめた。
(おじ様、やっぱりご存じなのね? でも、言わないでいてくれるの?)
優菜は目を潤ませて、
「いえ、ありません」
立ち上がると、
「失礼します」
頭を下げて、所長室を出て行った。隆之助は自分の机に戻り、
(伊呂波坂聖生さんの事を心配していたのか。返って悪い事をしたな)
優菜を苦しめていた事を知り、後悔した。
「結婚してください」
拘置所で絵梨子と面会した姉小路はアクリル板越しにプロポーズをした。
「いきなり?」
そう言いながらも、絵梨子は嬉し涙を流していた。
「絵梨子は移り気だからね。鉄は熱いうちに打て、だよ」
姉小路は頭を掻いて苦笑いをした。
「失礼ね」
絵梨子は涙を拭いながら言った。
「絵梨子のところにいた一色とかいう男が警視庁捜査二課に逮捕されてすぐに送検されたそうだよ」
姉小路が言うと、
「一色が? 何をしたの? あいつは貸金業には関わらせていなかったのよ。使い込まれそうだったから」
絵梨子は眉をひそめた。姉小路は肩をすくめて、
「元同僚からの情報だと、顧客を騙して、金品を受け取っていたらしいよ。それだけではなく、君の事務所に内緒で確定申告を請け負ったりして、税理士法にも触れていたとも言ってた」
「そうなの。やっぱり、信用しなくて正解だったわ。お客様にまで迷惑をかけていたなんて」
絵梨子は憤慨していた。姉小路はまた苦笑いをして、
「君が仕込んだんじゃないのか?」
「まさか。あいつは柿乃木税理士事務所にいた時から、そういう男だったわよ」
絵梨子は心外そうに姉小路を見た。
「柿乃木啓輔の娘を誑かそうとしていたし。啓輔に内緒で『アルバイト』をしていたはずよ」
同類にするなとばかりに、絵梨子は姉小路を睨んだ。
「そいつはタチが悪いね。確かに絵梨子とは違う」
姉小路は知っていた。絵梨子は自分の顧客は大切にしていた事を。但し、職員は食い物にしていたのだから、どう考えても、一色と同類だとも思った。だからこそ、俺が絵梨子を救うんだと。
「それよりさ」
姉小路は絵梨子に顔を近づけて、
「さっきのプロポーズの返事を聞きたいな」
微笑んで告げた。
「意地の悪い言い方ね」
絵梨子はツンとして顔を背けた。
「え? まさか……?」
姉小路は絵梨子が拒絶すると思って焦った。
「聞くまでもないでしょ。イエスよ」
絵梨子は耳を赤くして顔を横に向けたままで言った。
「ありがとう、絵梨子。次に来る時、婚姻届を持って来るよ」
テンションが上がった姉小路が興奮気味に言うと、
「今日、持って来てないの?」
絵梨子は呆れ顔で姉小路を見た。
「うん、もしかすると断られると思ったから……」
姉小路はまた頭を掻いた。
「貴方、私をどれだけ意地が悪い女だと思っているのよ? 怒るわよ」
絵梨子は憎まれ口を叩きながらも、微笑んでいた。
「ごめん、手際が悪くて」
姉小路は頭を下げて謝罪した。
「私、できるだけ早く出所できるように努力するから、待っててくれる?」
絵梨子は真顔で言った。
「もちろんさ。でなきゃ、このタイミングでプロポーズしないよ」
姉小路も真顔で返した。
「ありがとう、潤」
絵梨子は目を潤ませた。
「じゃあ、また来るよ。今度は間違いなく、婚姻届を持ってね」
姉小路は立ち上がった。
「うん。必ずよ」
絵梨子は涙を拭いながら立ち上がった。
「姉小路から、野間口絵梨子にプロポーズをしたって連絡があったよ」
麻奈未が査察から戻ると、織部が言った。
「そうなんですか。姉小路さん、遂に思いを遂げる時が来たんですね」
麻奈未は微笑んで応じた。
「そうだな。あいつも、査察部へ来た時はチャランポランな奴だったが、成長したようだ」
織部は笑って言った。
「そうですか」
麻奈未は、姉小路は今でもチャランポランな人だと思っていたので、苦笑いをした。
「それから、これ。部長に署名していただいたよ」
織部は尼寺の署名が書かれた婚姻届を麻奈未に差し出した。
「あ、ありがとうございます」
麻奈未はそれを両手で受け取った。
「部長は、伊呂波坂が抜ける事を想定して、君の妹をスカウトできないかと言っていたよ」
織部が冗談とも本気ともつかないトーンで言ったので、
「それだけは勘弁してください。妹と同じ職場は気が滅入ります」
麻奈未は蒼ざめた。




