三日目 すれ違う二人と権力者の暗躍
「そうか。この男が査察の小娘の関係者か?」
権藤は幹事長室で一枚の写真を見ていた。それは高岡凛太郎のスナップ写真だった。明らかに隠し撮りされたものだ。
「はい。如何致しましょう?」
秘書がニヤリとした。権藤は写真を机の上に投げ出すと、
「小娘をこちらに抱き込むために、その男に仕掛けろ。暴力はダメだぞ」
「畏まりました」
秘書は頭を下げると、幹事長室を出て行った。
「剣崎め、財務大臣を動かしているらしいが、お飾りに過ぎない奴を動かしたところで、財務省全体を操れはしないぞ」
権藤もまた、剣崎の動きを掴んでいた。
権藤が仕掛けようとしている事など全く知らない凛太郎は、今日も顧客訪問をしていた。
(神村塗装の奥さん、話好きで困るよ。また予定が狂った)
凛太郎は次の訪問先へと急いでいた。今日は仕事を多くこなして、麻奈未さんの事を忘れるんだ。そう思っていた。
「あ」
内ポケットのスマホが鳴るのに気づき、凛太郎は慌てて立ち止まると、スマホを取り出した。相手は柿乃木優菜だった。
(どうしたんだろう? 事務所の電話からじゃないなんて)
不思議に思いながら、凛太郎は通話を開始した。
「お疲れ様です。どうしましたか?」
凛太郎が呼びかけると、
「すみません、いきなり電話してしまって。朝、凛太郎さん、落ち込んでいるように見えたので、心配になってしまって」
優菜が低い声で応じてきた。
「母さん、いや、所長は?」
凛太郎は優菜が電話してきたので、母親の綾子が不在なのはわかっていたが、一応確認した。
「先生は税理士会の会合でお出かけになりました」
優菜はそれでも低い声で言った。
「ああ、そうでしたね。それで?」
凛太郎は優菜が自分に好意を持っている事は知っている。だから、一定の距離を取ろうともしていた。
「今夜、空いていますか?」
優菜が切り込んできた。凛太郎は一瞬迷ったが、
「空いています」
嘘は吐けないので、正直に言った。
「では、お食事をしませんか? お話ししたい事があるんです」
優菜の声が差し迫ったものに聞こえたので、凛太郎は、
「お話ししたい事? もしかして、一色の事?」
以前、一色雄大が優菜を付け回した事を思い出した。
「違います。その時にお話しします」
優菜の声は強い調子になった。話すつもりはないと悟った凛太郎は、
「わかりました。では、何時にどこで?」
「七時に赤坂の割烹料亭伊香保で」
優菜の指定に凛太郎はギョッとした。
「そこって、高級料亭じゃないですか?」
「父がよく使っていた料亭で、顔馴染みなんです。もちろん、私が支払いをしますので、お気になさらず」
優菜は有無を言わさない声で告げた。
「いや、でもそれでは……」
凛太郎は優菜がそれ程金銭的に余裕があるとは思えなかったので、承諾しかねた。
「父の事なんです。お願い、凛太郎さん」
優菜の声は震えているのがわかった。凛太郎はスマホをギュッと握って、
「わかりました。では、七時に割烹料亭伊香保で」
「ありがとうございます。では」
優菜は通話を切った。凛太郎はスマホを内ポケットに入れながら、
(柿乃木所長の事? 何だろう?)
凛太郎は優菜が嘘を吐いているとは夢にも思わなかった。
(麻奈未さんは二、三日出張で戻らないと言われた。連絡はそれまでないよな)
凛太郎は麻奈未も嘘を吐いているとは思っていなかった。
(母さんには何て言おうか? 夜、連絡が来たらまずいから……)
凛太郎は地下鉄の階段を駆け下りながら、妙案を思いついた。
(そうだ)
凛太郎は父親である木場隆之助に連絡した。しかし、隆之助の携帯は留守電になってしまった。
(父さんも税理士会の会合か?)
凛太郎は諦めてスマホを内ポケットに戻した。
「どうして貴方の携帯に凛から連絡があるのよ?」
綾子と隆之助は一緒にいた。しかも、税理士会の会合ではない。二人で群馬県の伊香保温泉に日帰り旅行に来ているのだ。
「知らないよ。何だろう?」
凛太郎が連絡してきた理由がわからない隆之助は首を傾げた。
「いらっしゃいませ。当旅館の大女将の御徒町美玖里です」
綺麗な銀髪の和服姿の女性が笑顔で挨拶した。
「お世話になります、木場隆之助と高岡綾子です」
綾子が隆之助を押し退けて言った。
「あら、お忍びのご旅行ですか?」
大女将が声を潜めて尋ねた。
「ああ、本当は木場綾子ですが、仕事をそれぞれしておりますので、通常は旧姓のままなんです」
あらぬ疑いをかけられたのに気づいた隆之助が綾子を押し退け返して言った。
「そうなんですか」
美玖里は笑顔で応じた。
「お部屋にご案内致します」
古株の仲居が言い、二人の荷物を持つと、エレベーターホールへと進んだ。
「不倫旅行に見えた方が楽しいじゃないの」
綾子が隆之助の脇を軽く小突いた。
「わざわざそんな設定にする必要ないだろう?」
隆之助は呆れ顔だ。
「露天風呂付きのお部屋だそうだから、早く一緒に入りましょう」
綾子が腕を組んできたので、
「おい、大きな声でそんな事を言うなよ」
隆之助は顔を赤らめた。前を歩く仲居は笑いを噛み殺していた。
(凛君、あれからラインの連絡もなかった。怒っているんだろうな)
麻奈未は麻奈未で、落ち込んでいた。
「おはようございます、伊呂波坂先輩」
廊下で情報部門の代田充に会った。
「ああ、代田君、おはよう」
麻奈未は作り笑顔で応じた。代田は麻奈未の様子に気づき、
「どうかしたんですか、先輩?」
俯きがちな麻奈未の顔を覗き込んだ。
「あ、何でもないの。ちょっと考え事をしていたから……」
麻奈未はそのまま実施部門のフロアに入って行った。
「元気ないなあ、先輩」
代田が麻奈未を見送っていると、
「こら!」
後ろから恋人である中禅寺茉祐子が現れ、二の腕をつねった。
「いでで!」
代田は叫び声を上げた。
「恋人がいる職場で、他の女性に見惚れるなんて、いい度胸ね、充」
茉祐子は半目で代田を見ている。
「誤解ですって、茉祐子さん。先輩が落ち込んでいるようだったので、声をかけただけですよ」
代田は涙目で弁解した。茉祐子は溜息を吐いて、
「そうなのよ。昨日、伊呂波坂先輩の彼氏さんが来たらしいんだけど、先輩、心を鬼にして帰ってもらったそうなの」
「ああ、そうなんですか。なるほど」
代田は頷きながら、
「どうして先輩は、俺達みたいにオープンにしないんですかね?」
茉祐子を見た。茉祐子は代田を見て、
「私達ナサケと違って、ミノリはメディアに顔を出す事があるでしょ? そのせいで家族や恋人に迷惑がかかる場合があるから、あまり大っぴらにお付き合いをできないのよ。それくらい、わかりなさいよ」
詰め寄った。
「ああ、そうですね……」
茉祐子に顔を近づけられて、代田はドキドキしながら応じた。
「で、どうして急に私を旅行に誘ったのか、白状しなさいよ」
部屋に付いている露天風呂に一緒に浸かったままで、綾子は隆之助に詰め寄っていた。
「何か後ろめたい事でもあるの?」
隆之助は直に当たっている綾子の胸にドキッとしながら、
「後ろめたい事なんかないさ。国税局の友人から、凛太郎の恋人がやばい査察に関わっているって聞いてさ」
「え? 麻奈未さんが?」
綾子はスッと隆之助から離れた。隆之助は居住まいを正して、
「そう。どこを査察したのかは教えてもらえなかったんだが、どうやら背後に国会議員が絡んでいるらしいんだよ。それも与党の大物の」
綾子は隆之助の股間を覗き込んで、
「それで、どうして群馬の温泉に繋がるの?」
「与党の大物と言えば、群馬選出の権藤謙太郎だろう?」
隆之助は綾子の視線に気づいて身をよじった。
「ああ、そうか。権藤は与党の幹事長で、ここら辺が選挙地盤だっけ」
綾子は肩をすくめて隆之助から離れた。
「夫の股間を覗き込むって、悪趣味だぞ、綾子」
隆之助はムッとしていた。綾子はチロッと舌を出して、
「私のおっぱいに反応していたから、あっちはどうかなと思ったのよ」
「ば、バカヤロウ!」
隆之助は顔を赤らめて背を向けた。
「相変わらず、可愛いんだから、隆之助は。お風呂出たら、どう?」
綾子は背中から抱きついた。
「わあ!」
隆之助はびっくりして飛び上がった。
(面白い事になって来たわね)
事務所の所長室の回転椅子に深々と座った野間口絵梨子はニヤリとしてスマホを眺めていた。
(姉小路のおバカさんから、伊呂波坂麻奈未が丸山書房に査察に入った事を聞き出せて、それを権藤幹事長の秘書に話して高岡凛太郎の写真を渡したら、随分大金を出してくれたから、何かあるのよね)
権藤の秘書に凛太郎の写真を渡したのは、絵梨子だった。
「何を嬉しそうにしているんですか、先生?」
そこへノックもせずに入って来た一色雄大が訊いた。絵梨子は一色を見て、
「やっと伊呂波坂に一泡吹かせられそうなのよ」
「ほお、そうですか」
一色は机を回り込んで絵梨子の前に立った。
「で、僕はどうすれば?」
一色は右手でいきなり絵梨子の左胸を掴んだ。
「どうって、いつも通りに……」
言葉を遮るように一色が絵梨子の口を貪った。右手は胸を揉みしだいている。
「いつも通りに先生をお慰めすればいいのですね?」
一色は口を放して言った。
「そうよ」
今度は絵梨子が一色の唇に貪り付いた。
「あのさ」
廊下で不意に姉小路に背後から声をかけられた麻奈未は思わず飛び退いてしまった。
「な、何でしょうか?」
露骨過ぎる麻奈未の警戒心に流石の姉小路も傷ついた。
「伊呂波坂ちゃんに謝らなくちゃいけない事があってさ……」
姉小路は顔を引きつらせて告げた。
「謝らなくちゃいけないって何ですか?」
麻奈未は距離を取りつつ、眉をひそめて尋ねた。
「実は、またあの野間口絵梨子から連絡があってさ、ついつい呼び出されたバーに行ったまではよかったんだけど……」
姉小路の話では、バーで絵梨子に勧められるがままにカクテルを飲み、途中から記憶がなくなってしまった。そして何か重大な事を話してしまった気がすると言うのだ。
「何を話したのか、覚えていないんですか?」
麻奈未は半目で問い質した。姉小路は頭を掻いて、
「そうなんだよ。カクテルが予想外に濃かったみたいで、何も思い出せないんだ。唯一覚えているのは、伊呂波坂ちゃんの事を訊かれたって事だけで……。気がついたら、バーがあるビルの前で寝ていたんだけど、支払いは野間口がしてくれたみたいで、俺、全然金が減っていなかったんだよね」
麻奈未は呆れていた。あれ程忌み嫌っていた野間口絵梨子の呼び出しにのこのこ行ってしまった姉小路が信じられないのだ。
(男って、みんなこうなの?)
男性不審に陥りそうな麻奈未だったが、
(凛君は違う)
思い直した。しかし、それが脆くも崩れる事が起こるとは思いもしない麻奈未だった。
「わかりました。取り敢えず、この事は統括官に伝えますね」
麻奈未は蒼ざめてあたふたしている姉小路を尻目にフロアに入って行った。
「権藤が事務次官に圧力をかけて来たのか?」
官邸の執務室で、剣崎は秘書官から報告を受けていた。
「如何致しましょう?」
秘書官は剣崎の返事を待った。剣崎は椅子から立ち上がって、
「させておけ。最後の悪足掻きだ。どの道、奴は終わりだからな」
窓に歩み寄り、外を見た。
「畏まりました。事務次官にはどのように?」
秘書官が尋ねると、
「圧力に屈したふりをすればいい。奴に勝ったと思わせてやれと伝えろ」
「わかりました」
秘書官はお辞儀をすると、執務室を出て行った。
(連間の老いぼれがいなくなって、やっと名実共に日本の政治のトップに立てたのだ。そう簡単に譲るものか)
剣崎は窓の外に見える国会議事堂の中央塔を見た。
「はあ……」
財務省の事務次官室で、大きく溜息を吐いたのは、財務事務次官の一之瀬英吾である。紺のスーツを着て、髪は七三。前髪と生え際が白くなっている。
(悪い時期に事務次官になってしまった。板挟みだ)
一之瀬はスマホをスーツの内ポケットにしまうと、机の上の電話の受話器を取ってダイアルした。
「事務次官の一之瀬だ。尼寺査察部長に繋いでくれ」
しばらくして、尼寺が出た。
「たびたびすまんね。今度は官邸からだ。権藤幹事長の件、進めてくれとの事だ。そうだ。頼んだぞ」
一之瀬は受話器を置いて、椅子に沈み込んだ。
(政争の具にしないでもらいたいよ。権藤さんにつくんじゃなかったかな)
財務省の一期先輩という事で権藤についたが、結局いい事がない気がした。
(権藤さんも意地を張らないで、もう少し待てばよかったんだよ。剣崎総理もそう長くは続かないだろうからね)
一之瀬は全国の国税局の動向を把握している。剣崎は地元で黒い噂があるのを知っているのだ。だから、早晩、身を滅ぼす事を予見していた。だが、どう転ぶかわからないので、権藤には教えていないのだ。
(機を見るに敏。これが一番なのさ)
一之瀬は取り敢えず剣崎に着く事にしていた。