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一ヶ月と三日目 婚姻届はいつ出す?

  夜の事である。

「いいんですかね、俺らが参加して?」

 中禅寺茉祐子のアパートのベッドの上で、全裸の代田充が言った。

「何が?」

 茉祐子は風呂上がりで、やはり全裸である。長い髪をドライヤーで乾かしながら尋ね返した。

「だって、伊呂波坂先輩の恋人って、例の料亭から救出した人でしょ? 俺達に会って、トラウマ蘇るんじゃないですか?」

 代田は凛太郎と優菜が柳亭で何をしていたのかは知らないが、おおよその見当はついていた。

「まあ、それはあるかも知れないけど、先輩のお誘いなんだから、断われないでしょ?」

 茉祐子はドライヤーの風を代田の股間に向けた。

「あっつ!」

 代田はいきなりの事で飛び上がる程驚いた。

「やめてくださいよ、子種が死んじゃいます」

 熱さと驚きで代田は涙ぐんでいた。

「あ、それは困るね。中禅寺の名を受け継いでくれる子ができなくなっちゃう」

 茉祐子が陽気に応じたので、代田は項垂れた。いや、代田改め中禅寺充である。

「じゃあ、跡継ぎ作りにいそしもうか、充」

 茉祐子はドライヤーを放り出すと、充に馬乗りになった。

「え、まだするんですか?」

 充は辟易していたが、

「妊娠はそう簡単にはいかないの! ブツブツ言わず、頑張るの!」

 茉祐子は真剣な顔で充に詰め寄った。

「あ、はい……」

 茉祐子さん、好きなだけじゃん……。口が裂けてもそんな事は言えない充であった。

「妊娠したら、もっと広いところへ引っ越そうね」

 茉祐子が耳元で言うと、

「俺の実家じゃダメですか?」

 充が訊いた。しかし茉祐子は、

「ダメ。充のお母さんて、怖いんだもの」

 おどけて言った。いやいや。お袋が茉祐子さんの事、怖がってますよ。それも言えない充である。

「それに、充は中禅寺姓になったんだから、もし実家がいいとしても、それは私の実家じゃなきゃ」

 茉祐子の更なる追い討ちに充は絶句した。

(茉祐子さんのお母さんて、茉祐子さんより怖いんだよな)

 それよりはそのどちらでもないアパートか、既婚者専用の官舎にするしかないか。すっかり諦めがついた充なのだった。


「ねえ、最近、凛君が元気ないんだけど」

 聖生は夕食の片付けをしている時に、麻奈未あねに不意に言われた。

「え?」

 昨夜、姉に大介との婚姻を話した時、全く問い詰められなかったので、

(何を企んでいるの?)

 第一級警戒体制をまだ発令中の聖生は身構えてしまった。

「男性経験が豊富なあんたなら、何かわからないかな?」

 姉は微笑んでいる。だが、聖生はまだ油断できないと思っていた。聖生はゆっくりと麻奈未から離れながら、

「あのさ、お姉って、まだ凛太郎さんとの協定を撤回していないの?」

 麻奈未は聖生の動きと言葉に眉をひそめて、

「はあ? 何よ、協定って?」

 詰め寄って来た。聖生は悲鳴をあげそうになるのを何とかこらえて、

「ほら、あの、結婚するまでは清い交際ってやつ……」

 麻奈未はああっと小さい声で応じて、

「その事ね。もちろん、まだ有効よ。だって私達、婚約はしたけど、婚姻はまだだから」

 何故か胸を張って言った。聖生は苦笑いをして、

「これさ、あくまで私の経験からの推測なんだけど、凛太郎さんが突然プロポーズして、婚約まで怒涛の寄せを見せたのは、多分、それを破棄してもらうためだったんじゃないかと思ってさ」

「え? それってどういう事?」

 お姉って、カマトトじゃなくて、本当に天然なのかも。聖生は麻奈未の反応を見て思った。

「要するに、清い交際を終了したいのではないかという事よ」

 聖生はまた距離を取って言った。

「ええっ!?」

 麻奈未はようやく聖生の言おうとしている事に気づいた。

「凛君、私の身体目当てでプロポーズをしたっていうの?」

 麻奈未は顔を真っ赤にしてもう一度聖生に詰め寄って来た。

「そんな、ストレートに言わないでよ。凛太郎さんがそこまで思っているのかはわからないのだから」

 聖生は後退あとずさりした。

「ああ、うん……」

 麻奈未も自分があまりにもあからさまな言い方をしたのを思い知り、ますます顔を赤らめた。

「私が全然そういう態度を示さないので、凛君はガッカリしているって事?」

 麻奈未は火照ほてった顔を手で扇いだ。

「あくまで私の推測だから……」

 姉が深刻な顔で俯いたので、聖生は慌てた。

「そうなのかも……。男ってそういう生き物だもんね」

 麻奈未は俯いたままで言った。

「確かに世の男共はそういう輩が多いかも知れないけど、凛太郎さんは違うと思うよ。私がデートのフリをしてくれって頼んだ時だって、キスはさせてくれなかったもん」

 聖生は自分を犠牲にして麻奈未を慰めた。

「当たり前よ! それとこれとは関係ないでしょ!」

 姉を慰めたのに逆ギレのように怒鳴られたので、聖生は面食らった。

「凛君に訊いてみる。本当はどうして婚約を急いだのか」

 麻奈未はそのまま階段を駆け上がり、自分の部屋に入ってしまった。

(訊かない方がいいと思うけどな)

 姉には凛太郎を庇うような事を言ったが、聖生は凛太郎も男だと思っていた。


「え?」

 風呂に入って寝ようとしていた凛太郎だったが、スマホが鳴ったのでギョッとした。

(こんな時間にかけてくるのは、母さん?)

 迷惑電話の常連である母親の綾子しかいないと思ったのだが、

「あれ?」

 画面を見ると、表示されていたのは、麻奈未の名だった。

「ええ?」

 麻奈未が夜遅く電話をくれるなんて、余程の事だと思った凛太郎はすぐに通話を開始した。

「どうしたんですか、麻奈未さん? 何かありましたか?」

 凛太郎は心配が先走っていたのだが、

「凛君、ちょっと訊きたい事があるんだけど」

 麻奈未の冷静極まりない口調にまたギョッとした。

(な、何だ? 麻奈未さんが静かに話す時は、何かあった時だ。思い出せ、俺! 何をやらかしたんだ?)

 確かにやらかしだったかも知れないが、凛太郎は激しく勘違いしていた。

「な、何でしょうか?」

 高鳴る動悸を鎮めながら、凛太郎は呼吸を整えた。

「凛君さ、どうして急にプロポーズしようと思ったの? 何か、焦っていたような気がしたんだけど?」

 麻奈未の言葉に凛太郎の心臓は止まりそうになった。

(麻奈未さん、気づいた? 気づいてしまった?)

 ゲスな考えを麻奈未に見抜かれたと思った凛太郎は尋常ではない汗を身体中に掻き始めた。

「まさかとは思うんだけど、結婚するまで清い交際でっていう約束のせい?」

 麻奈未の追い討ちは凛太郎を凍り付かせた。

(やっぱり……。麻奈未さん、気づいてしまったんだ……)

 凛太郎は項垂れた。

(軽蔑される。麻奈未さん、そういうの、嫌いだもんなあ……)

 麻奈未は聖生が男と付き合うと簡単に身体の関係を持つのを非難していた事があるのだ。だからこそ、「結婚するまで清い交際」という条件を凛太郎に突きつけたのだと思っている。

「そうなの?」

 凛太郎が沈黙したままなので、麻奈未が言った。

「すみません! そうです! 麻奈未さんと結婚して、早く子供が作りたかったんです!」

 凛太郎はこんな嘘、すぐに見破られると思ったが、やぶれかぶれで言い放った。すると、今度は麻奈未が沈黙した。

(やばい。あまりにも子供騙しな嘘なので、麻奈未さん、怒りに震えているのかも……)

 凛太郎は麻奈未が爆発する前に謝罪しようと思って口を開きかけた。

「嬉しい、凛君! 子供が好きなんだね。私と一緒」

 麻奈未は涙声になっていた。

(麻奈未さん、泣いてたの?)

 凛太郎は麻奈未があまりにも天然なのに驚いた。

(仕事をしている時の麻奈未さんとは全然違う。何だろう、可愛過ぎる!)

 凛太郎はもらい泣きしそうになった。

(こんなに純真な麻奈未さんに対して、俺は何て不純な男なんだ!)

 聖生が推測した通り、凛太郎は麻奈未とあんな事やそんな事をしたかっただけなのだ。ゲスな奴なのである。

「だったら、すぐにでも婚姻届を出そうよ。私、上司に頼んで、証人になってもらうから」

 麻奈未の天然発言は続いていた。

「はい……」

 凛太郎は申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。

「もう遅いし、切るね。お休みなさい」

「お休みなさい」

 凛太郎が呆気に取られる程、麻奈未は突っ走っていた。

(よし、これで!)

 ところが、凛太郎はスマホを置くと、ガッツポーズを取った。そして、

「あ、いかん!」

 自分の性欲丸出しの反応を反省した。


「ああ、お姉、どうしたの?」

 聖生は廊下でにやついている姉を見て眉をひそめた。

「あ、聖生!」

 麻奈未は婚姻届を出す事が決まったので、つい顔が綻んでしまったのを聖生に見られたのに気づき、慌てた。

「凛太郎さんに電話しちゃったの?」

 聖生は苦笑いをして尋ねた。

「うん。凛君、早く子供が欲しいんだって! 私と同じ!」

 姉は落ち込んでいると思った聖生は麻奈未が歓喜しているので、驚いた。

(子供が欲しいって……。そんな嘘、信じたの? やっぱりお姉は天然だ。言うと激怒するけど)

 聖生は姉を憐れんだが、

「そうなんだ。よかったね」

 作り笑顔で言った。

(まあ、お姉も喜んでいるし、凛太郎さんもやっと童貞捨てられるんだから、ウィンウィンか)

 聖生は酷い事を思っていた。

「明日にも、婚姻届をもらって来て、提出しなくちゃ」

 麻奈未は鼻歌を歌いながら部屋に戻ろうとした。

「でもお姉、子供を作るとなると、仕事、セーブしないといけないよ? 私も統括官にすぐには子供は作りませんて言ったんだけど、大丈夫なの?」

 聖生が声をかけると、

「あ」

 麻奈未はその事に思い至っていなかったのか、唖然とした顔で聖生を見た。聖生はその顔に引いてしまった。

「どうしよう、マルサ辞めないとかな?」

 麻奈未は泣きそうな顔になった。

「私に訊かないでよ。それこそ、お姉の直属の上司の統括官に訊けば? 証人になってもらうんでしょ?」

 聖生は呆れ顔で告げた。

「ああ、そうか。わかった」

 麻奈未はまた悲しそうな顔になり、部屋に入った。

(浮かれるのはいいけど、もう少し冷静に考えてよね。子供みたい)

 聖生は肩をすくめて、自分の部屋に入った。


 一方、二人の父である太蔵は、自室で元妻の美奈子と電話で話していた。

「麻奈未がぐずぐずしていたから、聖生に先を越されちゃったんでしょ? いきなり二人が結婚に動き出すなんて、本当にびっくり。しかも、二人とも式も披露宴もしないなんて、誰に似たのかしらね?」

 美奈子の嫌味たっぷりの声に太蔵は溜息を吐き、

「それは仕方ないよ。二人とも激務だからね。当人同士が納得しているのだから、私達があれこれ口を挟む事ではないと思うよ」

「それより、凛太郎君のご家族との食事会はどうなっているの? 太蔵さんがごねてるって聖生から聞いたけど?」

 美奈子が言うと、太蔵はムッとして、

「ごねてなどいないよ。只、美奈子さんの事を頼まれたので、気乗りしないだけだよ」

「それ、どういう意味? 私の相手をするのが嫌という事?」

 美奈子も口調が強くなった。

「そうではないよ。麻奈未と美奈子さんは相性が悪いから、それで頭を悩ませているんだよ」

 太蔵は美奈子が強く出るとすぐに引き下がってしまう。

「麻奈未とは相性は抜群よ。何も問題はないわ」

 美奈子はどこ吹く風だ。

「だったら、麻奈未の恋人にちょっかいをかけるのはよしなさい」

 太蔵は厳しい口調で言った。

「え?」

 美奈子はそんな返しをされると思っていなかったのか、絶句した。

「麻奈未の恋人の凛太郎君は、とても繊細な心の持ち主だそうだ。君は冗談のつもりでも、相手は怯えてしまう事もある。もう少し、考えて行動をするようにしないと、愛想を尽かされるよ」

 太蔵の言葉は穏やかだったが、美奈子の言い訳は許さないという強い信念を持っていた。

「はい。ごめんなさい」

 美奈子も太蔵が本気なのを悟ったのか、素直に謝罪した。

「美奈子さんがわきまえてくれるのであれば、私はいつでも食事会に出席するつもりだよ」

 太蔵は微笑んで告げた。

「わかったわよ。おとなしくします」

 美奈子は小さな声で応じた。

「じゃあ、もう遅いから、寝るよ。お休み」

「お休みなさい」

 太蔵は美奈子が通話を終えるのを確認してからスマホを切った。

(本当に大丈夫なんだろうな)

 一抹の不安を隠し切れない太蔵である。


「ねえ」

 寝室のベッドに横になったところで、綾子が隆之助に声をかけた。

「何だ?」

 隆之助は背を向けて目を瞑っていたが、何事だと思って綾子を見た。

「凛がいきなり結婚するって言って来たの、気にならない?」

 綾子は隆之助ににじり寄って来た。

「どういう事だ?」

 隆之助は綾子を押しのけるようにして応じた。

「あの子、式も披露宴もしないって言ったので、早く婚姻届を出して、私達の動きを封じようとしているんじゃないかな?」

 綾子の邪推に隆之助は、

(私達じゃなくて、私の間違いだろ?)

 そんな事を思いついたが、早く寝たいので言わなかった。

「自分の息子をそんな風の思うの、どうかと思うぞ」

 隆之助は話は終わりとばかりに、また綾子に背を向けると目を閉じた。

「もう!」

 綾子はムッとして夫に背を向けると、明かりを消して目を閉じた。

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