一ヶ月と一日目 落ち込む女、浮かれる女、意固地な女
「ええ? 結婚式も披露宴もしない?」
凛太郎は、母に伝えるだけだとややこしくなりそうなので、休日の午前中、父と母が住んでいる父の家に行って、麻奈未と決めた事を伝えた。二人共、凛太郎の言葉に驚き、異口同音に叫んだのだが、
「まあ、二人がそれでいいのなら、私は構わないよ」
あっさり同意してくれた隆之助と違い、
「冗談じゃないわ! 何をバカな事を言っているの、凛! 貴方はそれでいいかも知れないけど、麻奈未さんのご家族や勤務先の上司の方の事を全然考えていないわね!」
凛太郎と麻奈未の予想通り、綾子は激怒した。
「麻奈未さんが言い出したんだよ。ご両親共、婚約した事を伝えたのに、全然喜んでくれなかったので、婚姻届だけ出して終わりにしようって。母さんこそ、麻奈未さんの事を全然考えていないじゃないか!」
凛太郎にしては珍しく、母に怒鳴り返した。綾子は凛太郎に言い返されると思っていなかったのか、一瞬絶句したが、
「ダメなものはダメよ! 麻奈未さんがしなくていいと言っても、あの人の勤務先は東京国税局なのよ!? そんな不義理な事が通ると思っているの!?」
綾子は更に言い返した。凛太郎は「東京国税局」の名を出されて、怯んでしまい、
(麻奈未さんの立場が危ういって事?)
助けを求めるように隆之助を見た。
「それは関係ないだろう? 公務員だからこそ、派手な事は控えるのが、昨今の流れだと思うがね」
隆之助は隣で息巻いている妻を見た。
「それはそうかも知れないけど……」
綾子は隆之助の正論に口を尖らせた。
「それに、二人が式も披露宴もしないって決めた事にとやかく言う権利は君にはないと思うよ」
隆之助は不満そうな顔をしている綾子にとどめの一撃を刺した。
「う……」
綾子は顔を紅潮させて俯いた。今度こそ何も言えなくなったようだ。
「ありがとう、父さん」
凛太郎は隆之助に礼を言ってから、
「ごめんね、母さん。その代わり、家族の食事会は気合い入れるから」
綾子のそばに回り込んで、顔を覗き込んだ。
「うん……」
綾子は凛太郎の優しい言葉に感激したのか、泣き出してしまった。
「うわ、母さん、泣かないでよ」
「泣くような事か?」
凛太郎と隆之助は綾子の感情の起伏の激しさに呆れた。
(お父さんの反応は想定内だったけど、問題はお母さんね)
麻奈未は凛太郎と別れた後、帰宅してすぐに太蔵に話した。
「そうか。いいんじゃないか」
婚約の事を伝えた時と同様で、父は言葉少なだった。
「お父さん、お姉が結婚するのが寂しいのよ。わかってあげて」
聖生に言われたが、麻奈未は納得ができなかった。
「いくら寂しいからって、あんな反応ある? 信じられないわ」
麻奈未は父が入浴中に、聖生と洗い物をしながら愚痴った。
(そして、聖生から驚きの報告があったのよね)
麻奈未は聖生が天川と付き合う事になったと聞き、呆気に取られた。
(早速、いそいそと出かけたのにもびっくりだけどね)
聖生は天川とデートの約束をしていて、嬉しそうに朝早く出かけた。
(こんな状態でお父さんと二人にされるの、嫌だな)
麻奈未は溜息を吐き、食器を片付けた。
「麻奈未」
そこへ父が現れた。
「お父さん、いきなり声かけないでよ、ひっくりしたわ」
麻奈未は父が忍んで来たので、悲鳴をあげそうになった。
「ああ、すまん」
太蔵は麻奈未の驚きようを見て、気まずくなったのか、謝罪した。
「忙しいから、式も披露宴もしないのか?」
太蔵は静かに尋ねた。麻奈未はタオルで手を拭いながら、
「それもあるけど、式とか披露宴とか、客観的に見ると、何だか恥ずかしいから、しなくていいかなと思ったの」
さすがに貴方の反応の薄さにガッカリして、省略する事にしたとは言えなかった。
「そうか。同じだな」
太蔵は自嘲気味に言った。
「同じ? どういう事?」
麻奈未は父を真正面に見て訊き返した。太蔵はリヴィングルームに向かいながら、
「私と美奈子さんも式も披露宴も挙げていないからだよ」
麻奈未は目を見開いた。
「知らなかったわ。そう言えば、お父さんとお母さんの結婚式の写真て見た事なかった」
麻奈未は太蔵と向かい合ってソファに座った。
「私も美奈子さんも、そういうのに意味を見出せなくてな。あの当時は、派手な式と披露宴が大流行りだったから、随分両親や親戚に文句を言われたよ」
太蔵は目を細めて言った。
「そうだったの。今と違って、周囲がうるさかったでしょう? よく押し切れたね」
麻奈未は腕組みをして太蔵を見た。
「私は押し切られそうになったが、美奈子さんが全部論破して、助けてくれたんだよ」
太蔵は嬉しそうに答えた。
「そうなの? 意外だわ。そもそも、お母さん、式とか披露宴とか、大好きそうだから」
麻奈未は美奈子の知らない一面を見た気がした。
「今思えば、彼女は私が乗り気でないのを悟って、味方してくれたのかも知れない。申し訳ない事をしたよ」
太蔵は溜息混じりに言った。
「じゃあ、お母さんに式も披露宴もしないって言ったら、反対されるかしら?」
麻奈未は不安になった。
「いや、そんな事はないだろう。美奈子さんはああ見えて、本心を知られるのが苦手だからね。きっと賛成してくれるよ」
太蔵は微笑んだ。
「そうかなあ?」
麻奈未はそれでも美奈子に報告するのが怖かった。
「麻奈未が伝えにくいのなら、私から伝えようか?」
太蔵が言ったので、
「それはダメ。私が言うから」
麻奈未はソファから立ち上がると、階段を駆け上がって、自分の部屋に入った。
「夢を見ているようです」
天川は遊園地の観覧車の中で言った。
「え?」
緊張している聖生はハッと我に返った。
(私、天川と二人きりで観覧車に乗ってるの?)
聖生はウキウキしてデートに行ったのだが、遊園地で待っていた天川を見た途端、記憶が吹っ飛んでしまった。そして、自分を取り戻したのが、観覧車の中だった。
(天川と顔を合わせるまでがピークだった。顔を合わせた途端、またド緊張して、記憶が曖昧だ)
天川の身長が高いせいで、観覧車の中は顔が近くなっていた。そのため、聖生は終始俯いた状態だった。
「あの、楽しくないですか、伊呂波坂さん?」
天川の吐息がかかるのがわかった。聖生は身体を硬直させた。
「そ、そんな事ないよ。楽しいよ」
聖生は顔を引きつらせて無理に笑おうとした。そして、つい天川の顔を間近で見てしまった。
(かっこいい!)
もう天川教の信者のようになっている聖生は更に、
「キスして」
唇を突き出した。
(何言ってるの、私!?)
言ってから自分に驚いた。
「え、あの……」
天川は戸惑っていた。最初のデートの初っ端にそんな事を言う女はどうかと思う。聖生は我ながらおかしくなっていると感じていた。
「早く!」
聖生は待ち切れなくなり、天川の顔を両手で押さえつけると、強引に唇を押し付けた。
(もう、どうなとなれ!)
聖生は自棄を起こして天川の口を舌でこじ開けて、ディープキスをした。天川が硬直したのがわかった。キスをしているうちに聖生はだんだん緊張が解れて来た。
(ああ、何だか、幸せ)
聖生は今まで、自分から交際を申し込んだ事はないし、相手から別れを切り出された事もない。天川は、聖生が自分から交際を申し込んだ最初で最後の男なのだ。もう聖生は天川以外に付き合う男はいないと思っていた。
「あの……」
いつの間にか、観覧車は下まで降りていて、聖生は係員に声をかけられるまで、天川と濃厚なキスをしていた。
「す、すみません!」
二人は大勢の人に見られてしまったのに気づき、慌てて観覧車を降りた。
「恥ずかしい……」
聖生は赤面して走り続けた。
「伊呂波坂さん、待ってください!」
天川も聖生にキスされて、顔が真っ赤のままだ。それでも聖生に追いつくと、彼女の左腕を掴んで引き止めた。
「呆れたでしょ、天川。私、変でしょ?」
聖生は涙ぐんでいた。
「変じゃないです。情熱的で、素敵でした」
天川はもらい泣きしていた。
「天川」
二人は建物の陰に入り、もう一度キスをした。
「やっぱり、貴方しかいない。結婚して、天川」
聖生が言ったので、
「え? あ、はい、しましょう」
天川は涙を袖で拭って応じた。
「式とかしなくていい?」
聖生が尋ねた。
「はい。伊呂波坂さんがそれでいいなら」
天川は即答した。
「本当にいいの? ご両親とか、相談なしで?」
聖生が気になって訊くと、
「結婚に両親とかは関係ないです。そういうの、古いというか……」
天川の知らない一面に聖生は驚いた。
「天川って、何人兄弟なの?」
聖生が質問攻めする。
「三人兄弟の三番目です。何も継ぐものはありませんから、両親とか、関係ないです」
天川は爽やかに笑った。
「じゃあ、伊呂波坂姓になるの、大丈夫?」
聖生は詰め寄った。
「もちろんです。むしろ、伊呂波坂さんと同じ名字になれるの、嬉しいです」
天川の男前な返事に聖生は感激した。
「やっぱり、最高! もう貴方しかいない!」
聖生は天川に抱きついた。
「わわ、伊呂波坂さん!」
天川はよろけながらも聖生を受け止めた。
「それより、婚約指輪とかは……?」
天川は聖生を立たせて訊いた。
「いらないよ、そんなもの。それこそ、古臭いでしょ?」
聖生は微笑んで天川を見た。
「そうでしたね」
天川は頭を掻いた。
「大好き、天川!」
聖生はもう一度キスした。
「伊呂波坂さん」
天川は聖生をじっと見つめてから、今度は自分からキスをした。
「ねえ」
聖生は唇を放して、
「名字で呼び合うの、やめない?」
天川は頷いて、
「そうですね」
聖生は口を尖らせ、
「あと、その言葉遣い! 同期なんだし、もう婚約もしたんだから、タメ口でいいし、聖生って呼び捨てで呼んでよ。私も大介って呼ぶから」
「ああ、はい」
「ほら、その言い方!」
天川は苦笑いをして、
「同期とは言っても、その、聖生さんはずっと憧れの人でしたから、その、タメ口とか、呼び捨ては難しいです」
「全く、姉の恋人と一緒ね。まあ、だんだん変えていってよね。何だか、他人行儀だし」
聖生は、麻奈未が凛太郎の事を「敬語をやめてくれない」とぼやいていたのを思い出した。正しくは「丁寧語」なのだが、姉にそんな事を指摘したら、激怒されるので言っていない。
「はい、わかりま、いや、わかったよ」
天川は言い直した。
「そういうとこ、可愛い」
聖生はクスッと笑った。
「ありが、とう」
天川はロボットみたいな返事をした。
姉小路は野間口絵梨子が面会を拒絶しているので、しばらく拘置所へ行くのを控えていた。
(何よ、あいつ。最近、全然来ない)
へそ曲がりの具現化のような絵梨子は、姉小路が来なくなるとそれに対して腹を立てていた。
「面会だ」
刑務官が呼びに来た。絵梨子はつい、
「はい!」
嬉しそうに返事をして、扉に近づいたが、
「検察官の聴取を兼ねた面会だ」
刑務官の言葉に拍子抜けした。
(私、いつの間にか、潤を待っている。来てくれるのを期待している)
姉小路ではないのを知らされ、絵梨子は改めて姉小路を愛している自分に気づいた。
「はい」
先程とは雲泥の差がはっきりわかる暗い返事をして、絵梨子は面会室へと連れて行かれた。ところが、
「あ」
そこには、中務検察官と検察事務官と姉小路がいた。
(潤……)
絵梨子はしばらくぶりに姉小路を見て、涙をこぼした。刑務官は中務に会釈をして面会室を出た。
「しばらくだね、絵梨子」
姉小路はぎこちない口調で言った。
「すまないね、野間口さん。貴女の固い口をこじ開けるためなら、私は何でもする主義でね」
中務は全然申し訳ないとは思っていない態度で告げた。絵梨子は中務の顔に怒りを覚えたが、姉小路と会えた喜びの方が優っていたので、
「いえ、別に」
作り笑顔で応じた。
「貴女は何人かの政治家に裏献金をしているね? その政治家の名前を教えてくれないか?」
中務は椅子に座りながら言った。事務官と姉小路はその後ろに立ったままだ。
「仕方がないね。では、貴女の恋人を犯人隠避の罪で、逮捕する事になる」
中務は絵梨子が動揺する事を的確に突いて来た。絵梨子は中務の思惑通り、目を見開いて動揺の色を見せた。
「卑怯者! 潤は関係ないわ! 潤は私が罪を犯している事を知らなかったわ!」
絵梨子は動揺しながらも怒りを爆発させた。
「知っていたかどうかはこちらで判断する。さて、話は終わった。引き上げよう」
中務は立ち上がった。絵梨子の意固地さが崩れるのを中務は感じた。
「教えるわ! 教えるから、潤の事は……」
絵梨子は涙を流して中務に叫んだ。中務は姉小路をチラッと見てから、
「わかった。では、その話はまた改めてする事にしよう。失礼」
面会室を出て行った。事務官は姉小路を出してから、後ろ手にドアを閉じた。絵梨子は床にしゃがみ込んで泣いていたが、
「さあ、戻るぞ」
刑務官に立たされて、面会室を出た。




