二十四日目 調べる女、捕まる女
優菜はホテルを早めにチェックアウトすると、駅のコインロッカーにバッグを預け、木場税理士事務所へ向かった。さすがに朝から一色雄大が現れる事はなく、優菜は事務所に着いた。
「おはよう、優菜ちゃん。大丈夫だった?」
一番早いと思った優菜だったが、隆之助の方が早く着いていた。
「おはようございます。昨日はありがとうございました」
優菜は頭を下げて礼を言った。隆之助は苦笑いをして、
「着いてすぐで申し訳ないんだが、昨日の話を聞かせてくれるかな?」
所長室のドアを開いて告げた。
「はい」
二人は所長室へ入った。優菜はソファに座るなり、事細かに事情を説明した。
「そうか。一色は一体何を考えているのだろう? 啓輔が一色に何か言っていたのだろうか?」
隆之助は優菜の向かいのソファに座った。
「父は一色さんに跡を継がせて、私と結婚させると言っていたようです。でも、私には何も言ってくれませんでしたが」
優菜は俯いた。隆之助は溜息を吐いて、
「だとすれば、啓輔は君と凛太郎がくっつかないように一色をけしかけていただけで、後を継がせるつもりも、君と結婚させるつもりもなかったのだろう。それくらいの事は平気でする男だったから」
優菜は顔を上げて、
「そうだと思います。一色さんも、父にいいように使われていただけで、ちょっと可哀想な気もします」
隆之助は優菜を見て、
「いや、可哀想だなんて思う必要はないよ。きっかけは啓輔が与えたのかも知れないが、優菜ちゃんを尾け回したりしているのは、啓輔とは関係ない。一色は子供ではないのだから、自分の行動は自分で責任を取る必要がある」
「はい」
優菜は隆之助の言葉に涙ぐんだ。
「あっと、優菜ちゃん、また何か言ってしまったのかな? 泣かないで」
隆之助は慌てた。前回と同じだと思ったのだ。
「ごめんなさい。おじ様が優しいので、嬉しくて……」
優菜は涙を拭って微笑んだ。
「ああ、よかった。ドキッとしたよ」
隆之助は頭を掻いた。
「それから、一色さんと各務原さんは不倫の関係です」
優菜は真顔になって言った。
「え?」
隆之助はギョッとした。
「各務原って人は、いくつくらいなの?」
隆之助は声を低くした。優奈も声を低くして、
「多分、一色さんより十歳くらい年上ですから、三十代半ばくらいだと思います」
「そうか。どちらが誘ったのかで違ってくるけど、一色はどういうつもりで各務原という女性とそんな関係になったのだろう?」
隆之助は腕組みをした。
「各務原さんが自分から教えてくれたので、多分一色さんからではなく、各務原さんからなんだと思います。各務原さん、どこか誇らしそうだったですから」
優菜は吐き捨てるように言った。父親の啓輔が母を顧みず、野間口絵梨子に走ったのを思い出したのだ。
「各務原さんは夫がいて、子供もいるの?」
隆之助は探るように優菜に尋ねた。優菜は隆之助を見て、
「はい。出産してから、夫が触れてくれなくなったと言っていました」
隆之助はその言葉にビクッとした。
(綾子もそんな事を言った時があったが、それは産後の綾子を労っての事だったのだけど、曲解されて困ったよな)
隆之助は顔が引きつるのを感じた。
「男の人って、みんなそうなんでしょうか? 自分の子供を産んでくれた人に対して、そういう冷たい行動を取るのって、どうしてなんでしょう?」
優菜にそんなつもりはないのだが、隆之助には自分が責められているように思えた。
「あ、おじ様は違いますよ。おじ様は、すごく高岡先生を大事にされていますから……」
優菜は隆之助が深刻な顔をしている気がして、慌てて弁解した。
「ありがとう、優菜ちゃん」
隆之助は更に顔を引きつらせた。
(優菜ちゃんに気を遣わせてしまったな)
優菜は溜息を吐いて、
「悪い見本の父のせいで、私、男性不審になりやすいんです。おじ様や凛太郎さんは特別な存在なのではないかと思えてしまって……」
「私や凛太郎はごく普通の男だよ。君の父親がちょっと特殊というか、異質というか、珍しい存在だと思うよ」
隆之助は苦笑いをして言った。普通、自分の父親を貶されると、娘としてはいい気持ちはしないものだが、優菜は啓輔の事を世界で一番最低の男だと思っているので、何とも思わないのである。
「そうですか? では、各務原さんのご主人も、特殊なのでしょうか?」
優菜は首を傾げた。隆之助は微笑んで、
「まあ、各務原さんの言葉を鵜呑みにはできないから、決めつけるのはまずいね。私の妻から見れば、ちょっと前までは私は不倫男だったのだから」
自虐的な事を言った。
「ええ? そんなはずないじゃないですか! 高岡先生はおじ様をそんなふうに思ってらっしゃったんですか?」
優菜の反応に、隆之助は涙が出そうだった。
(そんなふうに言ってくれるのは、優菜ちゃんだけだよ)
綾子と離婚した時は、凛太郎まで綾子に「洗脳」されて、隆之助を不倫した悪い父親と思っていた。あまりに悲しかったので、啓輔に蔑ろにされている優菜を養女にしようと思ったのだが、張本人の啓輔が猛反対し、綾子もいい顔をしなかったので、断念したという過去がある。だが、綾子の過干渉のせいで、凛太郎は綾子から独立する事を画策し、隆之助に連絡を取って来た。その頃は、凛太郎も母の洗脳から解放されていたので、父親を汚物を見るような目で見なくなり、普通に接してくれた。
(いろいろあったが、我が家は今は平穏だ。優菜ちゃんを助けてあげたい)
隆之助と優菜の関係をよく知らない事務所の職員達は、隠し子だとか、愛人だとか、とんでもない憶測をしていた。だが、隆之助は優菜の境遇を知っているので、一度たりとも彼女を異性として見た事はない。只、気の毒な子だと思っているだけだ。
「どうしたんですか、おじ様?」
黙り込んだ隆之助に優菜が声をかけた。隆之助は苦笑いをして、
「ああ、すまない。ちょっと昔の事を思い出してね」
「そうですか」
優菜は微笑んで応じた。
「取り敢えず、各務原さんとは会わない方がいいね。もしかすると、一色とグルかも知れないから」
隆之助は真顔で言った。
「はい」
優菜も真顔で応じた。
「それから、ウチの顧問先の不動産会社に頼んで、物件を探してもらおう。一刻も早く、あのアパートは引き払った方がいい」
隆之助が念を押すと、
「あ、はい」
優菜は上の空のような返事をした。アパートの部屋は、優菜が入る前は、凛太郎がいたところだ。優菜にとっては名残惜しい場所でもあった。隆之助は優菜の了解を得られたと思い、立ち上がると自分の机の固定電話の受話器を取り、短縮ボタンを押した。
(凛太郎さんとの関わりがある部屋から出るのは寂しいけど、一色さんがあそこを知っている以上、もう戻れない)
優菜は決心を固めた。
「呆気なさ過ぎです。素人さんだから、何も備えていないのですね」
中禅寺茉祐子は自販機コーナーの前で肩をすくめた。
「そうなんだ」
麻奈未は苦笑いをした。
「凛太郎さんが話した噂は真実でした。野間口税理士の事務所の経理担当である各務原美津江は、紛れもなく、違法な貸金をしていました。そして、資金元は野間口絵梨子です」
茉祐子は資料を麻奈未に渡した。
「やっぱりね。それで、資金の流れは?」
麻奈未は資料を捲りながら訊いた。
「野間口税理士が、自分の生活費として受け取っていた金を還流して、各務原を窓口にして職員に貸し付けていました。通帳は各務原名義、金融機関は、各務原が使っている信用金庫でした」
茉祐子は別の資料を麻奈未に渡した。
「さすがね、中禅寺さん。この短時間で、よくここまで調べたわね」
麻奈未が絶賛すると、茉祐子は頭を掻いて、
「実は、各務原の動きは、以前から調べていました。たまたまなんです」
謙遜した。
「ここからは、警察の領分なので、関係ないのですが、金利は法定を超過しており、取り立ては給与から天引きしていました。どちらも違法なので、各務原のところにもうすぐ警察が行くでしょう」
茉祐子はまた肩をすくめた。
「それで、野間口先輩の方は?」
麻奈未は茉祐子を見た。
「そちらも調べはついています。野間口税理士の指示があったのは、各務原の通帳を見れば明らかです。彼女も保身のために全部流れがわかるように入金と出金をしていました。あれなら、野間口も言い逃れできないでしょう」
麻奈未は資料を閉じて、
「それにしても、こんな高い金利で借りるなら、金融機関から借りた方がいいでしょう?」
「家族に知られたくない金ですよ。だから、金利が高くても、無担保で貸してくれる方がいいんです」
茉祐子は資料を更に麻奈未に渡した。
「なるほどね。ギャンブルとか、飲み代とか……」
麻奈未が口籠ると、
「後は女、ですね」
茉祐子は躊躇わずに言った。麻奈未は赤面してしまった。
(麻奈未先輩、純情過ぎ)
茉祐子は思った。
「各務原美津江さんですね? 警視庁捜査二課の上野と言います」
美津江は家を出て最初の角を曲がったところで黒いスーツの一団に囲まれ、その中の一人に呼び止められた。
「え? 捜査二課?」
美津江は捜査二課がどういうところなのかわからず、首を傾げた。
「貴女が仕切っていた貸金業ですが、利息が法定上限を超過しており、出資法違反の疑いがあります」
美津江の顔が硬直した。
「しかも、無届けですよね? 取り敢えず、署までご同行願います」
美津江は硬直した顔のまま、警察車両に乗せられ、近くの所轄署に連行された。
「貴女が仕切ってはいたが、出資元は野間口税理士ですよね? その辺りの金の流れを教えてください」
上野刑事は取調室で穏やかに告げた。美津江にはその口調が返って恐ろしく聞こえ、
「はい」
素直に全てを話した。絵梨子は美津江に現金で資金を渡していて、美津江の個人口座を使って貸し付けを行っていた。金利は年30%、法定の上限を大きく超えていたが、無担保で貸してくれるので、職員達は喜んで借りていた。借りた者達は皆家族に内緒の借金のため、給料から天引きされる時、給与明細には載せていなかった。そのため、資金は完全に簿外となり、表には出て来ない流れができた。金は定期的に通帳から引き出され、絵梨子に現金で渡されていた。絵梨子はその金を使って、政治家に裏献金をし、口利きをしてもらっていたという。だが、絵梨子に渡った金のその後の動きは美津江は知らず、捜査二課は政治家への足かがりを失った。
「野間口絵梨子、とんでもない女だ」
上野は歯軋りして悔しがった。
「捜査二課は手詰まりのようだね」
査察部の部長室で、尼寺部長と織部統括官がソファに座って話していた。
「ええ。野間口は政治家には現金で渡していたらしく、その流れが立証できないようです。我々は、野間口が税理士として脱税していただけではなく、違法な貸金で更に利益を得ていた事を立証できているので、野間口の求刑に影響を与える事になります」
織部が言うと、
「中務さんは不満みたいだが、仕方ないね。政治家にはつながらないのだから」
尼寺は愉快そうに笑った。
「ナサケの中禅寺も、検察の出先機関のような仕事はしたくないと言っていましたからね」
織部も釣られて笑った。
「野間口が切れ者だというのもあるが、政治家がそれ以上にずる賢いという事だな」
尼寺は腕組みをして、
「それでも、検察は諦め切れないようで、野間口を取り調べるらしいよ」
「無駄な聴取にならないといいのですが」
織部は中務が無理難題をふっかけて来る事を警戒していた。
「またこちらに水を向けられても困るからね。一応、釘は刺しておくよ」
尼寺は中務に意見するつもりでいた。
「よろしくお願いします」
織部は頭を下げた。
絵梨子は貸金業法違反が発覚したため、とうとう拘置所に収監される事になった。
(遅かれ早かれ、各務原がしくじるとは思っていたけど、こんな形でバレるとはね)
絵梨子は護送車に乗せられて、東京拘置所へ向かっていた。
(今日に限って、潤が出かけていて、何も言えなかった)
絵梨子は姉小路がいる時はそんな感情は湧いた事がなかったのだが、今になって涙が溢れて来た。
(潤……)
絵梨子は息を殺して泣いた。
「あれ?」
入れ違いで絵梨子のマンションに戻った姉小路は、絵梨子がいないので驚いていた。
(出かけるなんて言ってなかったぞ。どうしたんだ?)
事情を知らない姉小路はまさに狐につままれたようだった。当然の事ながら、拘置所に連れて行かれたとは思っていない。
「……」
携帯に連絡したが、電源が切られていて、つながらなかった。
(一体どうしたんだよ、絵梨子?)
姉小路は捨てられたのかと思っていた。




