十八日目 濡れ衣の男、やはり禁酒の女
「本当か、それ?」
隆之助は早上がりして凛太郎とカフェで落ち合っていた。凛太郎が麻奈未と会うカフェとは違って、どちらかというと、喫茶店に近い雰囲気の店である。
「本当だよ」
凛太郎は、隆之助に昨夜一緒にいた女性の事で問い詰められて、口を尖らせて反論していた。注文したアイスコーヒーをストローでかき混ぜながら、凛太郎は父を睨んだ。
「どうしてそんな事を訊くの? っていうか、どうしてそんな事を知っているの?」
凛太郎はコーヒーを一口飲んで尋ねた。
「優菜ちゃんが見たんだよ。麻奈未さんとは違う女性と腕を組んで歩くお前を」
隆之助はホットコーヒーにミルクを注いで言った。
「え? 優菜さんに?」
凛太郎は見られたのが選りに選って優菜だったので、驚いた。
「で、どうして、麻奈未さんの妹さんと腕を組んで歩く事になったんだ?」
「それは……」
事情を説明すれば、麻奈未の失態を話す事になる。凛太郎は躊躇した。
「話せないような事なのか?」
隆之助は疑惑を抱いた。凛太郎が何かを隠していると思ったのだ。
「話せないような事ではないけど、言えない」
凛太郎は自分が意味不明な事を口走っているのはわかっていたが、麻奈未に恥を掻かせる事はできないと判断し、言わない事にした。
「わかった。では、麻奈未さんに確認してもいいんだな?」
その女性が麻奈未の妹であるなら、麻奈未は承知していると考えた隆之助は、凛太郎を揺さぶって来た。
「ええ!?」
凛太郎は隆之助がそんな手段に出て来るとは思っていなかったので、動揺した。
「それはダメ! 絶対にしないで!」
凛太郎は汗まみれになって隆之助に詰め寄った。
「どうしてダメなんだ? 麻奈未さんの妹さんなら、麻奈未さんは知っている事なんだろう?」
隆之助はスマホをスーツの内ポケットから取り出した。
「わかったよ! 言うよ。言えばいいんだろ?」
凛太郎は拗ねたような口ぶりになり、降参した。隆之助はニヤッとして、
「最初からそう言えばいいんだよ。どうしてなんだ?」
「実は……」
凛太郎は経緯を全部話した。隆之助はそれを聞き、呆気に取られた。
「事情はわかった。だが、優菜ちゃんに何て言えばいいんだ?」
隆之助はスマホを内ポケットにしまいながら言った。
「言わないでよ。麻奈未さんの名誉に関わる事なんだから。優菜さんに言う必要はないよ」
隆之助は腕組みをして、
「そうだな。優菜ちゃんに言うのはダメだな。だが、どうしたものか……。優菜ちゃんはな、お前が麻奈未さん一筋だと思っていたのに、他の女性と腕を組んでいた事にショックを受けているんだよ」
「そんな事言われても、優菜さんに教えられる事じゃないよ。父さん、うまく誤魔化してよ」
凛太郎は隆之助を非難めいた口調で責めた。
「そもそも、その、聖生さんだっけ、聖生さんはどうしてお前とのデートを条件にして来たんだ?」
隆之助は活路を見出そうとして訊いた。凛太郎はハッとして、
「あ、そうだ。それがあった!」
急に明るい顔になった。そして、
「聖生さん、ストーカーに付き纏われているらしくってさ、そいつを諦めさせるために、俺と恋人同士だって事にして欲しいって言われたんだよ」
「なるほど。それなら、優菜ちゃんにも納得してもらえそうだな」
隆之助はその話に乗り気になった。
「どうしても優菜さんが納得しないようなら、聖生さんと会ってもらえばいいよ。名字が同じだから、妹だってわかってもらえるし」
凛太郎は畳みかけるように言った。
「そうだな。それがいい。よし、これで優菜ちゃんを納得させられそうだ」
父と子はホッと安心したが、
「お前が不用心だから、そんな事になるんだぞ。今回はそういう事だから問題はなかったが、何かの誤解を与えるような事をするなよ」
隆之助は脇が甘い息子を説教した。
「わかったよ。気をつけるよ」
凛太郎はアイスコーヒーを飲み干した。
「あ、母さんからだ。帰らないと。ご馳走様」
凛太郎はスマホを取り出しながら、さっさと店を出て行った。
(あいつ、ちゃっかりしてるな)
隆之助は伝票を持つと、レジへと向かった。
「私は伊呂波坂聖生の姉の、麻奈未です」
麻奈未と汗っかきの男はフロアの隅にあるソファに向かい合って座っていた。
「自分は法人課税部門の天川大介と言います」
天川大介は背筋を伸ばして挨拶した。麻奈未は微笑んで、
「天川さん、私は別に貴方を取り調べに来た訳ではありませんから、そこまで固くならないでください」
「は、はい!」
しかし、言葉とは裏腹に、天川はますます硬直した。麻奈未は溜息を吐いて、
「では、お訊きしますが、貴方が妹に付き纏っているというのは事実ですか?」
その途端、天川の顔中から汗が噴き出した。まさに滝のような流れ方だ。麻奈未はどこかにパイプがつなげられているのではないかと疑った程だ。
「はい! 申し訳ありません! 今後一切、伊呂波坂さんには近づきませんので、どうかお許しください!」
天川は腰が折れるのではないかというくらいの勢いで頭を下げた。天川の声があまりにも大きかったので、フロア中の職員が動きを止めて、彼を見た。中でも統括官はあたふたしていた。
「いえ、私はそんな事をお願いしたいのではありません。恋愛は自由ですから、節度を持ってしてくれれば結構です」
麻奈未は聖生にある意味仕返ししたいのだ。凛太郎を利用した罰を与えてやろうと思っているのである。
「は?」
意外な返答に天川はキョトンとして顔を上げた。
「妹の事は、真剣なのですよね? 遊びで交際したい訳ではないのですよね?」
麻奈未は菩薩をイメージして微笑んだ。
「はい」
天川は麻奈未の微笑みに頬を赤らめて頷いた。
「であれば、何も差し支えはありません。私も応援しますので、頑張ってください」
これ以上はない味方を得たと思った天川は涙ぐんだ。
「ありがとうございます!」
彼はまた大きく頭を下げた。麻奈未は立ち上がって、
「妹と交際するに当たって、一つだけアドバイスをします」
「はい!」
天川は直立不動になった。
「もう少し、お痩せになった方がいいと思います。では」
麻奈未は会釈をすると、ソファから離れ、
「失礼します」
統括官達に頭を下げると、フロアを後にした。
(やった! お姉さんにお墨付きをいただいた!)
天川は拡大解釈をしていた。
「もう! 余計な事を言わないでよ、茉祐子!」
税務署へ向かう途中で、茉祐子からの謝罪のラインを受け取った聖生は、更に法人課税部門から「姉来襲」の連絡をもらい、混乱していた。
(どういうつもりなの、お姉は? どうして南渋谷税務署に来たのよ?)
聖生はもうすぐ税務署に着くというところで、麻奈未からのラインを受けた。
「え?」
その内容に聖生は姉の逆襲が始まった事に気づき、
(天川大介君とうまくいくといいね、ですって!? 冗談じゃないわ! 天川君に何を言ったの、お姉!?)
そして、麻奈未の意図がわかった。
(凛太郎さんとデートしたのがそこまで気に入らないの? 怖い。怖過ぎる……)
聖生は凛太郎を天川避けに利用したのも麻奈未が見抜いているのを感じた。
(お姉に謝って、これ以上事を荒立てないでと頼むしかないか……)
聖生は項垂れて署内に入った。その時、スマホが振動した。
(お姉?)
ドキドキしながら、聖生はスマホを取り出した。しかし、相手は麻奈未ではなかった。
(凛太郎さん?)
一瞬喜んだ聖生だったが、
(いけない、お姉を刺激してしまう!)
無視する事にした。出たらまずいと考えたのだ。やがて凛太郎は諦めたのか、スマホは振動を止めた。
(聖生さん、出てくれないや。忙しいのかな?)
聖生の気持ちを知る由もない凛太郎は、全然違う方向へと推理を展開していた。通話を切ると、すぐに着信が入った。
(え? 麻奈未さん? 何だろう?)
麻奈未が素早いフットワークを展開しているのも知らない凛太郎は、首を傾げながら通話を始めた。
「凛君、今、誰と電話してたの?」
いきなりの突っ込みに凛太郎はビクッとした。
「いや、あの、実はですね……」
面倒臭い事にかけては、父隆之助とは比較にならない麻奈未なので、凛太郎は誤魔化さずに全てを話した。
「凛君、ありがとう。私の事を気遣ってくれて」
麻奈未は涙ぐんだようだ。声が鼻声になっていた。
「全部、私が悪いんだよね。調子に乗って、お酒飲み過ぎて、挙句、聖生に借りを作ってしまって……」
麻奈未の鼻を啜る音が聞こえ、凛太郎はもらい泣きしそうになった。
「いや、聖生さんに何でもしますって言ってしまったの、俺なんで、俺が悪いんです。それより、麻奈未さんはもう仕事終わりなんですか?」
謝罪合戦に終止符を打ちたい凛太郎は話題を変えた。
「そうなの。今日は早退して、南渋谷税務署に行って来たの」
麻奈未の意外な告白に凛太郎は、
「ええ!?」
つい、大声を出してしまった。
「凛、どうしたの?」
声を聞きつけた綾子が、事務所から出て来た。
(しまった、事務所の前だった!)
凛太郎は後悔したが、手遅れだった。G事件から完全復活した綾子は、興味津々の顔で凛太郎に近づいて来た。
「誰?」
小声で尋ねてくる綾子から逃げるように離れた凛太郎は、
「かけ直します」
スマホを切り、スーツの内ポケットに入れた。
「母さんに言えない人なの?」
綾子は半目で凛太郎に詰め寄った。凛太郎は溜息を吐いて、
「麻奈未さんだよ。それが何か?」
少し怒ったふりをして応じた。
「ああ、それならいいのよ。ごめんね」
息子にムッとされて尻込みしてしまった綾子は、そそくさと事務所へ戻って行った。
(全く! 知りたがりなの、大概にして欲しいよ)
凛太郎は綾子に続いて事務所へ入った。綾子は凛太郎に何か言われるのを避けるためか、机に向かって何かの書類を見ているふりをしている。凛太郎も母が関わってこないのを幸いに自分の席に着き、麻奈未の事を考えた。
(聖生さんは、同じ法人課税部門の同僚にしつこく交際を迫られているって言ってたんだよな。もしかして、麻奈未さん、それを知って南渋谷税務署に?)
お世辞にも仲が良さそうには見えない麻奈未と聖生の関係を知っている凛太郎は、麻奈未がストーカー男を説教しに行ったとは思えない。
(聖生さんと一緒に歩いていたら、そいつがこっちを見ているのがわかった。でも、聖生さんはそいつに何か言う訳でもなく、俺に何かして欲しい訳でもなかった。確かにそいつは何もせずに立ち去ったけど、あれでよかったのかな?)
そして、それを優菜が見ていたのを隆之助に教えられた。凛太郎は、全く知らないストーカー男より、優菜が聖生と歩いているのを「偶然」見かけた事の方が気にかかった。
(まさか、優菜さん……)
優菜が凛太郎を尾けていたのではないかと勘繰ってしまった。
(そこまで優菜さんを疑っちゃ悪いか。俺、自惚れてるのかな?)
凛太郎は優菜がまだ自分に気があると考えた事を恥じた。
「本当にそれだけ?」
聖生は法人課税部門のフロアの端にある相談窓口用の席にあるパーティションの陰で、天川と話していた。
「本当です。お姉さんはそれだけおっしゃると、お帰りになりました」
完全に聖生にビビっている天川は顔を引きつせていた。聖生はその顔を見て溜息を吐き、
「じゃあ、昨日、私が一緒に歩いていた男の人の事は何も言っていなかったのね?」
「はい」
天川は聖生が何故男の事を気にするのか、不思議に思った。
「わかった」
聖生は踵を返して立ち去りかけてから不意に振り向き、
「私と貴方は同期なんだから、敬語やめてよね」
そして大股でフロアの自分の席へ歩いて行った。
「はい……」
天川は聖生の後ろ姿を呆然として見ていた。
(お姉の考えがわからない。凛太郎さんの事は言わなかったのは何故?)
聖生は首を傾げて席に着いた。聖生と歩いていたのは私の恋人だとバラすのが、一番の逆襲のはずなのだ。それをしなかった麻奈未に底知れぬ恐怖を感じてしまう聖生だった。
「さっきはすみませんでした」
凛太郎は定時で上がると、綾子の呼びかけを聞こえないふりをして事務所を出て、ビルを出たところで麻奈未に電話をかけた。
「ううん、こっちこそ、いきなりかけてごめんね。お母様がいらしたのね?」
麻奈未は恐縮している声だった。凛太郎は綾子が追いかけて来ていない事を確認しながら路地へ入ると、
「そうなんです。知りたがりなので、ちょっと説教しました」
麻奈未は笑ったようだった。
「お母様に説教だなんて、凛君、怖い」
「あ、いや、そんな強めではないですよ。ちょっとだけですから」
凛太郎は麻奈未の言葉にぎくっとして応じた。
「一つ確認したいんだけど、聖生は本当にストーカー被害に遭っているの?」
麻奈未が単刀直入に訊いたので、
「あ、それは本当です。但し、ストーカーと言える程ではない気がします」
凛太郎は思った事を包み隠さずに言った。
「そうなの。実は私、その人に会って来たの」
「ああ、だから南渋谷税務署に行ったんですか」
凛太郎は合点がいった。
「ええ。でも、別にその人を非難した訳ではないの」
麻奈未の返答に凛太郎は首を傾げた。
「どういう事ですか?」
すると麻奈未は、
「彼、聖生の被害者に見えたの」
「聖生さんの被害者、ですか?」
凛太郎はますますわからなくなった。




