十六日目 潜む男、見る女、邪悪な男
凛太郎は上機嫌だった。恋人の麻奈未が定時で帰れるので、デートが頻繁にできそうだからだ。そうなって来ると、つい考えてしまうのが、二人の仲の進展である。
(麻奈未さん、前の彼氏のせいで男性不審に陥ったって言ってたからなあ。下手な事をして、別れるって言われるの、嫌だよなあ)
凛太郎としては、仲を深めていって、今一人で暮らしている母親の綾子が住んでいた一軒家に麻奈未と暮らしたいのだが、麻奈未が「同棲はまだ早い」と言っていた事も気がかりだが、もっと気がかりなのは、綾子が家の鍵をまだ持っているという事だ。
(返してもらって、麻奈未さんに渡したいんだけど、そんな事を言ったら、更に合鍵を作って返すかも知れないからなあ)
凛太郎は母親の事を「息コン(息子離れできない母親)」だと思っている。綾子は凛太郎が極度のマザコンだと思っているので、お互い様の面があるのだが、母と息子共に自覚がないのが難点である。
「どうしたの、眉間にシワを寄せたりして」
麻奈未に言われた。凛太郎は今、夜の公園で麻奈未とベンチに腰をかけているのを忘れかけていた。
「ああ、いや、その、これからの事を考えていたんです」
凛太郎は頭を掻いて応じた。すると麻奈未は凛太郎に身体を向けて、
「凛君、そんなに焦ってるの? 別にいいよ、私は。これからホテルに行く?」
凛太郎の想像を超えた事を提案して来た。
(これは試されているんだ。ここで、はい、行きましょうなんて言ったら、さようならって言われるに決まってる)
凛太郎は感情を押し殺そうとして、思い切り腿をつねり、
「何言ってるんですか、麻奈未さん。そんな事、考えていませんよ。冗談はやめてください」
痛みに堪えて言った。
「あれ、そうなの? 私一人が先走った事を考えていたんだ。恥ずかしいなあ、もう」
麻奈未が顔を赤らめて俯いた。
(え? 麻奈未さん、案外本気だったの?)
凛太郎は返事を間違えたと思ったが、
(でも、経験のある麻奈未さんとホテルに行っても、俺、どうすればいいかわからないから、やっぱり答えは間違っていない)
凛太郎は綾子のせいでまともな恋愛ができなかったと思い込んでいる。実際、高校生の時、仲が良くなったクラスメートの女子を家に連れて来たら、頻繁に部屋を訪れる綾子に驚いた女子が、たちまち帰ってしまった事があった。次は外で会おうと考えればいいのに、母親に邪魔をされると思った凛太郎は、恋愛を封印してしまった。大学生の時は、そこそこモテたのだが、凛太郎の方から敬遠してしまい、全く進展はなかった。
柿乃木税理士事務所に勤められたのは、父親の隆之助のおかげだったので、凛太郎は仕事をできるようになりたいと思い、同僚の女子とはほとんど話さなかった。その中で唯一、優菜が凛太郎に積極的に話しかけて来たので、所長のお嬢さんだという事も手伝って、愛想よく話していたら、その所長である啓輔に睨まれ、圧力をかけられてしまった。そこから凛太郎は優菜とも仕事以外の話はしなくなった。
「あのさ、訊きたい事があるんだけど」
麻奈未が不意に言ったので、凛太郎はビクッとした。
「な、何でしょうか?」
緊張して麻奈未を見た。麻奈未は顔を近づけて、
「違っていたらごめんなさいね。もしかして、凛君て、経験ないの?」
ズバッと訊いて来た。凛太郎は一瞬目の前が真っ白になった。
「え? 経験て、何ですか?」
凛太郎は経験がない男が言ってしまいそうな事を口にした。
「やだ、何勘違いしてるの? 凛君は、デートの経験がないのって訊いたのよ!」
麻奈未はまた赤面して、凛太郎から顔を離した。
「あ、ああ、そうですか。経験ないです」
凛太郎はこの上なく恥ずかしかったが、嘘を吐く訳にもいかず、正直に言った。
「そうなんだ。ごめんね、嫌な事訊いて。私もそんなに経験ないから、リードできるほどではないんだけどね」
麻奈未は苦笑いをして凛太郎を見た。
(麻奈未さん、可愛い!)
凛太郎は麻奈未が照れるのを見て高揚した。
「凛君と会う時って、大体あのカフェだったから、私が何か言わないとダメなのかなって、失礼な事考えていたの」
麻奈未は前を向いた。凛太郎は、
「失礼な事じゃないです! 全くその通りなんですから、どんどん麻奈未さんが行きたいところを言ってください! 俺、どこでも行きますから!」
ベンチから立ち上がって熱弁してしまった。
「ああ、そう」
麻奈未は凛太郎を見上げて引いていた。
姉小路は絵梨子が言った「ご褒美」が何なのかばかりが気になり、我に返ると絵梨子のマンションの前にいた。そこはエントランスに警備員が立っている高級マンションで、管理室も屈強そうな警備員が詰めていた。定年を迎えた疲れた老人が管理人をしているようなところではない。
(これは気軽に来られない。呼ばれた時でないと、中にも入れてもらえなそうだ)
姉小路は警備員に愛想笑いをして、
「野間口絵梨子さんに呼ばれて来ました、姉小路です」
顔が引きつるのを感じながら言った。
「お待ちください」
エントランスに立っていた警備員は管理室にいる警備員に何かを話した。管理室の警備員がそれに応じているのが見えた。
「どうぞ」
立っていた警備員がエレベーターホールに先導した。姉小路は管理室の警備員に会釈してそれに続いた。
「どうぞ」
エレベーターの扉が開き、姉小路は中へ進んだ。音もなく扉が閉まり、軽くGがかかったかと思うと、フワッとエレベーターが動き出した。
(速い!)
高所恐怖症の気がある姉小路は壁にもたれかかった。たちまちエレベーターは最上階の三十階に着いた。
「ひっ!」
また音もなく扉が開いた。姉小路は慌ててエレベーターを降りた。
(すっげえな。一公務員には絶対に住めない)
姉小路はエレベーターホールの大きな窓から見える夜景を見て思った。
(昼間は来られない。外がくっきり見えて、多分卒倒する)
姉小路はできるだけ窓から離れて、廊下を歩いた。
(ここだ)
姉小路は絵梨子の部屋の前に来た。生唾を飲み込んで、インターフォンを押した。耳に心地よい音がして、
「はい」
絵梨子の声が聞こえた。
「姉小路です」
姉小路は営業に来たみたいな口調で告げた。
「どうぞ。開いてるわ」
絵梨子の声が応じた。
「あ、はい」
姉小路はドアを開いた。そこはまるで敵兵の突進を阻むようなL字型になっていた。
「遅かったわね。迷ったの?」
奥から絵梨子が現れた。
「え?」
姉小路は心臓が跳ね上がったような気がした。絵梨子は下着姿だったのだ。しかも、黒のシースルーである。ブラはしていないのと同然の状態で、乳房が丸見えだ。下も極小で、最低限しか隠していない。
「あら、どうしたの? 期待して来たんでしょ?」
絵梨子はニヤリとして姉小路の首に腕を回し、抱きついて来た。
「あ、いや、まあ、その……」
姉小路はまさにしどろもどろだった。
「でも、それは貴方の情報次第よ。もし私の意に沿わなかったら、そのままお引き取りいただくわよ」
絵梨子に耳元で言われ、
(俺、理性が吹っ飛びそうです、統括官!)
姉小路は織部の顔を思い浮かべて、何とか踏みとどまろうとした。
「まずは話を聞かせてね」
絵梨子は姉小路から離れると、奥へと歩いて行く。後ろ姿も妖艶で、姉小路は絵梨子の尻をじっと見てしまった。
「座って」
絵梨子の指示で、姉小路はソファに腰を下ろした。包み込まれるような柔らかいものだ。絵梨子は向かいのソファに座り、優雅に脚を組んだ。
「じゃあ、話して。査察の日はいつで、どこに入るのか」
絵梨子の目が鋭くなった。姉小路はまた生唾を飲み込んで、
「査察の日は来週の火曜日。入るのは、ここ、そして君の実家、事務所、事務所の口座がある全ての金融機関、館山市にある別荘」
絵梨子は目を見開いた。
「実家も? もう十年以上帰っていないのだけど?」
姉小路は絵梨子を見て、
「査察はそういうものだよ。関係者のところは全て行く。場合によっては、更に増える事もある」
「増える?」
絵梨子はピクっとした。
(何か隠しているのか?)
姉小路は絵梨子に気取られないように胸に視線を送りながら、
「査察に入って、別の場所がわかった場合には、そこへの令状も申請する事になるのさ」
「そうなの」
絵梨子は右腕で胸を隠して応じた。
(一色雄大名義の貸金庫には気づいていないようね)
絵梨子はホッとした。
「それじゃあ、明日も早いから、これで失礼するよ」
姉小路はわざと気のない素振りをして立ち上がった。
「ご褒美、いらないの?」
絵梨子は隠していた胸を右腕をどけて見せ、立ち上がった。
(統括官、これで帰ったら、怪しまれるので、乗ります!)
姉小路は妙な言い訳を心の中でして、
「もちろん、いただくよ」
絵梨子を抱き寄せた。
「一色君、素敵だったわ」
ホテルを出たところで、各務原美津江が言った。
「そうですか。僕も気持ちよかったですよ」
一色は作り笑顔で応じた。
(まさか、あそこまでしてくれるとは思わなかったよ、おばさん)
絵梨子はあくまで一色を僕として扱っていたので、自分からあれこれしてくれる事はなかったのだが、夫との性生活に不満を抱いている美津江は、一色の望みを全部叶えてくれたのだ。
「また、会ってくれる?」
美津江は少女のような目で一色を見上げた。
「もちろん。またいろいろと教えてください」
一色は美津江の唇を貪ると、
「では、お休みなさい」
それだけ言うと、歩き去った。美津江は恍惚とした顔でそれを見送った。
(一色は柿乃木優菜を諦めたのか?)
絵梨子の依頼で動いている興信所の調査員はそれをしっかりカメラで撮り、一色の尾行を再開した。
(これは……)
絵梨子は姉小路とのアバンチュールを楽しんだ後、彼を送ってから、興信所からのメールをスマホで確認していた。そこには、一色と美津江の密会の画像が添付されていた。
(各務原め、一色と通じていたの? 許せないわ)
絵梨子は歯軋りをして、メールを打ち込んだ。
(だけど、そんな簡単に証拠を突きつけて追い出したりはしない。あの女には、横領の罪を被ってもらうのだから)
絵梨子は、美津江が使途不明金の使い込みをした事にして、金の流れの辻褄を合わせる計画であった。どこまでも狡猾な女である。
(姉小路はしばらく飼っておいて、もっとたくさんの情報を引き出し、政治家や財界の人間の弱みを握る事もできる。使える男はとことん使う)
絵梨子は姉小路が二重スパイになっているとは流石に思いもしなかった。
「やっと出ましたね。遅かったですね?」
情報部門の代田からの連絡に姉小路は慌てて出た。
「すまない。野間口税理士との話が長引いてしまって、疑われないようにするのに手間取ったんだよ」
流石にご褒美をもらっていたとは言えなかった。
「話がねえ……」
代田は意味ありげに言った。姉小路は嫌な汗が背中を伝うのを感じた。
「何か掴めましたか?」
代田はその話を引っ張るつもりはないらしく、あっさりと話題を変えた。
「掴めたというか、これは勘なんだけど、野間口はまだ何かを隠していると思った」
姉小路は周囲を見回して、人気のない路地に入ってから言った。
「隠している? もしかして、一色雄大名義の貸金庫の事ですか?」
代田はすでに絵梨子の奥の手を掴んでいた。
「え? そんなのがあるの、わかってるの?」
姉小路は目を見開いた。
「当然ですよ。伊呂波坂先輩から言われて、徹底的に調べましたから。野間口先生は、脱税指南もしている程、税金には通じていますが、尾行は素人なので、あっさり突き止められましたよ」
代田の話を聞き、姉小路は、
(絵梨子になんか靡いちゃダメだ。情報部門、恐るべし、だな)
身震いした。
「りーんくーん」
麻奈未はいつも凛太郎と会う時は気をつけていたのだが、その日はつい気が緩み、深酒してしまった。すっかり上機嫌になり、絡み酒になっていた。
「いや、麻奈未さん、もうお酒はやめましょう。切り上げて、店を出ないと」
麻奈未にぎゅっと抱きつかれてしまい、凛太郎はあたふたしていた。どうしたらいいかわからず、さんざん迷った挙句、唯一の解決手段として、麻奈未の妹で、凛太郎が苦手な聖生に助けを求めた。
「何だ、凛太郎さんに連絡もらえたって喜んだんだけど、お姉のお守りで呼ばれたの?」
電話に出た聖生は愚痴を言いまくった。
「申し訳ありません! 他に頼める人がいないんです。お願いします!」
凛太郎は平身低頭して、見えない聖生に懇願した。
「わかりました。これ、貸しね、凛太郎さん。いつか返してもらいますからね」
「はい! 何でもしますので、助けに来てください!」
凛太郎はまたそこにはいない聖生に土下座した。
「言いましたね? 約束ですよ」
凛太郎はとんでもない約束をしてしまったのだが、その時は気がついていなかった。




