十六日目 項垂れる男、利用する女、助ける男
翌朝、麻奈未が出勤すると、姉小路がすでに来ており、机に突っ伏していた。
「おはようございます、姉小路さん」
その異様な佇まいに麻奈未は顔を引きつらせながらも声をかけた。
「ああ、おはよう、伊呂波坂ちゃん」
麻奈未を見た姉小路の顔は精彩に欠け、徹夜明けのように見えた。
(そう言えば、姉小路さん、スーツがしわくちゃだし、昨日と同じだ)
じっくり姉小路を観察している訳ではないが、いつも服装には気を遣っている姉小路にしては、だらしなく思えたので、麻奈未は不思議に思った。
(もしかして、お泊まり?)
麻奈未は姉小路が新しい女性と一夜を共にしたのだと推測した。しかし、それにしてはあまりにも表情が暗い。
(振られたのかな?)
麻奈未はそこまで推理したが、姉小路の事をあれこれ詮索しても仕方がないと思い、席に着いた。そこへ織部統括官が来た。
「おはようございます」
麻奈未は立ち上がって挨拶した。姉小路も遅れて立ち上がり、挨拶した。
「どうした、姉小路? 徹夜明けか?」
織部も姉小路の服装を見て言った。姉小路は頭を掻いて苦笑いをし、
「いやあ、申し訳ありません。ちょっと飲み過ぎて、そのまま出勤しました」
織部は溜息を吐いて、
「飲むのは構わないが、くれぐれも不適切な行動はするなよ」
自分の席に座った。
「はい、肝に銘じて」
姉小路は直立不動になって応じた。
(飲み過ぎたにしては、お酒の匂いが全然していない。姉小路さん、嘘を吐いてる)
麻奈未は姉小路に何かあったと考えた。
(ああ、どうしたらいいんだ? 統括官には相談できない。もちろん、伊呂波坂ちゃんにも……)
姉小路は野間口絵梨子に脅迫されて、進退極まっていた。
(査察の対象者に不用意に近づいた俺が悪いんだけど、それにしても野間口は酷い女だ)
絵梨子は査察の情報を流せと言って来た。しかも、ホテルでの事は姉小路次第で、「レイプされた」と尼寺部長に言うと脅されてしまった。
(俺はもう終わったのか? 辞めるしかないのか?)
査察部の人間として、情報を流す事など断じてできない。しかし、もし絵梨子に何も教えなければ、強姦されたと言われてしまう。
(どうしたらいいんだ?)
姉小路はまた机に突っ伏した。
「一色は結局、何もできなかったのね?」
当の絵梨子は、所長室で興信所の調査員から電話で報告を受けていた。
「はい。柿乃木優菜に尾けられているのを気づかれ、逃走しました。それからしばらくして、木場隆之助税理士と高岡凛太郎、伊呂波坂麻奈未が現れました」
調査員の言葉に絵梨子はニヤリとして、
「それはそれは……。豪華な顔ぶれね。それで?」
先を促した。
「柿乃木優菜は木場税理士が同行して帰宅し、伊呂波坂と高岡は一緒に立ち去りました」
絵梨子は回転椅子に沈み込んで、
「わかったわ。一色の監視は続行して。首根っこを押さえつけられるような行動をするのを待って」
「畏まりました」
絵梨子はスマホを切って、スーツのポケットに入れた。
(姉小路の奴、連絡がない。何してるの?)
絵梨子は下僕からの連絡がないのに苛立っていた。
(それとも、レイプ犯になりたいのかしら?)
絵梨子は姉小路が慌てふためく姿を想像して、悦に入っていた。
「姉小路さん」
姉小路が途方に暮れて肩を落として廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「え?」
姉小路が振り返ると、そこには情報部門の代田充が立っていた。
「何だ、代田か」
姉小路は溜息を吐くと、歩き去ろうとしたが、
「姉小路さん、昨夜、査察対象者と一緒に高級ホテルに入って行きましたよね?」
代田が言ったので、驚いて立ち止まり、振り返った。
「どうしてそれを?」
姉小路は間の抜けた顔で訊いた。代田はニヤリとして、
「野間口税理士はすでにナサケが動いて、内偵中です。そのホテルで何時間濃密な夜を過ごしたのかも知っていますよ」
姉小路の顔色が蒼白になった。
「じゃ、じゃあ、織部統括官もご存じなのか?」
冷たい汗が背中を伝って落ちるのを感じながら、姉小路は代田に詰め寄った。
「もちろん。何も言われなかったんですか?」
代田は微笑んで言った。姉小路は震え出した。
「まずいですよ、姉小路さん。いくら以前付き合っていた人でも、今はまずいです」
代田は姉小路の耳元で告げた。
「ふああ……」
姉小路は全身の力が抜けてしまい、その場にしゃがみ込んだ。
「取り敢えず、俺も一緒に行きますから、織部統括官にきちんと説明してください」
代田は姉小路を立ち上がらせて言った。
「わかった……」
姉小路は代田に縋りついて応じた。
優菜は寝付けないかと思ったのだが、疲れていたのか、シャワーを浴びてベッドに入ると、すぐに眠りに落ちた。朝もスッキリと目覚めたので、
(私って、強心臓なのかしら?)
ちょっと落ち込んでしまった。だが、凛太郎との事は未だに割り切れていない。昨夜、凛太郎が全く優菜を気にしていない様子だったのは、ある意味ショックだった。
(私は、凛太郎さんに切り捨てられたんだ)
優菜は妙な喪失感を覚えた。凛太郎が好きなのは変わらない。一時はマザコンだからと嫌いになりかけたはずなのに、まだ諦め切れない。だが、凛太郎はもう麻奈未に全部意識がいっているのだ。だから、優菜とは只の元同僚として接する事ができる。
(凛太郎さんて、結構ドライな人なんだな)
悲しくなったのだが、自分が悪いのだから仕方がない。
「優菜ちゃん、大丈夫か?」
ぼんやりしていたせいか、隆之助に所長室へ呼ばれた。
「大丈夫です。ご心配をおかけして、申し訳ありません」
優菜は深々と頭を下げた。
「いや、私の不注意だ。優菜ちゃんを一人で帰らせたのは間違いだった」
優しい隆之助の言葉に優菜は涙ぐんでしまった。
「これからしばらく、私が送る事にするから」
隆之助が言ったので、優菜は驚いて、
「いえ、そこまでしてもらっては……」
「啓輔と約束したんだよ。奴が出て来るまで、優菜ちゃんは私が守るってね」
隆之助は微笑んで優菜を見た。
「ありがとうございます……」
あんな父なのにまだ親友として接してくれている。優菜は隆之助の義理堅さに感動していた。
「あんた、昨日は帰りが遅かったわね。どこに行ってたの?」
事務所で顔を合わせるなり、母に詰め寄られた凛太郎だったが、
「昨日は麻奈未さんと食事をしてから帰ったんだよ。だから遅かったんだ」
済ました顔で応じた。綾子は凛太郎がすっかり麻奈未とうまく行っているのが癪に障っていたが、
「あら、そうなの。麻奈未さん、元気なの?」
作り笑顔で訊いた。
「元気だよ。マルサは健康でないと務まらないって言ってたよ」
凛太郎は母を睨んで、
「それより、どうして俺が遅く帰ったのを知っているのさ?」
綾子はバツが悪くなったのか、
「何となくよ。カマをかけたのよ」
慌てて自分の席へと戻って行った。
(母さん、家に来たのか?)
凛太郎は母ならやりかねないと思った。
(優菜さんの事は言わない方がいいな。父さんにも釘を刺しておかないと)
隆之助は無意識に話してしまうところがあるので、手を打っておいた方がいいと判断した。
「姉小路、お前、何を考えているんだ?」
織部と姉小路と代田は使われていない会議室で話していた。織部は姉小路が絵梨子の色香に迷ってホテルに行ってしまったのを知り、怒りよりも呆れが先に立った。
「申し訳ありません!」
姉小路は床に額を擦りつけるようにして土下座した。
「本来なら、お前を局内異動させるところだが、代田が面白い提案をしてくれたので、異動はなしにする」
織部は会議テーブルに腰をかけた。姉小路は顔を上げて、
「ありがとうございます!」
嬉しそうに立ち上がったので、
「おいおい、喜ぶのはまだ早いぞ。その代わりとして、お前にやって欲しい事があるんだから」
「異動がないのであれば、何でもします!」
姉小路は織部に近づいた。織部は代田をチラッと見て、
「代田の提案とは、このまま野間口税理士の手下として動いてもらうというものだ」
「え?」
姉小路は代田を見た。代田は苦笑いをして、
「情報を流しつつ、野間口税理士の動きを探って欲しいんです」
「ええっ!?」
姉小路はいっそ首にして欲しいと思いかけたが、
「わかりました。やります。いや、やらせてください!」
織部を見て言った。
「但し、しくじったら、異動してもらうからな」
織部の言葉に姉小路は顔をひきつらせたが、
「身命を賭して遂行します!」
直立不動で応じた。織部は代田と顔を見合わせた。
夕方になっても、一向に姉小路から連絡がないので、所長室で絵梨子はイライラしていた。
(あいつ、まさか自棄になって辞めるつもりでは……)
追い詰め過ぎたかと考えかけた時、姉小路から連絡が入った。
「遅かったわね。もう少しで査察部の部長に連絡するところだったわよ」
絵梨子がフッと笑って言うと、
「危なかったよ。とにかく、何とか査察の日程や詳細がわかった」
姉小路の声に絵梨子は穏やかな顔になり、
「そう。では、私のマンションに来てちょうだい。以前とは場所が違うから、メールするわ」
「え? 君のマンションに行ってもいいの?」
姉小路の声が嬉しそうなので、
(相変わらずキモい奴ね)
心の中で軽蔑したが、
「ええ。貴方は私の大切な僕なのだから、当然よ。情報次第では、ご褒美をあげるわ」
猫撫で声で告げた。
「ご褒美? わかった、何時に行けばいい?」
姉小路の声は更に弾んで聞こえた。
「午後八時に。待ってるわ」
絵梨子はそれだけ言うと、姉小路の返事を待たずに通話を切った。
(さて、伊呂波坂にどう反撃しようかしら?)
絵梨子は険しい顔になり、回転椅子から立ち上がって窓の外を見た。その時、ドアがノックされた。
「どうぞ」
絵梨子が振り返って応じると、ドアが開いて経理の各務原美津江が入って来た。
「お呼びですか?」
美津江は無表情な顔で言った。絵梨子は回転椅子に座り直して、
「財務データのバックアップはできた?」
美津江は絵梨子に近づき、
「はい、所長のご自宅のパソコンにしました」
絵梨子は立ち上がって、
「そう。結構。では、帰っていいわよ」
美津江は頭を下げて、
「お先に失礼します」
所長室を出て行った。
(事務所のパソコンの対ウィルスソフトの起動を停止して、データを全部クラッシュさせる。これで何も調べようがない。紙の書類は一つも残っていないから、国税局は無駄足になる)
絵梨子は更に自宅のパソコンを事務所とは取引がない銀行の貸金庫に移すつもりでいる。
(伊呂波坂達は決してそこには辿り着けない。貸金庫の名義は、一色雄大だから。仮に辿り着けても、私は無関係。完璧だわ)
絵梨子はハンドバッグを持つと、所長室を消灯して出た。
「自宅か。それは余程信用されたか、あるいは試されているか、だな」
姉小路から報告を受けた織部は顎に手を当てて言った。
「はい」
姉小路は真顔で応じた。
「くれぐれも気づかれないようにな。こちらの情報は、全て日付違いで内容は正確に流す。一週間後と高を括ってくれれば、しめたものだからな」
「はい」
姉小路は生唾を呑み込んで応じた。
(ご褒美って、何だろうな?)
姉小路はそんな切羽詰まった状況でも、絵梨子の美しい肢体を思い描いているバカ者だった。
「姉小路、よからぬ事を考えるなよ」
織部が見透かしたかのように言ったので、
「も、もちろんです。必ずやり遂げます」
姉小路は顔を引きつらせた。
「なるほど。先生は何を企んでいるんですかね?」
一色雄大は人通りの少ない路地で言った。
「こっちだって、冷や汗もので動いているんだから、報酬は弾んでよね」
一色に応じたのは、美津江だった。
「もちろんですよ。何なら、今、前払いしましょうか?」
一色は下卑た目で美津江を見ると、いきなり抱きつき、唇を貪った。
「こんなのじゃ嫌よ。また抱いてよ。夫に何もしてもらえない女を満足させるのは、大変よ」
美津江は一色の唇を貪り返した。二人はビルとビルの間に入った。
「わかってますよ」
一色の右手が美津江の左の乳房を揉んだ。
「ああ……」
美津江が吐息を漏らした。一色の左手が美津江のスカートをめくり上げた。
「本当に履いていないんですね。驚きました」
一色がニヤリとすると、美津江は顔を赤らめて、
「貴方がそうしろって言ったんでしょ!」
「そうでしたね」
一色はまた唇を貪り、乳房を揉みしだきながら、ブラウスのボタンを外しにかかった。
「ねえ、ここでなんて嫌よ。ホテルに行きましょうよ」
美津江が一色の手を止めた。
「いいですよ。行きましょうか、美津江さん」
一色は美津江の首筋を舐めた。
「凛君!」
いつものカフェはやめて、夜の公園で待ち合わせた凛太郎は、麻奈未が先に来てベンチに座っていたので驚いた。
「麻奈未さん、早いですね」
凛太郎が駆け寄ると、麻奈未は立ち上がって凛太郎に抱きつき、
「ええ。今度の査察は外れる事になったので、早く上がれるの」
凛太郎は麻奈未の大胆な行動にも驚き、
「え、外れるって、まさか高岡税理士事務所に入るんですか?」
「まさか! そんな訳ないでしょ。どこかは話せないけど、ちょっと関わりがあるところなので、参加できないの」
麻奈未は微笑んでいるので、
(父さんのところとか、そういう事じゃないんだ。どこだろう?)
麻奈未は凛太郎には絵梨子の事務所で言った事はハッタリだと告げているので、凛太郎は野間口税理士事務所には思い当たらなかった。
(よかった、凛君てば、結構鈍感だから、気づいていないみたい)
麻奈未はホッとしていた。




