十五日目 浮かれる男、楽しみにする女、逆襲を狙う女
夜になった。
(本当にできるとは思わなかった)
姉小路潤は、以前付き合っていた事がある野間口絵梨子と高級ホテルのスウィートルームに入り、恋人同士に帰ったかのようなひと時を過ごした。
「素敵だったわ、潤」
隣に寝ている絵梨子はあの股間を蹴り上げた女と同一人物に見えなかった。可愛い女に思えた。
「絵梨子」
姉小路は絵梨子の唇を貪った。ビンタされるかと思ったが、絵梨子が情熱的な反撃をしてきた。二人の舌が絡み合い、隠微な音がした。
「まだできる?」
絵梨子が姉小路の股間に手を伸ばした。
「君となら何度でも」
姉小路はもう一度絵梨子の唇を吸い、抱きしめた。
「来て」
絵梨子はベッドに仰向けになった。
「ああ。絵梨子、愛しているよ」
姉小路は絵梨子に覆いかぶさった。二人は絡み合った。
(ああ、やっぱり絵梨子はいい女だ。別れたのは間違いだった)
姉小路は絵梨子の身体を引き寄せ、愛撫しまくった。しばらくそんな甘い時が続いたが、突然それは破られた。
「私の事務所に査察が入るって本当なの?」
絵梨子に耳元で言われ、姉小路は蒼ざめた。
「教えてちょうだい。もし、教えてくれないのであれば、貴方にレイプされたって、査察部長に言うわよ」
絵梨子の顔が、股間を蹴られた時と同じになったと姉小路は思い、強烈な後悔の念に襲われた。
「凛君!」
またいつものカフェで待ち合わせだったが、今回は麻奈未が先に着いていた。凛太郎は嬉しそうに手を振る麻奈未を見て、ちょっとだけ悔しかったが、手を振り返して席に向かった。
「早かったですね、麻奈未さん」
凛太郎は椅子に座りながら言った。麻奈未は微笑んで、
「ええ。私、負けず嫌いだから」
メニューを脇にどけた。そして、
「コーヒーでよかった? もう頼んじゃったけど」
「いいですよ。手間が省けた」
凛太郎は苦笑いをした。麻奈未は居住まいを正して凛太郎を見ると、
「食事会なんだけど、次の日曜はどうかな?」
「次の日曜ですか?」
凛太郎はスマホのカレンダーを開いて、スケジュールを確認した。
「俺は大丈夫です。父も大丈夫だと思いますが、母がちょっとわかりません」
麻奈未は目を見開いて、
「お母様が? じゃあ、別の日にする?」
「いえ、それは申し訳ないから、その日でいいです。母には合わせさせます」
凛太郎はスマホをスーツのポケットにしまって麻奈未を見た。
「合わせさせるって、そんな事できるの、凛君?」
麻奈未は凛太郎が綾子をコントロールできるとは思っていなかった。
「できますよ。俺、いい大人ですから。いつまでも母の言いなりにはなりません」
凛太郎は鼻息を荒くした。麻奈未は微笑んで、
「そう。それなら、いいわ。時間と場所が決まったら、連絡するね」
コーヒーが運ばれてきたので、会話を中断した。店員が去ると、
「この後、どうする?」
麻奈未は何の他意もなく尋ねたのだが、
「え? こ、この後?」
凛太郎が妙に慌てたので、
「ちょっと、何勘違いしてるの?」
麻奈未は顔を赤らめた。
「いや、そういう意味じゃなくて、あのですね……」
凛太郎は麻奈未が自分をそういう男だと思ったのではないかと感じて、ますます慌ててしまった。
「凛君は、その、したいの?」
麻奈未は更に顔を赤くしている。
「だから、違いますって! 今日は食事会の打ち合わせだけかと思ったので、このまま帰ろうと思っていたんですよ」
凛太郎も自分の顔が熱くなっていくのを感じていた。
「このままって……。私と会うの、嫌なの?」
麻奈未は口を尖らせた。凛太郎はそれを見て、
(麻奈未さん、ツンデレ? 可愛過ぎる!)
バカな妄想をして、鼻の下を伸ばした。
「何よ、その顔は?」
麻奈未は頬を膨らませて言った。凛太郎は頭を掻いて、
「すみません。麻奈未さんの仕草があまりに可愛くて、見惚れちゃいました」
「恥ずかしい事、言わないでよ!」
麻奈未は両手で顔を隠して、俯いた。
「俺、麻奈未さんの事、大切に思っていますから、そんな事、考えていませんよ。そりゃあ、男ですから、いつかはって思ったりもしますけど、今は麻奈未さんとこうして喋ったりする時間がものすごく貴重なので、こうしているだけで大満足なんです」
凛太郎はコーヒーを一口飲もうとしたが、まだ熱くて無理だったので、ソーサーに戻した。
「凛君……」
麻奈未は涙ぐんで顔を上げた。
「ごめんね。私が忙しいせいで、凛君とあまり会えなくて……。ごめんね」
麻奈未は涙を拭った。凛太郎はもらい泣きしそうになったが、
「大丈夫です。会えなければ会えない程、麻奈未さんへの愛が深まるんです」
「凛君……」
麻奈未は凛太郎の両手を自分の両手で包み込むように握りしめた。
「麻奈未さん……」
凛太郎は鼓動が高鳴るのを感じた。
「私、査察を辞めた方がいいのかな? このままだと、ずっと凛君を苦しめてしまうし、私達の仲も進展しないよね」
麻奈未の両手に力が入り、凛太郎は痛みを感じた。
「麻奈未さんは辞めちゃダメです! 俺は、査察で頑張っている麻奈未さんが好きなんです! 辞めないでください!」
今度は凛太郎が涙ぐんだ。
「ありがとう、凛君。大好きだよ」
麻奈未は顔を近づけて、囁いた。
「俺も大好きです、麻奈未さん」
凛太郎も麻奈未の耳元で言った。
「出ようか」
麻奈未はコーヒーを飲み干した。
「はい」
凛太郎もコーヒーを飲み干して応じた。
「はっ!」
事務所を出て、買い物をすませ、アパートへ向かっている途中、優菜は誰かが尾けているのに気づいた。
(一色さん?)
優菜は立ち止まって振り返った。街灯の光しかない路地には、人影はない。
(でも、間違いなく足音がしていた。隠れたの?)
一色は尾けられたのがわかると、必ず姿を見せた。
(誰? 一色さんじゃない)
優菜は震え出した。一色ではないとすると、見当がつかない。自然に早足になる。するとまた足音が尾いて来るのがわかった。怖くて立ち止まる事ができない。優菜は遂に走り出した。尾けて来る足音がそれに呼応するように速くなった。
(人がいる場所へ!)
優菜は近くにあったコンビニエンスストアに駆け込んだ。追って来た足音の主は入って来なかった。
(どうすればいい?)
優菜は震えを抑えながら、店の奥へ歩いた。その時、隆之助の顔が浮かんだ。
(木場のおじ様!)
優菜はスマホを取り出すと、隆之助にかけた。
「む?」
隆之助は一人で事務所に残っていたが、スマホの振動に気づき、スーツの内ポケットから取り出した。
「優菜ちゃん?」
スマホの表示を見て、隆之助は嫌な予感がした。優菜が事務所を出てから随分と時間が経っているからだ。
(何かあったのか?)
隆之助は通話を開始した。
「どうした、優菜ちゃん? 何かあったのか?」
隆之助は椅子から立ち上がり、窓の外を見た。
「おじ様、誰かに尾けられていて……」
「何だって? 今どこ? すぐに迎えに行くから」
隆之助はコンビニの場所を聞き出すと、
「そこから出ないで。待ってて!」
通話を切り、スマホを内ポケットに入れると、鞄を持って所長室を出た。
(まさかとは思うが、野間口税理士の差し金か? それとも、元同僚の一色か?)
隆之助は事務所を飛び出すと、エレベーターを待つ事なく、非常階段を駆け降りた。
(位置的に言って、凛太郎の方が近いか?)
二人が気まずい関係なのはわかっていたが、今はそれどころではないと判断し、優菜がいるコンビニへ走りながら、凛太郎へ連絡した。
「どうしたの、父さん?」
凛太郎はツーコールで出た。
「優菜ちゃんが誰かに尾けられているらしい。お前の家からの方が近いから、向かってくれないか。私も今向かっているところだ」
「わかったよ。場所を教えて!」
凛太郎は隆之助からコンビニの住所を聞くと、通話を切った。
(優菜ちゃんに何かあったら、啓輔に合わせる顔がない)
隆之助は息を切らせて舗道を走った。
「優菜さんに何かあったの?」
凛太郎は実はまだ麻奈未と夕食中だった。だが、隆之助の切迫した声を聞き、すぐ行くと言ったのだ。
「すみません、麻奈未さん。この埋め合わせは必ず……」
凛太郎は手を合わせて麻奈未に詫びた。
「いいわよ、そんな事。とにかく、急いで。優菜さん、助けてあげて」
「はい」
凛太郎は麻奈未の優しさにまた泣きそうになった。
「私も行く」
麻奈未が立ち上がった。
「ええ? でも、コンビニ、遠いですよ」
凛太郎が言うと、
「遠くても行く! 優菜さんがピンチなのよ!」
麻奈未は伝票を掴むと、レジへ走った。
「ああ、麻奈未さん、それは俺が……」
凛太郎は慌てて麻奈未を追いかけた。
「性懲りもなく、また柿乃木優菜を……。とことんクズね」
絵梨子は茫然自失の姉小路をホテルに置き去りにして、舗道を歩きながら、興信所からの連絡を受けていた。
「調査を続けて。一色雄大は危険な男だから」
絵梨子はそれだけ告げると、通話を終え、スーツのポケットにスマホを入れて、歩を早めた。
(姉小路はもう私の下僕。あいつを使えば、伊呂波坂の動きは手に取るようにわかる。後は一色をどう破滅させるかね)
絵梨子はニヤリとした。
(私を裏切った事、後悔させてあげるわよ、雄大)
絵梨子はすでに姉小路という捌け口を手に入れたので、一色は憎しみの対象でしかなかった。
「おじ様!」
コンビニの奥で入口を見ていた優菜は、息を切らせて飛び込んで来た隆之助を見つけて、駆け寄って抱きついた。
「優菜ちゃん……」
隆之助は優菜に抱きつかれて、オロオロしていた。
「優菜ちゃん、ちょっと、その……」
隆之助は周囲にいる客にじっと見られているのに気づき、優菜を押し戻した。
「あ、ごめんなさい、私……」
優菜も周囲の視線を感じて、慌てて隆之助から離れた。
「無事でよかったよ。怪我とかしていないのかい?」
隆之助は優菜の顔を見た。優菜は俯いて、
「はい、大丈夫です。もしかすると、思い違いかもしれないので……」
汗まみれになっている隆之助を見上げた。隆之助はスマホの時計を見て、
「凛太郎の方が近いと思って声をかけたんだが、来ていないみたいだね」
「え? 凛太郎さん?」
優菜はビクッとした。まだ凛太郎には引け目を感じているのだ。
「あいつ、空返事をしたのかな」
凛太郎の事情を知らない隆之助は、凛太郎が来る気がないと思っていた。
「あ、ありがとうございました。遠くまで来ていただいて」
優菜はハンドバッグからハンドタオルを取り出して、隆之助の額の汗を拭った。
「あ、すまない」
隆之助は優菜からタオルを受け取り、顔の汗を拭った。
「そ、それじゃあ、私、帰ります」
優菜はそそくさとコンビニを出て行こうとした。
「いや、危ないから、送って行くよ」
隆之助は優菜を呼び止めて、一緒に歩いた。
「すみません」
優菜は隆之助を見た。隆之助は苦笑いをして、
「優菜ちゃんに何かあったりしたら、啓輔に顔向けできないからね」
「そうですか」
優菜も苦笑いをした。父は私の事なんか、全然心配していない。優菜はそう思った。
「父さん!」
二人がコンビニを離れようとした時、凛太郎の声がした。
「遅いぞ、凛太郎。道に迷ったのか?」
隆之助が声がした方を見ると、凛太郎の隣に美女がいた。咄嗟に麻奈未だとわかった。
「先日はお電話ありがとうございました。伊呂波坂麻奈未です」
麻奈未はにこやかに挨拶した。優菜は思わず隆之助の陰に隠れた。
「ああ、どうも。対面では初めまして、ですね。凛太郎の父の木場隆之助です」
隆之助は会釈して、優菜を見ると、
「優菜ちゃんは初めましてじゃなかったね」
「あ、はい。先日はどうも……」
優菜は麻奈未の視線を眩しそうにして会釈した。
「それで、ストーカーは?」
凛太郎が尋ねた。隆之助は優菜を気遣いながら、
「いや、わからない。逃げたのかも知れないな」
凛太郎と麻奈未が一緒なのを見て、
「申し訳なかったですね」
麻奈未に頭を下げた。麻奈未は笑って、
「いえ、全然差し支えなかったですから。お父様とお会いしたかったですし」
隆之助は頭を掻いて、
「まあ、何もなくてよかったです。ありがとうございました」
また頭を下げると、優菜を見た。優菜はハッとして、
「ありがとうございました!」
髪の毛が大きく揺れる程頭を素早く下げた。
「また、一色?」
凛太郎が訊いた。優菜は俯いて、
「わかりません。相手は見ていないので……」
「とにかく、優菜ちゃんは私が送るから」
隆之助は、優菜が凛太郎程は割り切れていないと判断して、会話を切り上げさせた。
「ああ、そうだ、父さん、食事会は今度の日曜になったから」
凛太郎が唐突に言ったので、
「そうか、わかった」
隆之助は一瞬キョトンとしてから返事をした。
「じゃあ、また」
隆之助は優菜を促して、舗道を歩いて行った。
「優菜さん、まだ私を怖がってるのかな?」
麻奈未は寂しそうな顔になった。凛太郎はハッとして、
「いや、そんな事ないと思いますよ。ストーカーに怯えて、不安だったんだと思います」
麻奈未を慰めたつもりだったが、
「凛君、優菜さんが貴方と話すのつらそうだったの、わからなかったの?」
逆に麻奈未に嗜められてしまった。
「え?」
凛太郎はギョッとした。確かに優菜の気持ちを全然考えていなかった事に思い至った。
「ダメねえ、本当に」
麻奈未は踵を返すと、スタスタと歩き出した。
「ああ、待ってくださいよ、麻奈未さん!」
凛太郎は慌てて追いかけた。




