二日目 探り合い
翌日になった。高岡凛太郎は、母親の綾子が住んでいた家に現在一人で暮らしている。恋人の伊呂波坂麻奈未に一緒に住もうと勇気を振り絞って提案したのだが、
「まだ早いよ」
堅実な麻奈未にあっさりと拒否されてしまったのだ。
(結局、麻奈未さんからの連絡はあれだけだった)
凛太郎は麻奈未が東京国税局の査察部に勤務しているのを知っている。激務だという事も理解している。しかし、麻奈未と直接会ったのは、一ヶ月以上前だった。
(こんなに忙しいの?)
凛太郎は麻奈未の浮気を疑った事はない。麻奈未がそんなふしだらな女ではないのを十分わかっている。それを差し引いても、これ程会えないとは思っていなかったのだ。
(麻奈未さんも休みがない訳じゃないけど、たまの休みに誘うのも気が引けるから、遠慮していたんだ)
凛太郎は、もうそんな事に引っかかっている場合ではないと思った。
(多少麻奈未さんに迷惑だとしても、こっちが主張をしないと、わかってもらえない)
麻奈未は天然なところがある。本人はそれを頑として否定するが、間違いなく天然の気がある。凛太郎は確信していた。
(かなりストレートに伝えないと、麻奈未さんには届かないんだ)
凛太郎は決心した。強引に麻奈未を誘おうと。その時、妄想を打ち破るようにスマホが鳴り出した。
「母さん?」
スマホの相手は綾子だった。
「もしもし……」
凛太郎は何の用だろうと思って通話を開始した。
「もしもしじゃない! 今何時だと思ってるの!? 午前中のお客様から、まだ来ないとクレームが入ったのよ!」
綾子の声が耳に直接ぶつかってきたかのように響いた。
「え?」
凛太郎はハッとしてダイニングキッチンの掛け時計を見た。午前十時を過ぎていた。
「わああ!」
凛太郎は仰天してスマホを切ると、鞄を小脇に抱えて家を飛び出し、玄関の鍵を締めると、大通りへと走った。
(直接行った方が早い!)
凛太郎は事務所へ行くのをやめて、そのまま訪問先である株式会社平井不動産に向かった。
(凛君、怒ってるのかな?)
麻奈未は麻奈未で、凛太郎が既読スルーなのを気にしていた。凛太郎は既読スルーをしたつもりはない。ショックのあまり、返事を送れなかったのだ。
(次は少し時間を作って、電話で謝ろう)
麻奈未はスマホをスーツの内ポケットにしまうと、廊下を進んで、情報部門のフロアへ行った。
「おはようございます、伊呂波坂先輩。昨日は失礼しました」
フロアに入ると、三つ編みの女性が声をかけて近づいてきた。中禅寺茉祐子である。若いながらも、情報部門のエースだ。
「おはよう、中禅寺さん。代田君は?」
麻奈未はフロアを見渡した。茉祐子は苦笑いをして、
「すみません。今日は警視庁に直行しています。科捜研の友人がもう鑑定を済ませたようなんです」
「そうなんだ。早いね」
麻奈未は目を見開いた。茉祐子はフロアの端にあるソファに麻奈未を誘って向かい合って座ると、
「ええ。たまたま、群馬県警の科捜研が全く同じ紙質のものを調べていて、科警研に調査依頼をしていたみたいなんです」
「へえ。すごい偶然ね」
麻奈未はソファに腰を下ろしながら応じた。
「でも、話を聞いてみると、たまたまではない気がしました。群馬県警が調べているのは、権藤の地元の事務所なんです」
「権藤の?」
麻奈未は右の眉を吊り上げた。茉祐子は頷いて、
「ウチの尼寺部長と各都道府県の警察本部の刑事部長が連携して、権藤の動きを調べているんです」
「鉄壁の布陣ね、それは」
麻奈未は腕組みをした。茉祐子は肩をすくめて、
「総指揮を執っているのは、東京地検の中務検察官ですけどね」
「なるほど」
麻奈未は七三分けの中肉中背の中務の容貌を思い出した。
「という事は、あの紙切れは権藤に繋がるの?」
麻奈未は身を乗り出した。茉祐子はまた頷いて、
「はい。権藤が名刺の制作を依頼している群馬県の富岡市にある和紙の工房で作られているものでした」
麻奈未はポンと手を叩いて、
「それで群馬県警の科捜研が動いていたのか。富岡市は権藤の生まれ故郷よね」
「そうです。その和紙の工房は、権藤が衆議院選に初当選した時、名刺を作って当選祝いとして贈ったんです。それからの付き合いですから、かなり長いですね」
茉祐子がスーツのポケットから何かを取り出して麻奈未に差し出した。
「名刺?」
それは和紙製の名刺だった。しかし、印刷されている氏名は権藤ではなかった。
「見本です。権藤の名刺と同じ紙質です。でも、そこから先がつながりません」
茉祐子は肩をすくめた。
「そもそも、どうしてその和紙が丸山書房の社長の机の引き出しにあったのか、全くわからないんです。どう調べても、権藤と丸山書房の深いつながりは見つかりません。金の動きもありません」
茉祐子の言葉に麻奈未は溜息を吐き、
「そうなんだ。そんな簡単に尻尾を掴めないよね」
「只、別の面白い事がわかってきました」
茉祐子はまた何かをポケットから取り出して、ソファの間にあるガラスにテーブルの上に置いた。
「誰?」
麻奈未はそれを見てから茉祐子を見た。男の写真だった。望遠レンズで撮ったものらしく、男は撮られているのに気づいていない。
「その男は、剣崎総理の秘書官です」
茉祐子は写真の男をいて言った。麻奈未はギョッとした。
「総理の? どういう事?」
茉祐子は麻奈未を見て、
「連間才明が引退して、与党の権力争いが激化しているのはご存知ですよね?」
「ええ。総理の派閥と権藤の派閥が水面下で争っているのは聞いている」
麻奈未も茉祐子を見た。そして、アッとなった。
「罠なの?」
麻奈未は声を低くして尋ねた。茉祐子は頷いて、
「恐らく。その秘書官が丸山書房の専務と会っているのをウチの人間がキャッチしています」
「丸山書房の中で、総理と権藤の代理戦争が起こっているかも知れないの?」
麻奈未はもう一度秘書官の写真を見た。
「そこまで行っているかはわかりませんが、総理が権藤を陥れようとしているのは確かですね。秘書官が富岡市内で目撃されていますから」
麻奈未は腕組みをして、
「連間という重石が外れて、剣崎総理と権藤幹事長の闘争が激しくなって、総理がいよいよ仕掛けてきたのか」
「市議会議員からの叩き上げの剣崎総理と、官僚出身の権藤幹事長。相容れない者同士ですからね。根回しが得意な総理が一歩リードしていると思われます」
麻奈未は右手を顎に当てて、
「丸山書房の社長の机に引き出しに和紙の切れ端を忍ばせたのは、間違いなく秘書官の意を汲んだ専務ね。でも、査察が入らなければ、その罠は生きなかった。まだ裏がありそうだわ」
茉祐子は写真を手に取って、
「そうなんですよ。査察が動いている事をどうやって嗅ぎつけたのか? 難問です」
「そうね」
麻奈未はソファにもたれて考え込んだ。
「なるほど。権藤の名刺の切れ端と思われるものが、丸山書房の社長の机の引き出しから見つかった、か」
査察部の部長室で、ソファに向かい合って座っているのは尼寺と織部である。尼寺は報告書をテーブルの上に置き、
「だが、権藤と丸山書房のつながりは見つからなかった。丸山書房は使途不明金を何億も出しているが、それを頑として何に使ったのかは話してくれないのか?」
「はい。余程権藤に弱みを握られているのか、ここを乗り切ればうまい汁が吸えるのがわかっているのかのどちらかでしょう」
織部は報告書を見てから尼寺を見た。
「ナサケからの報告によると、権藤の名刺は同じ紙質で、群馬県富岡市の同じ和紙の工房が作ったものだと判明しているらしいな」
尼寺も織部を見た。
「はい。しかし、仮に引き出しにあった紙切れが権藤の名刺と同じ紙質だとしても、権藤はびくともしないでしょう。それよりも気になるのは、そんな事をさせた剣崎の方です」
織部は眉間にしわを寄せた。尼寺は頷いて、
「そうだな。秘書官が動いているとなると、間違いなく剣崎が指示しているのだろうが、権藤を潰すにしても、そんな遠回しな事をする必要があるだろうか?」
「もう一つは、査察が入らなければ、紙切れが発見される事はなかった。そんな確率の低い罠を仕掛けた理由です」
織部は報告書を手に取り、パラパラとめくった。
「二重スパイか?」
尼寺が呟いた。織部は報告書をテーブルに戻して、
「それが一番可能性が高いですね。査察の動きを察知できるのは、財務省関係者。それも上の人間です」
尼寺は立ち上がり、
「事務次官にはまだ時間がかかると伝えておく。もう少し、炙り出してみてくれ」
「わかりました」
織部は立ち上がって一礼すると、部長室を出て行った。
「あんた、どうして途中で切るのよ!」
凛太郎が事務所に帰ると、早速綾子が詰め寄ってきた。
「ごめん、母さん。急いでいたから、つい……」
凛太郎は事務所を見回して、事務員の優菜がいないのを確認してから応じた。
「私も、優菜さんがいるのにあんたを怒鳴りつけたりしないわよ。そうでなくても、優菜さんには怖がられているんだから」
綾子はツンツンしている。凛太郎は溜息を吐いて、
「そんな事ないって。優菜さんは母さんに感謝しているんだよ。怖がってなんかいないさ」
「そうなの?」
綾子は嬉しそうに凛太郎を見た。凛太郎は母親から逃れるように自分の席へと大股で歩き、
「そうだよ。母さんに拾ってもらわなければ、路頭に通っていたって言ってたよ」
「そ、そうなんだ」
根が単純だから、褒めれば収まる。凛太郎は心の中で母の能天気なところを呆れていた。
「それはそうとさ、相変わらず麻奈未さんから連絡ないの?」
綾子は別の意味で嬉しそうに尋ねた。凛太郎はムッとして、
「母さんには関係ないだろ? 結局、俺はあの大きな家にたった一人で住む事のなったんだからさ」
「何よ、その言種は!? 関係ないって事ないでしょ! 将来のお嫁さんの事なんだからさ」
綾子は凛太郎ににじり寄った。凛太郎は机の上に鞄を置いて、
「お嫁さんて……。いつになるかわからない事を言わないでよ」
回転椅子に腰を下ろした。
「一人が寂しんだったら、引っ越してくれば、父さんの家に」
綾子が言うと、
「嫌だよ。父さんと母さんがイチャイチャしてるの、見たくないもん」
凛太郎は背を向けた。
「あらあ、父さんに母さんを盗られて、寂しいの、凛?」
綾子がとんでもない事を言い出したので、
「違うよ! 俺、麻奈未さんにマザコンだと思われているんだから、そういうの、ほんとにやめてよね!」
凛太郎は振り返って抗議した。しかし綾子は、
「あんたは立派なマザコンでしょ? 中学に入学するまで、一緒にお風呂に入っていたんだから」
ニヤニヤした。凛太郎は顔が火照るのを感じた。
「子供の頃の話を持ち出さないでよ」
凛太郎はまた背を向けた。綾子はニヤニヤが止まらなかった。
「間違いないのか?」
党本部の幹事長室で、権藤は机越しに秘書を問い質した。
「間違いありません。事務所の人間が見ています。あれは紛れもなく総理の秘書官だったと」
秘書は権藤に顔を近づけて言った。権藤は回転椅子の背もたれに寄りかかり、
「何をしに来ていたんだ? 奴の地元は仙台だろう? 群馬には全く縁がないはずだ」
秘書は、
「そいつが使ったのは、地元のタクシーです。今、そのタクシーを調べさせています」
権藤は眉をひそめて、
「何を企んでいるんだ? 群馬は今は名目上の地元だ。探られて困るような事は何一つない」
すると秘書が、
「もしかすると、和紙の工房に行ったのでは?」
権藤の目の色が変わった。
「まさか? あそこに気づいたのか?」
権藤は机の上で腕を組み、秘書を見上げた。
「それは考えられません。先生が名刺を頼んでいるのは知っているでしょうから、それだけの事でしょう」
秘書は苦笑いをした。権藤は立ち上がり、
「何でもいい。取り敢えず、連絡しろ。もし奴の秘書官が来ていたら、何しに来たのか訊くんだ」
「はい」
秘書は一礼すると、スマホをスーツの内ポケットから取り出した。
「気づかせてやったか?」
剣崎は官邸の執務室のソファで秘書官と向かい合っていた。
「はい。大慌てで探りを入れている頃でしょう」
秘書官は微笑んで応じた。剣崎は脚を組んで、
「警戒心の強い権藤は何事かと動く。こっちはそれを待っていればいい。財務省に顔が効くのは自分だけだと思わぬ事だ」
「そうですね」
秘書官は鳴り出したスマホをスーツの内ポケットから取り出した。
「そうか。わかった。うまくやってくれ」
秘書官は通話を切ると、
「権藤が動いたようです。面白いようにこちらの思う通りです」
剣崎はニヤリとして、
「全くだ」
ソファから立ち上がった。
「さて、閣議に行くぞ」
「はい」
剣崎はスーツのボタンを留めて、執務室を出た。秘書官がそれに続き、ドアを閉じた。