十二日目 直接対決
「回りくどい事はやめにしましょう。単刀直入に申し上げます」
麻奈未は絵梨子を射殺しそうな鋭い目で見たままで告げた。凛太郎は呼吸を忘れて二人の対決に見入った。
「私に恨みがあるのなら、私に仕掛けてください。凛太郎君やその周りの人達を利用するのはやめてください」
麻奈未は絵梨子に詰め寄っていた。凛太郎も気づかないくらいの速さで。絵梨子は思わず後退りながら、
「何の事かしら? 全く身に覚えがないのだけれど?」
唇を震わせながら虚勢を張った。
(何よ、伊呂波坂、今まで何もしなかったくせに、どうして今になって!)
絵梨子は漏らしてしまいそうなくらい怖かったのだが、麻奈未に弱みを握られるのは何があっても嫌だったので、応じるつもりはなかった。麻奈未はフウッと長い溜息を吐くと、
「わかりました。あくまでとぼけるつもりですね? それならば、私も心置きなく動けます」
ソファにゆっくりと腰を下ろした。
「え?」
絵梨子は麻奈未の謎の言葉に目を見開いた。
(何? 今の言葉はどういう意味?)
絵梨子は麻奈未の言った意味がわからなかった。麻奈未は絵梨子を見上げて、
「いろいろ調べさせてもらいました。野間口先輩、貴女は表沙汰にできない事を数々なさっているようですね?」
そう言われて、絵梨子はようやく麻奈未が何を言わんとしているのか理解した。
(麻奈未さん、今日一怖いです)
凛太郎も麻奈未の迫力に漏らしそうになっていた。
「私がどこに勤務しているのか、考えた上であれこれするべきでしたね。貴女の事務所、貴女の自宅、貴女の別荘、その他、あちこちにある倉庫にしているタワーマンションの部屋。全部、査察に入る事ができます」
麻奈未の通告に絵梨子はドスンとソファに崩れ落ちた。優菜は息を呑み、一色は口をあんぐりと開けたままで麻奈未を見ていた。
「その上、こちらは国税の管轄ではありませんが、税理士会の幹部達の弱みを握って脅迫をしている事も調べがついています。こちらは警察に告訴する用意があります」
麻奈未は絵梨子を見た。絵梨子は震えていた。今にも泣き出しそうだ。
「ハッタリを言わないで! いつ、それだけの事を調べられるのよ! 嘘も大概にしなさいよ!」
涙をこぼしながら、絵梨子は精一杯の反論を試みた。しかし、それは虚しかった。
「査察部には、情報部門、通称ナサケという集団がいます。そこが動けば、総理大臣の預金残高すら調べ上げるのに一日もかかりません。ましてや、貴女のように何の備えもしていない個人なら、半日もかからずに調べられますよ」
麻奈未はフッと笑った。凛太郎はそれを見て背筋をゾッとさせた。優菜は涙をこぼしていた。一色は明日は我が身と思ったのか、震え出した。
「個人的な事で、貴女はそこまでするの!? どういうつもりよ!?」
絵梨子は支離滅裂な事を言い出した。
「ええ、そうですね。確かに、個人的な事から始まりましたが、貴女がしている事は、国税局の査察部にいる者として、決して見過ごせないのですよ。わかりますか?」
また麻奈未はいつの間にか絵梨子に詰め寄っていた。
「ひい!」
絵梨子は這いずるようにして麻奈未から離れた。
「覚悟していてください。私は貴女を個人的にも公的にも決して許しませんから」
麻奈未は優菜を見ると、
「貴女が柿乃木優菜さんですね?」
優菜は引き付けを起こしたように顔を強張らせて、
「は、はい……」
それだけ言うのがやっとだった。麻奈未は微笑んで、
「貴女も個人的には到底許せませんけど、今回は凛太郎君に免じて目を瞑ります」
優菜はスッと立ち上がると、
「申し訳ありませんでした!」
髪を振り乱して頭を下げた。麻奈未はそれを慈愛に満ちた顔で見て、
「一刻も早く、この事務所を辞める事をお勧めします。長くいればいる程、降りかかる火の粉が多くなりますから」
「はい!」
優菜は頭を下げたままで応じた。麻奈未は次に一色を見て、
「貴方も、野間口先輩の手先になっていろいろしているようですので、覚悟していてください。貴方も逃しませんから」
一色は椅子から崩れ落ちた。
「では、失礼します」
麻奈未は凛太郎に目配せすると、野間口税理士事務所を出て行った。凛太郎はチラッと優菜を見てから、麻奈未を追いかけた。
「伊呂波坂、よくもォッ!」
絵梨子は涙で汚れた顔を険しくして、叫んだ。しかし、同時に終わったとも思っていた。
(さっさとこの事務所を逃げ出さないと、俺も査察の餌食になる)
今更手遅れだと思ったが、一色は逃げ出す決意をしていた。
(私は何て怖い人の恋人を盗ろうとしていたのだろうか。身の程知らずだった……)
優菜はまだ震えが止まらなかった。
「麻奈未さん、かっこよかったです!」
凛太郎は舗道に出ると、麻奈未に言った。麻奈未は苦笑いをして、
「そう? 怖くなかった?」
凛太郎は怖かったとは言えず、
「いいえ、かっこよかったです!」
直立不動になった。麻奈未は凛太郎の仕草に噴き出して、
「大袈裟よ、凛君。まあ、ちょっとハッタリが強かったけどね」
肩をすくめてまた歩き出した。
「え? あれって、嘘なんですか?」
凛太郎は目を丸くして麻奈未を追いかけた。
「嘘じゃないんだけど、ちょっと大袈裟に言ったのよね。あれくらい言わないと、あの人には通じないと思ったから」
麻奈未はチラッと凛太郎を見た。
「どちらにしても、私達は動くわ。野間口税理士の所業は、決して見過ごせないから」
「でも、査察って、予告なしに入るんですよね? あらかじめ教えたら、証拠を隠滅してしまうのではないですか?」
凛太郎が恐る恐る尋ねると、
「それは大丈夫。証拠はほとんどナサケが押さえているから、今更野間口先輩がどうにかできる事はないの」
麻奈未が嬉しそうに言ったので、凛太郎はドン引きしてしまった。
(麻奈未さんには隠し事はしてはダメだ。知られた時、どうなるかわからない)
凛太郎に背中に冷たい汗が流れた。
「あ! 今、凛君、引いてるでしょ? 怖い女だって、ドン引きしてる!」
麻奈未がいきなり心情を言い当てて来たので、
「いや、その、あの、そんな事はないです!」
凛太郎は苦し紛れに身振り手振りを交えて言い訳をした。
「まあ、仕方ないかな? 実際、怖いわよね、こんな女」
何故か麻奈未は俯いて大股で歩き始めた。
「そんな事ないです! 俺はもう憧れちゃいます!」
凛太郎は引きつった顔で麻奈未を褒めちぎった。
「ホント?」
麻奈未は振り返って凛太郎を見た。
「ホントです! 人がいなければ、抱きしめたいくらいです!」
凛太郎は顔を赤らめて叫んだ。
「え?」
麻奈未も赤面した。そして、凛太郎の右の袖を掴むと、路地裏へ引っ張って行った。
「じゃあ、ここなら誰もいないから、抱きしめてよ」
麻奈未はさっきより顔を赤らめて言った。
「ええっ!?」
凛太郎は麻奈未の大胆発言に飛び退いて驚いた。
「早く!」
麻奈未は目を潤ませて凛太郎を見上げた。
(か、可愛い!)
凛太郎は麻奈未の自然な上目遣いにノックアウトされた。
「麻奈未さん!」
そして、思い切って麻奈未を抱きしめた。
(柔らかい! 麻奈未さんて、こんなに柔らかいんだ。そして、いい匂いがする)
凛太郎は目を瞑り、鼻をヒクヒクさせた。
「凛君、その、当たってる……」
麻奈未が凛太郎を強く押し返した。
「え?」
凛太郎は何を言われたのかわからず、キョトンとした。麻奈未は真っ赤になって背を向けてしまった。
(どうしたんだろうか?)
凛太郎は首を傾げた。
「凛君、今日はこれで帰りましょう。また連絡する」
麻奈未はまさに逃げるように駆け去ってしまった。
「ああっ!」
そこでようやく凛太郎は麻奈未が何に反応したのか気づいた。そして、がっくりと項垂れた。
(ああ、俺、何考えてたんだよ……。そりゃ、麻奈未さん、引くって……)
凛太郎は恥ずかしさのあまり、前屈みになって歩いた。
(押し付けたと思われたのかな? 死にたいくらい恥ずかしい……)
凛太郎は更に項垂れた。
「何だ、また帰った来たの? ホント、二人揃って奥手なんだから」
聖生は先日に続いてまた早い帰宅をした姉に呆れていた。
「うるさいわね! 別にいいでしょ!」
麻奈未はぷいと顔を背けると、階段を駆け上がって行った。流石に妹に何故そのまま帰って来たのかは言えなかったのだ。
「まあ、お陰でお父さんがご機嫌なのは良い事だわ」
聖生は嬉しそうに一人で晩酌をしている父の太蔵をチラッと見た。
「お姉、夕食は食べてないんでしょ? お父さん、もうすぐ晩酌終わるから、一緒に食べてあげれば?」
聖生は階段を見上げて大声で言った。
「聖生、そんな事を言わなくてもいい!」
太蔵がムッとしてこちらを見ているのに気づいた聖生は肩をすくめて、
「はいはい」
浴室へと歩いて行った。
(もう、凛君たら、びっくりしちゃったわ)
麻奈未はまた火照ってくる顔を両手で扇いだ。
(私が悪いのかしら? 抱きしめてって言っといて、そこで帰るって……)
麻奈未は国税局に入りたての頃、先輩の職員と付き合った事がある。そして、一年程経った頃、一緒に行った出張先のホテルで結ばれた。だが、数ヶ月後、その先輩は汚職事件の当事者として逮捕され、実刑判決を受ける事になる。
(あれからしばらく、男嫌いになった。しかも、それを知っているはずの姉小路さんが誘ってくるので、更に男嫌いが酷くなって……。そんな時、凛君と出会った)
凛太郎との出会いは、本当に運命のいたずらとでも言うべきものだった。二人は同じホテルで催されている別の会合に出席していた。ぼんやりとして廊下を歩いていて、麻奈未は凛太郎と正面衝突する形でぶつかってしまった。しかも、互いに抱き合って転がったのだ。
「ああ、すみません、ぼんやりしていて!」
凛太郎が素早く立ち上がり、麻奈未の手を取って起こしてくれた。一瞬だけ見た彼の顔が真っ赤だったのを覚えている。
「そんな、私の方こそすみませんでした。お怪我、ありませんか?」
麻奈未は恥ずかしさのあまり、凛太郎の顔を直視できなくなった。
「大丈夫です。貴女こそ、お怪我ありませんか?」
凛太郎が言った。
「大丈夫です、その、失礼します」
麻奈未はいつまでも凛太郎と一緒にいるのがつらくて、逃げるようにその場から走った。
「あ、あの……」
凛太郎が呼び止めるのを無視して、麻奈未は会場がある方へと駆け去った。
(あの時、持っていたレジュメを落としたのにも気づかないで、本当に動揺していた。男の人とぶつかって抱き合ってしまった事にパニックになっていたのかも知れない……)
その後、ホテルの従業員を通じて、レジュメが戻って来たが、すでに会合は終了した後だった。
(あの人、誰かな?)
しばらくぶりに興味が湧く存在として、凛太郎の事が気になった。
(それから何ヶ月か経っても、凛君からは何も連絡がなかった。考えてみれば、私がどこの誰なのかもわからないのだから、無理もないんだけど)
どこかで凛太郎からの連絡を待っていた麻奈未は、自分自身の思いに驚いてしまう。
(そんな時、聖生から突然言われたんだっけ)
凛太郎が聖生を通じて私に会いたいと言って来たのだ。
(あの時はどうして聖生を通じてなのかと気になったけど、聖生がたまたま凛君が担当している法人の調査に行った時、凛君に尋ねられたのよね)
レジュメの表紙には「伊呂波坂麻奈未」と氏名が記されていたので、同じ名字の聖生に凛太郎が声をかけたのは、当然の成り行きだったのだ。
(ある意味、聖生は私と凛君を引き合わせてくれた存在。感謝する事はあっても、嫉妬する対象じゃない)
しかし、まだどこかで男性恐怖症が残っていた麻奈未は、凛太郎からのアタックを受け流していた。一度だけは会ったが、それから先は会わなかったのだ。
(凛君を試すような事をして、酷い女だった。今でも後悔している)
麻奈未はその頃の自分の気持ちが理解できなかったが、仕方ないとも思った。
(そんな酷い仕打ちをしたのに、凛君は諦めなかった。何度も私を誘ってくれた)
凛太郎の一途さに打たれて、麻奈未は交際を承諾した。ところが、凛太郎の勤務先の柿乃木啓輔が査察対象となり、別れなければならなくなった。
(凛君を振り回し続けて、挙句の果てに野間口絵梨子というとんでもない存在に関わらせてしまった。それなのに私は、凛君がその、そういう気持ちになったのに驚いて、拒絶してしまった)
凛太郎の身体が反応したのは、麻奈未に男としての感情があるからなのに、それに驚いて引いてしまった。
(私はまだ凛君を許せていないの? 優菜さんとそういう事になって、それがまだどこかで引っ掛かっているの?)
麻奈未は着替えるのも忘れて、ベッドに倒れ込んでしまった。
「お姉、食事しないの? お父さん、待っているよ」
ドアの向こうで聖生の声がした。
「あ、すぐ行く」
麻奈未は我に返り、スウェットに着替えると、部屋を出て階段を駆け降りた。




