十一日目 企む女、傍観する女、警戒する女
夜になった。
「凛君、今夜、空いてる?」
いきなり麻奈未から電話をもらい、凛太郎は動揺して、
「はい、もちろん、万難を排して、何とかします」
意味不明な事を言ってしまった。電話の向こうで麻奈未が笑いを噛み殺しているのがわかった。
「そこまで頑張らなくていいんだけど、夕食を一緒にどうかなと思って」
麻奈未が言った時、誰かがそばにいるのがわかった。
(誰だろう? 聖生さんかな?)
凛太郎は麻奈未の妹の聖生にはちょっとした苦手意識があるので、もし同席するのであれば、どうしようと思った。
「あれ、凛君、聞いてる?」
凛太郎の返事がないので、麻奈未が言った。
「ああ、すみません、聞いてます」
凛太郎は更に動揺した。
「あ、ちょっと!」
麻奈未が叫び、
「どうも、凛太郎君、お久しぶり! 麻奈未の母の美奈子ですう」
いきなり別の女性の声が聞こえた。
「え?」
凛太郎は半年以上前、麻奈未とデートしていた時に会った女性を思い出した。
「忘れちゃった? 悲しいなあ」
美奈子の声が言うと、凛太郎はギョッとして、
「わ、忘れてなんかいません! ご無沙汰しています、お母さん!」
深々と頭を下げた。
「誰から?」
そばで聞いていた綾子が訝しそうな顔で尋ねた。凛太郎はそこでまだ自分が事務所にいるのを思い出した。
「麻奈未さんのお母さん」
凛太郎は綾子に説明した。すると綾子は無言で凛太郎のスマホを奪い取り、
「いつも凛太郎がお世話になっております。凛太郎の母の綾子です」
よそ行きの声で話し始めた。
「あら、初めまして。麻奈未の母の美奈子です」
美奈子も声をよそ行きに変えた。綾子は微笑んで、
「それから、夫もお世話になったようで、ありがとうございました」
少しだけ嫌味っぽい口調で言った。凛太郎はそれを聞いて項垂れた。
「木場隆之助さんですね。おしどり夫婦で有名だそうですね、羨ましいわ」
美奈子は綾子の嫌味を感じたのか感じていないのか、そう返して来た。
「いえいえ、毎日喧嘩していますのよ」
綾子は「おしどり夫婦」が嫌味だと思い、返しがまた嫌味っぽくなった。
「まあ、そうなんですの。喧嘩する程仲がいいっていいますものね」
美奈子は気づいていないのか、とぼけているのか、綾子には判別がつかない。
「ああん!」
美奈子が妙な声を出した。そして、
「申し訳ありません、高岡先生、あ、いえ、今は木場先生でしょうか?」
麻奈未がスマホを奪い返して言った。
「ああ、仕事上は高岡で通していますので、高岡でいいですよ」
綾子は愛想笑いをして応じた。凛太郎がその瞬間、スマホを奪い返して、
「すみません、麻奈未さん、不躾な母で」
綾子はムッとしたが、自分の机へ歩いて行き、帰り支度を始めた。
「私こそ、能天気な母でごめんなさいね」
麻奈未が言った。そして、
「じゃあ、午後八時にいつものカフェで落ち合いましょう。それから、母の行きつけのレストランへ」
「わかりました。では」
凛太郎はまたスマホを奪おうとする母を押し退けて、通話を終えると、
「母さんは尾いて来ないでよ。麻奈未さんのお母さんと会うんだから」
綾子は美奈子が同席すると知ると、
「尾いて行かないわよ。安心しなさい」
ぷいと顔を背けて、事務所を出て行ってしまった。
「全く……」
子供みたいな態度の母に溜息を吐き、凛太郎は消灯して事務所を出た。
優菜は歓迎会を終え、帰宅しようとしたが、
「まだ付き合ってくださいな」
絵梨子に強引に誘われて、バーへ行く事になった。同行したのは一色雄大だけだったので、優菜はより不安になっていた。
「ここよ」
絵梨子が言った。そこは以前、姉小路が絵梨子に股間を蹴り上げられたところだったが、優菜も一色もそれを知らない。絵梨子はカウンターではなく、奥のボックス席に座った。優菜は押し込まれるように奥の席に座らされ、隣に一色がニヤニヤして座った。
(逃げられない……)
優菜は焦ったが、どうする事もできない。
「柿乃木さん、貴女に是非協力して欲しい事があるの」
絵梨子は酒の注文を終えると、優菜を見た。
「協力、ですか?」
妙な事を言うわねと優菜は警戒した。一色は相変わらず気味の悪い笑みを浮かべたままだ。
「私は、東京国税局の査察部に勤めている伊呂波坂麻奈未という女と大学の先輩後輩なの」
絵梨子の顔が凶悪さを増した気がした。優菜は震えそうになった。
(いろはざかまなみ? 凛太郎さんの恋人?)
麻奈未とは面識はないが、それだけは知っている優菜は、絵梨子が何か良からぬ事を企んでいると直感した。
「伊呂波坂は外面が良くて、男にモテまくっていたわ。私は大学時代に付き合っていた人を全員、伊呂波坂に奪われたの」
絵梨子の目が吊り上がった。優菜は思わず唾を呑み込んだ。
「だから、その復讐のために貴女に力を貸して欲しいのよ」
絵梨子の顔が急に穏やかになり、優菜を見た。
「そ、そうなんですか」
優菜は顔が引きつるのを感じながら応じた。
(お父さん、よくこんな人を愛人にしていたわね。身体だけの付き合いだったのかしら?)
優菜は父である啓輔の趣味を疑った。絵梨子がより歪んだのは啓輔のせいだとは優菜にはわからない。
「お願いね、優菜さん」
絵梨子は微笑んで優菜の両手を包み込むように握ってきた。
「は、はい」
優菜は振り払うのを必死に我慢して、作り笑顔で応じた。
麻奈未と美奈子はカフェの前で口論になっていた。
「ちょっとお母さん、露出が多過ぎるんじゃないの?」
麻奈未は背中が大きくあいたイヴニングドレスを着た美奈子に呆れていた。
「そういう麻奈未は地味過ぎない? 部下と会食するんじゃないのよ。恋人と会うのよ?」
黒のスーツを着ている麻奈未を半目で見ている美奈子が言い返した。
「今日はデートじゃなくて、顔合わせの会食なの! それにお母さんのは自分が主役になっているわ」
麻奈未は腕組みをして母親の姿を批判した。
「本当はお父さんにも来て欲しかったのに、どうしても嫌だと言って聞かないから、お母さんだけに来てもらったのに、これじゃあ、趣旨が変わってしまうわ」
麻奈未が溜息を吐くと、
「あら、麻奈未ったら、恋人をお母さんに盗られちゃうと思ってるの?」
美奈子がにやついた。麻奈未はムッとして、
「そんな事、思ってないわよ! TPOを考えてって言ってるの!」
美奈子が言い返そうとした時、
「あのお……」
到着した凛太郎が申し訳なさそうに声をかけてきた。
「あ、凛君、ごめんね、母が何も考えていなくて……。さ、入りましょう」
麻奈未は火照る顔を両手で扇ぎながら、凛太郎をドアに誘導した。
「失礼しちゃうわ、もう」
美奈子は剥れて後に続き、
「凛太郎君、気にしないでねえ。麻奈未は今日、ちょっとご機嫌斜めだけど」
更に麻奈未を煽った。麻奈未はそれを無視して、凛太郎とカフェに入って行った。
「お父さん、行けばよかったのに」
父と晩酌をしている聖生が言うと、
「……」
太蔵は何も言わずにお猪口の酒を飲み干した。
「まあ、お姉はお酒弱いからねえ。今夜はとことん私が付き合ってあげるね」
聖生は太蔵のお猪口に徳利の酒を注ぎ、残りを自分のお猪口に注いだ。太蔵はまた無言で飲み干した。
「気を遣わんでもいいぞ、聖生」
太蔵はボソリと言った。聖生はクスッと笑って、
「はいはい。どんどん飲んでね、お父さん」
別の徳利でお猪口に酒を注いだ。
(今からこんな調子で、いざ結婚てなったら、凛太郎さん、お父さんに殴られるんじゃないかな? 心配だ)
聖生はまたお猪口の酒を飲み干した父を苦笑いして見ていた。
「やっぱりいい男ねえ、凛太郎君は」
レストランの予約席の丸テーブルに着くなり、美奈子が言った。
「ありがとうございます、お母さん」
凛太郎は顔を引きつらせていた。美奈子のドレスから乳房が半分くらい見えているからだ。
「お母さん、ドレスが乱れているから、きちんとして!」
凛太郎の視線が母親の胸元に注がれている事に気づいた麻奈未が言った。
「あら、失礼」
美奈子はジッと凛太郎を見たままで、ドレスの襟を直した。その時、豊満な胸が揺れたので、凛太郎は生唾を呑み込んだ。
「凛君!」
麻奈未は凛太郎の右の二の腕を思い切りつねった。
「いだ!」
凛太郎は痛さのあまり、飛び上がりそうになった。
「あらあら、見せつけないでくれる、麻奈未。お母さん、羨ましくなっちゃう」
美奈子は嬉しそうに麻奈未を見た。麻奈未はムッとして、
「見せつけてなんかいないでしょ! いい加減にしてよね。何なら帰ってもらっても構いませんから」
美奈子に詰め寄った。
「もう、冗談じゃないの。麻奈未ったら、すぐ怒るんだからあ」
美奈子はヘラヘラして取り合わない。
「もう!」
麻奈未は自由奔放な母に呆れてしまった。美奈子は凛太郎にすり寄って、
「凛太郎君、麻奈未は怒りっぽいけど、根は悪い子じゃないから、別れたりしないでね」
「いや、ハハハ、そのですね……」
凛太郎は引きつりながら、後退りした。
「怒らせてるのは誰よ!」
麻奈未は席を立って凛太郎と美奈子に割って入った。
「凛君、お母さんは娘の恋人でも手を出す人だから、気をつけてね」
麻奈未は美奈子を睨みつけてから、凛太郎を見た。
「そ、そうなんですか」
凛太郎は呼吸が止まりそうなくらい引きつっていた。
「あーあ」
聖生は酔い潰れてしまった太蔵にそっとタオルケットをかけた。
(自棄酒が過ぎたわね。どこまでお姉が心配なんだか。ホント、羨ましいわ)
聖生は太蔵をそのままにして、浴室へ行こうとした。すると、玄関の鍵が開く音が聞こえた。
「え?」
麻奈未がもう帰って来たのだ。聖生は驚いて玄関へ行った。
「お帰り。早かったわね」
聖生は姉が不機嫌なのを瞬時に感じ取り、苦笑いをして言った。麻奈未は靴を脱いでスリッパを履くと、
「お母さんが酷過ぎて、解散したの。大恥掻いたわ」
麻奈未はそのまま二階へ上がって行こうとした。
「お父さんが待っていたのよ。声をかけてあげて」
聖生が引き止めた。麻奈未は溜息を吐いてリヴィングルームへ行った。
「お父さんがいてくれれば、お母さんもあそこまで暴れなかったと思う」
麻奈未の怒りの矛先が父に向いた。
「お父さん、只今帰りました」
麻奈未は太蔵の背中を三回叩いた。それも結構強めに。聖生はギョッとしたのだが、
「う、うん……」
太蔵は目を擦りながら起き上がった。そして、麻奈未がいるのに気づくと、
「ああ、お帰り。どうだった、美奈子さんは?」
タオルケットを落として立ち上がった。麻奈未はタオルケットを拾い上げて、
「どうだったもないわよ。お母さんのせいで、食事会は中止。早めに切り上げて帰って来たの」
太蔵の向かいの椅子に腰を下ろした。太蔵も椅子に戻って、
「そうか……」
溜息を吐いた。
「お父さんが行かないって言ったので、嫌な予感はしたのよ。予想通り、お母さんたら、最初から最後までふざけっぱなしで、凛君、いえ、凛太郎さんは困っていたわ」
麻奈未は「あなたのせいです」と言いたそうな顔で太蔵を睨んだ。太蔵はピクンとして、
「そうか。それは申し訳なかった。許してくれ」
テーブルに額を擦り付けるようにして頭を下げた。
「次は、お互いに両親同席で会食しましょうという事になりましたので、よろしくお願いします」
麻奈未はタオルケットを畳んでテーブルに置くと、スタスタと二階へ上がってしまった。
「お父さん、今度は逃げられないわね」
聖生は愉快そうに太蔵を見ると、浴室へ行ってしまった。
「はああ……」
太蔵は頭を抱えて大きな溜息を吐いた。
「ええ!? どうして!?」
凛太郎は麻奈未と話し合った結果を伝えるために、父親の隆之助の家を訪れていた。居間に通されて事情を説明すると、向かいのソファに隆之助と並んで座った綾子が大声で言ったのだ。
「どうしても何も、どちらも両親同席にしないと、また同じ事になってしまうからだよ」
凛太郎は剥れる綾子に言った。
「なるほど、美奈子さんだけだと、麻奈未さんが御し切れないのか」
隆之助は笑っている。綾子はそれも面白くないらしく、
「ウチは隆之助だけでいいでしょ。私は行きませんから」
「何言ってるんだよ。綾子は麻奈未さんと面識があるんだから、行かないという選択肢はないぞ」
隆之助は綾子のわがままを嗜めた。
「そうだよ。どうして行きたくないのさ。意味がわからない」
凛太郎が隆之助の味方をしたので、
「何よ、凛たら! 父さんの味方をするの! 信じられない!」
綾子はますます剥れた。
「味方とか、そういうんじゃないだろ? みっともないんだよ、母さん」
凛太郎は母の態度に呆れた。綾子は「みっともない」と言われたので、
「みっともないってどういう事よ、凛!」
ソファから立ち上がって凛太郎に詰め寄った。
「母さんは父さんが説得するから、凛太郎は帰りなさい。明日も仕事だろう?」
隆之助はこれ以上話をすると大変な事になると思い、凛太郎と綾子を引き離した。
「わかったよ」
凛太郎は立ち上がると、居間を出て帰って行った。
「何よ、隆之助は美奈子さんに会いたいの?」
綾子はまた癇癪を起こしていた。隆之助は溜息を吐いて、
「何言ってるんだよ。私が好きなのは、君だけだと何度も言っているだろう?」
後ろから綾子を抱きしめた。
「隆之助……」
綾子は恥ずかしそうに身をすくめた。
「忘れ物しちゃった……」
そこへいきなり凛太郎が戻って来た。三人は固まってしまったが、
「じゃあ、お休み」
凛太郎は何も見なかったように出て行った。隆之助と綾子は顔を見合わせて、赤面した。




