十一日目 悪足掻きする者、ただ去る者
剣崎龍次郎前総理大臣の内閣総辞職を受け、衆議院と参議院で首班指名が行われた。与党は代表選を経る事なく、剣崎派のNo.2である四葉大二郎が選ばれ、両院で首班指名を受け、新たな内閣を組閣した。
「まだまだ、剣崎前総理の影響力は絶大という事ですか」
テレビでその様子を見ていた織部利一郎統括官が言うと、
「まあ、仕方ないな。剣崎龍次郎は道義的責任を取って、内閣総辞職をした。検察とは全面的に争う姿勢を見せているから、地検は起訴まで持ち込めただけで、善戦したと考えるべきだろう」
尼寺査察部長はリモコンでテレビを消しながら言った。ここは査察部長室である。二人はソファで向かい合っていた。
「事務次官はそれでも政界に打って出るようですね」
織部は財務事務次官の一之瀬英吾が権藤前幹事長の後釜をまだ狙っているのを指摘した。
「潜り込む事はできるだろう。いくら剣崎でも、すぐには復帰できない。しばらくは無位無冠でいるしかないだろうから」
尼寺はソファの背もたれに寄りかかった。
「何度でも叩き潰してやるけどね」
尼寺は織部を見てフッと笑った。
「そうですね。剣崎の裏の顔を知ってしまうと、今までのあの善人面が一層、癪に障りますね」
織部もフッと笑った。そして、
「権藤は本当に完全引退でしょうか? 一之瀬事務次官が当選すれば、何かの形で引き上げる可能性はありますか?」
尼寺を見た。尼寺は腕組みをして、
「どうだろうね。政治家としての矜持があれば、後輩に助けられて復帰はしないだろう。権藤は連間系だから、潔く政界と決別すると思うよ」
「そうかも知れませんね」
織部は大きく頷いた。
「結局、何も変わらなかったのと同じだね。確かに剣崎龍次郎は第一線から退いたけど、後継は剣崎派だからね」
姉小路が自分の机で頬杖を突いて言った。麻奈未は苦笑いをして、
「そうですね」
一言だけ返した。姉小路は周囲を見回して、織部がいないのを確認すると、
「あのさ、伊呂波坂ちゃん」
身を乗り出して声を低くした。
「何ですか?」
麻奈未は思わず身を引いて尋ねた。
「俺、何か伊呂波坂ちゃんを怒らせるような事した? もししたのなら、きっちり謝るけど」
姉小路が大真面目な顔で言ったので、麻奈未は噴き出しそうになったが、
「別に何もされていないですよ。被害妄想ですよ、姉小路さん」
「あ、そ、そうなんだ。それならよかった」
姉小路は織部が戻って来たのを見て、席に座り直した。
「ちょっといいか。次の査察の事で話がある」
織部は麻奈未達を自分の席に呼び寄せた。麻奈未達は織部の席へ動いた。
柿乃木優菜は野間口絵梨子税理士事務所に出勤した。絵梨子は朝礼で優菜を十人いる所員全員に紹介し、誉めそやした。優菜はむず痒かったが、愛想笑いをして乗り切った。
「優菜さん、また一緒に仕事ができるのが嬉しいですよ。仲良くしましょう」
一色雄大が臆面もなく話しかけて来たので、
「はい、よろしくお願いします」
優菜は微笑んで応じた。絵梨子よりも一色の方が気色が悪かったが、ここを辞めれば行くところがないので、我慢する事にしたのだ。
「所長、優菜さんの歓迎会、どうでしょうか?」
一色が絵梨子に提案した。
(余計な事を言わないで、気持ち悪い!)
優菜は微笑んでいたが、腹の底では一色を罵っていた。絵梨子は優菜をチラッと見てから、
「そうねえ。長くいて欲しいから、開催しましょうか。全部私が持ちますから」
絵梨子は所員達に愛想笑いをして言った。何も知らない所員達は喜んでいた。
「楽しみにしていますよ、優菜さん」
一色がすれ違いざまに耳元で言った。優菜はゾッとしたが、
「はい」
強張りそうな表情を何とか笑顔にして、一色を見た。
(柿乃木優菜には、伊呂波坂を陥れる先鋒になってもらうのだから、大事にしないとね)
絵梨子は一色にやり過ぎないように釘を刺そうと思った。
「一色さんは以前の職場で一緒だったのですか?」
優菜と一回りくらい年上に見える女性が声をかけて来た。各務原美津江という経理担当である。中肉中背で長い髪をポニーテールにして、太めの黒縁眼鏡をかけている一見するとおとなしめの人物に見える。
「あ、はい」
優菜は絵梨子と一色が所長室に入って行ったのを確認してから美津江を見た。
「一色さんは所長のお気に入りですから、あまり仲良くすると睨まれますので、気をつけてくださいね」
美津江は優菜に囁いた。その時の彼女の顔は無表情で、どういうつもりでそんな事を言ったのか、優菜にはわからなかった。
「はい、気をつけます」
優菜は会釈をして、自分に与えられた席に着いた。美津江は優菜を一瞥してから、自分の席があるブースへと歩いて行った。
(父の事務所もいろいろな人がいたけど、ここはもっと凄そう)
優菜は息が詰まりそうだった。
「誰?」
一人きりになった事務所で、綾子は知らない番号からの着信を受けた。
「はい、高岡です」
綾子は怪訝そうな顔で応じた。
「高岡先生、野間口と申します」
相手は絵梨子だった。
「ああ、野間口先生ですか。ご無沙汰しています」
綾子は税理士会の会合で会釈をかわして以来なので、どうして電話をもらったのかわからず、警戒していた。
「こちらこそ、不義理にしてしまい、申し訳ありません。実は、弊事務所で柿乃木優菜さんを採用しましたので、その事でご連絡致しました」
「優菜さんを?」
綾子は目を見開いた。
(こんなに早く、野間口税理士のところへ行くなんて、やっぱりあの子、強かね)
綾子は作り笑顔で、
「それは安心しました。突然辞めてしまったので、心配していたのです」
絵梨子がどこまで優菜の事を知っているのかわからないので、ぼかして応じた。
「そうでしたか。先生のところで働いていたのですから、きっと優秀な方なのだと思い、声をかけました」
絵梨子は猫撫で声で告げた。
「また、ご挨拶に伺おうと思います。よろしくお願いします」
絵梨子はそれだけ言うと、通話を終えた。
(一方的ね。噂通りのやり手なのかも)
凛太郎から絵梨子の事は聞いているので、綾子は何か考えがあって連絡してきたと推理した。
(隆之助にも伝えておこう)
綾子はスマホを操作して絵梨子の番号を登録してから、夫の木場隆之助にかけた。
「おう、お疲れ。どうした?」
隆之助はワンコールで出た。綾子は嬉しそうな顔になり、
「何よ、私からの連絡を待っていたかのような早さね」
「君からの連絡はいつでも待っているよ」
隆之助も綾子の扱いは心得ているので、返しも完璧である。
「ありがと。それで、用件なんだけど、野間口税理士が連絡をよこしたわ」
綾子の声のトーンが変わったので、隆之助は、
「野間口税理士から? 何の用だった?」
声を低くした。
「優菜さんを採用したって言ってきたわ」
「優菜ちゃんを? 優菜ちゃんから面接に行ったのか?」
隆之助が相変わらず「優菜ちゃん」と呼ぶので、綾子はムッとし、
「違うわ。野間口税理士から声をかけて採用したようよ」
「そうか。何か企んでいるのかな?」
隆之助が言うと、
「麻奈未さん絡みじゃないかと思う」
「麻奈未さん絡み? まだこだわっているのか。しつこい女だな」
隆之助は呆れたようだ。綾子は肩をすくめて、
「はっきりそうとわかった訳じゃないけど、野間口税理士と優菜さんに共通するのは、麻奈未さんだから」
「凛太郎には伝えたのか?」
隆之助が当然の質問をした。
「まだよ。どうしたものか、貴方に相談しようと思ったの」
「そうかあ。凛太郎には伝えた方がいいだろうな」
隆之助があっさり言ったので、綾子は口を尖らせて、
「何でよ? 凛があれこれ悩むかも知れないから、しばらくは内緒にした方がいいと思ったのに」
「だったら、相談して来ないでくれ」
隆之助が突き放した言い方をしたので、
「ああん、そんな冷たい事言わないでよ、隆之助。悪かったわよ。じゃあ、どうすればいい?」
「伝えた方がいいと思う」
また隆之助はあっさり言った。
「どうして?」
綾子はまた口を尖らせた。
「二人の共通項は、麻奈未さんだけではなくて、凛太郎もだからだよ。心の準備をしておかないと、またしてやられるからね」
「ああ、そうね」
隆之助の言葉に綾子はすっかり納得した。
「麻奈未さんにはどうする?」
綾子が訊いた。隆之助は一呼吸置いてから、
「麻奈未さんには伝えなくてもいいだろう。凛太郎にも、麻奈未さんには言わないように釘を刺してくれ」
「わかった。ありがとう、隆之助。今夜も待ってるからね」
綾子は投げキッスをして通話を終えた。そして、時刻を確認してから、凛太郎のスマホにかけた。
「はい」
凛太郎もワンコールで出た。綾子はご機嫌になり、
「お疲れ様。今、お客様のところ?」
穏やかな声で尋ねた。
「今出て来たところだよ。何かあったの?」
綾子は手短に優菜の事を伝えた。
「ええ? そうなの? 優菜さん、野間口先生を毛嫌いしていたんだけどな」
凛太郎は優菜の行動に驚いていた。
「私も意外だったわ。自分の父親の愛人だった女のところに行くなんて、何を考えているのだか」
綾子は溜息混じりに言った。
「そうだね。怖い女だよ」
凛太郎は声を小さくして言った。綾子はしめたとばかりに、
「だから、気をつけなさいよ。仮に優菜さんがお詫びの印にとか言って来ても、会ったりしたらダメよ」
隆之助に言われたように釘を刺した。
「わかっているよ。麻奈未さんにも叱られたから」
凛太郎は言われるまでもないという口調で言い返してきた。綾子はそれがわかってムッとしたが、
「まあ、それならいいわ。それから、野間口税理士にも気をつけてよ。何か企んでいるみたいだったから」
「もちろんだよ。あの人は麻奈未さんを逆恨みしているらしいから、優菜さん以上に気をつけているよ」
凛太郎の口調が更に強くなった。
「それならよろしい。では、引き続き、仕事、お願いね。あ、それから、優菜さんの事は麻奈未さんには言わないでね。余計な気を遣わせたくないから」
「わかってるよ」
綾子は凛太郎が通話を切るのを確かめてから、切った。
ミーティングを終えた麻奈未達はフロアを出た。麻奈未は自販機コーナーへ行った。
「お疲れ様です、先輩」
交際を公言している茉祐子と代田は仲良く長椅子に座っていたが、麻奈未に気づいて立ち上がった。
(羨ましいな、同じ職場同士の交際って)
凛太郎と頻繁には会えない麻奈未は二人を見て微笑んだ。
「まずいですね。剣崎龍次郎、逃げ切るかも知れないですよ」
茉祐子が言った。麻奈未は頷いて、
「元総理大臣にしただけでも、大金星よ。検察がどこまで追い詰められるか、わからないけど」
コーヒーのボタンを押した。
「担当は連間の時と同じく、中務検事みたいですよ」
代田が持っていたコーヒーを一口飲んで言った。
「ああ、そうみたいね。あの人、執念深いで有名だから、どこまで食い下がるかってところかな」
麻奈未は茉祐子の隣に座った。
「権藤謙太郎は地元の群馬に帰って、余生を過ごすみたいですけどね」
茉祐子が言った。麻奈未は茉祐子を見て、
「剣崎は派閥を残したけど、権藤は旧連間派を残せなかったからね。解散したんでしょ、確か」
「はい。そのほとんどが剣崎派に嫌われて、無派閥になったままです。完全に派閥争いでは負けましたね」
茉祐子は紅茶を一口飲んだ。
「一之瀬事務次官が政界に乗り出すみたいだけど、財務省としては、官邸にパイプを残したいのかしら?」
麻奈未はカップをゴミ箱に投げ入れた。
「パイプ役だった権藤がいなくなってしまったので、事務次官がその役目を果たすんでしょう。でも、本来なら、権藤が幹事長の間になりたかったはずです」
茉祐子もカップをゴミ箱に放った。
「一之瀬事務次官の後継は、やっぱり九条長官なの?」
麻奈未は茉祐子を見た。茉祐子は苦笑いをして、
「順当にいけばそうなるでしょうね。それより、気になるのは局長の人事ですよ」
「ああ、そうね」
麻奈未は茉祐子程財務省の内部事情に詳しくないが、東京国税局の局長が剣崎寄りだったのは知っている。官邸関係者の調査には後ろ向きだった人物だ。剣崎前総理大臣のゴリ押しで、財務省が折れて決まったとの噂もある。剣崎程の実力者でも、国税局は怖かったという事なのだ。
「東京国税局の局長が剣崎寄りだったのは、事務次官の意向らしいですよ」
不意に代田が口を挟んだ。
「え? そうなの?」
麻奈未だけでなく、茉祐子も驚いた顔で代田を見た。
「財務省はバランスを取ろうとするんですよ。官邸と対立するだけではなく、時には従ってみせる。そうする事で、よりコントロールをしやすくする。そんな噂もあります」
代田は二人にじっと見られたので、気恥ずかしくなって俯きながら話した。
「先輩に見つめられて、デレデレしてるんじゃないわよ、充!」
それに気づいた茉祐子が代田の右の二の腕を強くつねった。
「あいでで!」
代田が悲鳴を上げたので、麻奈未はびっくりしてしまった。




