第一幕
「雫歌、秋田へ行け」
上司の命はいつもながら唐突だった。
「湯澤の南東、六里の奥に、子安という山村がある。竜宮伝説の残る地だ。行って、真偽を確かめてこい」
「ははあ、またまた竜宮ですか」
「不服かね」
「竜宮、乙姫関連で、当たりを引けた前例が一度だってありませんもの。しかも今度は山の中。前みたく、アオダイショウの脱け殻がたった一つの収穫だろうと怨まないで下さいよ」
「私が、いつ、そんな理由でお前を責めた。――まあいい、私は新潟、磯明神の人魚塚の方へ行く」
言って、隊長は腰を上げ、壁の外套に手を掛ける。
切れ長の目に薄い唇、造化の神が態々定規を用いたように一本真っ直ぐ通った鼻梁。
スラっとした体形は顔立ちとも相俟って、中性的な印象をますます強める。否、性別を超越した美しさというべきか。
そんな彼女に、一切の飾り気を排除したその黒染めの外套は、おそろしいほど合っていた。
「事によってはそのまま佐渡に渡るやもしれん。あるいは此処へ戻るのは、お前の方が先かもな。そうなっても、動揺するなよ。いつもの通り、頼んだぞ」
「了解、隊長。ご武運を」
ちょっとおどけて、敬礼の真似事なんてしたりして。
角度が違う、姿勢も甘い、なっちゃいないぞ未熟者、と。
小突かれた額に生じた痛み、甘い疼きを、今でもはっきり覚えてる。
「どうせ、どのみち、今回も。肩透かしに終るだろうと思っていたのに、想定外もいいとこですよ、緋柳千継隊長閣下――」
子安峡の秘匿された地下世界。不動ノ滝の壺の奥、幻の壁で隠蔽された裂け目を越えて、曲がりくねった回廊を、ずっとずっと進んだ向こう。
銀座三越の建物がすっぽり収納ってしまいかねない、広い広いその空間で、私はそっと、遠くの上司に呼びかけた。
声の慄えをどうしようもない。
だって、向こうに龍がいる。
背なをびっしり覆う鱗に、鯨も両断しそうな五爪。
二本の角は樫の木並みの逞しさ、顎はあくまで強靭に、天岩戸もばりばり砕いて喰えそうだ。
「屏風や襖のご常連、見飽きるほどに見てきたつもりだったけど」
だがしかし、現にこうして、わが網膜に直接的に映してみると。――この圧倒的な迫力はどうだ。古今東西、如何なる画家の筆であろうと、龍の真価の百分の一も描けてないと強制的に理解した。
「くわばら、くわばら。とうに死骸に成り果ててさえこれとはね。生きていたなら、いったいどれほど――」
「夫は死んでなどいない」
反駁された。
とぐろを巻いた龍体のふもと、真っ赤に染まった腹部を抑え、こちらを睨む乙姫がいる。
私が抉ってやったのだ。
つい先刻、この空間に至る寸前、回廊深部を舞台として展開された、私と彼女の果たし合い。その渦中にて、あのへんの肉を、ごっそりと。
結局それが決定打となり、彼女は撤退を余儀なくされた。この領域――本来ならば誰であろうと立ち入らせたくはなかっただろう、夫婦だけの褥の間へ、だ。
文字通りの不覚傷。そして未だに、その傷口は塞がっていない。
苦しげに、肩で息をしているあたり、いい証拠であるだろう。再生は遅れているようだ。
それでもなお、瞳は憎悪に燃えている。
薙刀を手放しもしていない。強く、強く、関節が白く浮き出るほどに、握り締めたままである。
姫というより、もはや夜叉。気の弱いやつなら、この視線に浴しただけで息を詰まらせ死ぬだろう。
感服すべき気力であった。
「彼は妾に告げたのだ。少し眠りに就くだけと。やがて再び目覚めた秋には、共に空を駈けようと。あのお言葉が、偽りであるはずがない」
「そうは申されますけれど。しかし奥様、ご主人は瞼を開けている」
開けて、意思の宿らぬ白濁しきった眼球を、外気に嬲らせ放題にしてる。
「とてものこと、眠っているとは思えませんが」
「貴様には聴こえぬのかえ、この音が――」
「音?」
耳を澄ませばなるほど確かに、微かながらもフシューフシューと、蒸気によく似た音がする。
出所は、ふむ、龍の鼻腔の奥からか。
……だが、これは。この不吉さは、響の底にあるものは。
「どうだ、夫は生きているのだ。きっともうすぐ目覚めてくださる。妾はそれまで、一途にお守りするのみよ。貴様の如き下郎の手など、寸毫たりとて触れさせまいぞ」
「痛ましい限りだ。それほどの天眼通ですら、愛の前には冬の北陸の空より曇る」
「っ、なんだと?」
「ただ待ち、守るだけでなく、起こす努力をするべきでしたね。彼の身に何があったのか、確かめなくてどうするんです。寄生されたから死んだのか、死んでから寄生されたのか、これだけ時間が経ってしまえばそれすらもう判らんでしょう」
「黙れ」
「お断りです、この腑抜け。物理的に、のみならず、精神的にも引き籠って、それでなんです、迂遠な殉死でも望んでましたか? 湿度の高い、こんな洞穴に棲んでいるから、性根までドロドロに腐ったのかな? いやはやご主人も罪作りな方だ。どうして余計な希望なんかを与えちゃったりしますかね。それは優しさなんかじゃあない、ただの単なる――」
「口を閉じんか、下衆下根――!」
猛然と突きを入れてきた。
が、既に深手を負っている。
稲妻と錯覚した最初の動きが見る影もない。
容易く手元につけいれた。
「よい、しょっとお!」
衿を掴まえ脚を刈り、浮かせた身体を強引ながら、思い切り後方に投げ飛ばす。
落着を見届けることもせず、私は前進、龍体へ。
「待て、よせ、下郎――!」
どんなに巧く受け身をとっても、もう間に合わない。
せいぜいああして、声を張り上げるのが関の山。彼女にできる精一杯の抵抗だ。
もちろんそれで私の速度が鈍ることなど、金輪際ありえない。
さあ、いよいよだ。
化けの皮をひっぺがして、現実をまざまざと突き付けてやる。
勢いよく腕を伸ばして――
「うごぉ!」
衝撃が私の身体を襲った。
龍の眼球、たわわに実った黒部西瓜ほどもある、その器官を内側からぶち抜いて、奇怪な触手が一本ぴんと生えている。
あれに撥ねつけられたのだ。
凄い飛び出し方だった。
龍の死骸を隠れ蓑とし、また養分としていた「何か」。比類なき悪意の産物が、迫る敵意を、身の危険を察知して、潜伏をやめ、反撃へと移行したに違いない。
宙を舞った私の身体は、さながら一個のゴム鞠が如し。
地を跳ねるのを二度三度と繰り返したあと、漸く停止る。
改めてまじまじと下手人を見た。
寒天に似ていた。
光沢があって半透明、米研ぎ水にそっくりな色、特徴という特徴が、あのテングサ由来の信濃国の名産にいちいち酷似しているのである。
だが、威力のほどはどうだろう。
とても寒天どころではない。鋼鉄の鞭でぶっ叩かれたようである。背骨の関節が何個かズラされたのを感じる。
髄液が、漏れた。
こみ上げる吐き気に、身も世もなく従いたくなる。
「おまえ、さま?」
いまや眼球のみならず。
全身各所、皮に鱗に、到る処を突き破り、ツルツルした触手を狂い咲かせる龍の姿に、構えも忘れてただ呆然と突っ立つ乙姫。
無理もない。暁鐘連盟の尖兵として神秘探索任務に従事し、けっこう経つが。その私を以ってすら、これほど凄惨な光景に出くわしたのは初めてのこと。
ましてやツガイがこうともなれば、彼女の心中、嵐であろう。
説得には最良の機会とわかっているが。この状態で口を開けば、間違いなく黄水が溢れる。それはもう、ポンプみたいな勢いで。
切歯して見送るより他になかった。
「嘘、嘘、嘘、嘘、夢でございましょう、こんなこと。ああ、いけません、御身の眠りを守ると決めた妾自身が眠りこけ、あまつこんな冒涜的な夢を見るなど。早く、早く、目覚めなくては」
「……!?」
が、流石にこれは傍観できない。
幽鬼のような足どりで旦那の下に向かおうとする乙姫を、横合いから跳び込み、抱きつき、かっさらう。
その一秒後、彼女のいた空間に、触手が激しく打ち下ろされた。
「あ――」
私が割って入らねば、間違いなく彼女の身体は煎餅みたくぺしゃんこに潰されていたことだろう。
乙姫自身、それを理解したらしい。両の眼をこぼれんばかりに見開いて、地面に残る真新しい傷痕を凝視している。
「おまえさまが」
その呟きは、石筍を伝う雫のように幽やかに。
「おまえさまが、妾を傷つけるはずがない。妾に殺意を向けることなどありえない。おまえさまであったなら、おまえさまでありさえしたなら」
だが段々と、地響きのような確かさで。
噴火の予兆を感じ取り、私はそっと身を離す。
どうやら彼女も悟ったようだ。この空間のもはや何処にも、彼女の夫の意思などは片鱗たりとて残っていないと。ずっと直視を避け続けてきた、その冷厳なる真実を、ついに受け容れたようである。
「あ、あ、あ、あ、おまえ、おまえ、おま、おま、ままま、――おのれがァァァァァッッ!!」
狂乱したかの如く――いや、実際に狂ったのだろう――彼女は吼えた。
再度迫った触手をかわし、剪除せんと打ち返す。
いい動きだった。
傷のことなど忘れているに違いない。痛みも何も、完全に思慮の外へと弾き出されて消え去った。
――素晴らしい。
私は内心、ひそかに舌を巻いていた。
冷灰ではない、枯木ではない。悲劇を前にたださめざめと、泣き濡れるだけが能でない。彼女にはまだ熱がある。狂を発せる精神上の弾力がある。
連盟に参画する上で、もっとも大事なその資質。十二分に確かめた。
ならば私も今、ここで、命を張る意味がある。
――ぎしり、と。
私の手が虚空を掴む。
よもや一日に二度もコレを抜かされるとは。
来いと念ずればいつの間にやら手の中にある、この便利さを、隊長はどう説明していただろう?
「常世と現世、あちらとこちら、双界に同時存在している、要は比率の問題だ」――と。
確かこんな調子だったか。
「ははあ、そういうものですか」
まるで禅坊主の説法みたく抽象的な文言に、当時の私は愛想笑いを浮かべるより術がなかった。
「まあ、細かい理屈など、研究班のインテリどもに任せたまえよ。第一線で切った張ったに従事するお前にとって重要なのは、こうすればこうなるという単純な因果、それだけだ。それさえ踏まえておけばいい」
「えっへへへへへ」
もっともすぐに偽りのない、照れ笑いに変えることができたけど。
その忠告に、私はずっと従っている。
――来い。
余計な事象に気を揉まず、一念、ただそれのみを研ぎ澄ます。
形状をはっきり思い描いて――。
掌中に重みが加わった。
成功である。
私の得物、切り札たる宝剣は、今回も無事出現れた。
といっても、見かけはひどい。
脇差の条件を辛うじて満たす程度の長さに、鍔もなく、そもそもからして金属質の輝きもない。
尖端に向け、尖らせてはいるものの。凹凸の激しく残る表面、干しすぎた干し柿さながらにくすみきった色彩は、剣というより明らかに、古びた木杭こそ近い。
しかしもちろん、この物体の正体は、そんな可愛らしい代物にあらず。
……人間の大腿骨を削って作った、骨の刃なのである。
滑り止めに巻かれているのはこれまた人皮、それもほどよく鞣された。
皮の持ち主は、どうやら生前、入墨を嗜んでいたらしい。唐草模様を思わせる曲がりくねった線の羅列がところ狭しと彫りつけられて、全体の雰囲気の毒々しさを更に倍加させている。
――悪趣味だろう?
――ええ、まあ、正直、辟易しますね。縫い目もそれ、ひょっとしなくても髪の毛ですか? 根元から先っちょまで全部人体由来とは、とんでもないあくの強さだ。
――だが、なればこそ、これはお前に相応しい。お前の業に、その血に巣食うあの有害な深淵に、釣り合いが取れているはずだ。試してみたまえ、きっと適う。
そんな会話を経たあとに、隊長はこれを手交した。してくれた。長く続いた監視が解かれ、歴とした連盟の一員として、単独任務に従事するのを許可された日のことだった。
ならば私は、その期待に応えたい。あの秀麗な横顔を、失望で穢すのだけはごめんだ。
剣を、逆手に持ち替えた。