3楽章。月下狂人。6
一方、レポソではもう店を閉める時間。
レイラ·メネアドルはグラスを拭いているとき、呆然と立っている。
「どうしました? オーナー何か悩みでもありますか?」
そんなレイラに声をかけたのは金髪のポニーテールのウェイトレス、マチルダだった。
家族のように思っているレイラが急にボーッとしているのがとても心配そうな表情だ。
そんなマチルダの心配に気づいたレイラは首を振る。
「いいえ、なんでもないです。マチルダ」
「本当ですか。何か元気がなさそうです。今日は『あいつ』も来なかったし…」
「……」
マチルダのその言葉にレイラは静かに沈黙を見せるだけ。
すぐに、片づけが終わったように、後ろからもう1人のウェイトレスであるナオミが歩いてくる。
「黒兄ちゃんが来なくて元気がないのはお姉ちゃんだって同じでしょう?」
「だ、誰が!へんなことを言うな。ナオミ!」
顔を赤らめて差し迫った声をあげるマチルダにナオミは「本当かな~?」とニヤニヤする。
「それでも今日オーナーが元気がなさそうに見えるのも事実。……何かありましたか。オーナー」
「いいえ。私は、いつもと同じです」
「「……」」
レイラのその言葉にマチルダとナオミはそれ以上深く入らない。
実を言うとレイラはそれほど正気ではない。
レイラは昨日、ペプ·アルセナルが自分に言った言葉を思い出す。
──信じているさ。カダルーゾがプエルタ王国に忠義をみせている限り君は絶対にアルセナルを裏切らない。できない。彼は君のすべてであり、君はただの『人形』……『管理者』であるだけだから。
「……」
そうだ。自分は人形だ。
断頭台の管理者であり、彼の付属品に過ぎない。
だから、自分が彼を管理することはあっても、彼を楽にすることは不可能なことだと自覚している。
自分の意志も主張も持っていない人形が誰かを幸せにするのは不可能だ。
レイラ·メネアドルはそれをよく自覚している。
それでも──
「あれ?オーナー。どうしたんですか?! 血出ていますよ!?」
「はい?ああ」
彼女が拭いていたグラスが割れた。
いつも彼女のマスターがお酒を飲むとき、使っていた愛用のグラス。
彼女は、グラスの破片が自分に傷を負わせたことよりも、愛用のグラスを割ったこと自体が残念だった。
不吉だ。
「さあ、オーナー。薬です」
「オーナー大丈夫ですか? 死なないよね?ね?」
「すみません、ナオミ」
「いえ、いえ。 いつもお世話になっていますから。そしてお姉ちゃんは慌てすぎよ」
「でも、血が出るでしょ! たくさん血を流すと死ぬから本当に危ないって?」
「はい、はい」
レイラはナオミが持ってきた救急箱の消毒薬を塗りながら考え込む。
──今回は別のデペンサを送る。カダルーゾはまだ温存しておきたいから……われらの切り札の管理を任せる。レイラ・メネアドル。
ペプはレイラにそう言った。
どのデペンサを向かわせるかはレイラも分からないが、その中には自分のマスターはいない。
だから今日は、自分のマスターに昨日のことを相談という名の報告をしようと思ったが、残念ながら彼はレポソを訪ねなかった。
『まあ、今日は、昨日の子供用の服のようにマスターが私を訪ねてくれなくて、私もマスターを別に呼ばなかったのだから、当然のことですが』
最近、彼が自分の店によく来たので、レイラ自身も忘れていた。
特別な用事がなければ会うことのない関係。
それが玄とレイラの関係だ。
それを忘却し、くだらない夢を見ていた。
『まさか私はマスターに会いたかったんでしょうか? それならどうして?』
その答えを求めるために考えたレイラだったが、答えは出なかった。
ただ頭の中で浮かんだことは──
『マスターはちゃんと食事をとっているか心配ですね』
それは機械的ではなく、まるで人が人を思う感情だった。
☪
二度誰もいない公園。
ペプ·アルセナルは、ここにデペンサではなく、掃除人だけを連れてきたことを深く後悔する。
いや、果たしてデペンサを連れてきても、この光景を避けることができただろうか。
むしろ死体だけ増えるのではないだろうか。
そう思いながら、ペプの瞳孔は震えていた。
「殺す。殺してやる。全部皆殺しだ」
『カダルソの奴。 勝手に暴走していやがる』
黒い怪物。
自分の体をまるで黒い影で巻いたような身体。まるで恐怖を纏ったような形相。
その怪物は、カダルーソだったその存在は自分の『黒身』を振り回す。
「この化け物が…!」
その言葉が終わる前に掃除人の首が落ちた。
カダルーソの能力はすべて熟知している。
大気中に浮かんでいる黒いリビドであるデストルドを使って相手の首を打つ回避不能、防御不能の滅殺能力…。
それが彼の体の中に埋め込んだ『黒血』の力だ!
その無敵の攻撃力が彼をプエルタ王国最強のデペンサにしあげた。
『それに最悪なことに…』
ペプ·アルセナルは、自分が連れてきた掃除人たちの状態を調べる。
仮面をかぶったまま表情の分からない彼らがおびえている。
デペンサになるために兵士以上の訓練を受けてきたため、機械同然の彼らが目の前の黒い怪物に恐怖を感じている。
『これはまずい… 生き残った奴らのほとんどがカダルーソから「恐怖」を感じた』
それは戦意を失ったという意味でも把握できるが、ペプが心配したポイントはそちらではない。
「ちくしょう!リビドを込んて撃ったのに!だ、助けて!!」
「攻撃がきかない? なんで? 何だよこれ!」
黒い怪物に威嚇射撃を与えた掃除人たちだったが、その攻撃はまったく入らない。
これがペプ·アルセナルが心配したポイント。
「やつに恐怖を感じた掃除人は、全員後ろに下がれ!」
「ペプさま、私たちはまだ戦えます!」
「そういう意味じゃない!バカ!貴様らのリビドがあいつに通用しないこと!それ自体が黒血の第2の能力だ!やつに怯えると、その時点であいつへの攻撃はすべて無力化される。簡単に言えば、カダルーソに恐怖を感じたやつは、絶対にあいつを傷つけることができない!」
「ペプさま!その言葉は即ち!」
「そう、無敵だ」
ペプのその言葉に、掃除人たちは全員沈黙を見せた。
全員仮面をつけていなかったら、みんな顔に恐怖を帯びた表情だったはずだろう。
「そういう力だ。『黒血』というのは…」
つぶやくように、ペプはそう言った。
無敵の攻撃力とそれと同級の防御力を有する怪物。
いつも敵を殲滅した道具が、今度は自分に牙をむき出した。
最悪の状況と言わざるを得ない。
『やつを押さえる手段がないわけではない。しかし、あのように暴走した状態で、果たして聞くのだろうか』
それを悩んだ瞬間、黒い怪物は周囲に漂う黒いリビド。デストルドを凝縮しはじめる。
『あれは?まさか!』
巨大なライフル
正確には影のように全体が真っ黒だ。
デストルドで巨大な銃を形象化させたのだ。
「!!」
ペプはすぐ不吉を感知した。
黒い怪物がライフルを形象化したごとではない。
どうしてライフルのような遠距離武器の形を取ったのか。
それも弾丸が必要な武器を、
「死ね…」
瞬間、黒い怪物のその言葉と共に真っ白な薬莢が現れた。
まるで真っ白な大理石を削って作ったような粗末な薬莢。
誰もそれを見て弾丸だとは思わないだろう。
「全員逃げろ!!」
ペプ·アルセナルを除いて、
「この行かれ野郎が! 暴走した状態で『エニオの牙弾』を使うとは! このあたりを全部荒野にする算か!」
エニオの牙弾。
グライアイの一人。『戦争の魔女』と呼ばれるエニオが作った弾丸。
外見は真っ白な弾皮の形状を帯びているが、その中に限界までリビドを込み、銃で撃てば、その火力は優にミサイルに匹敵するか、リビドによってはそれ以上だ。
威力が恐ろしいのではない。
たった個人が自分勝手にミサイル級火力を乱発するという事実が恐ろしいのだ。
『あれを使えるのがやつ1人だけだから、所有権を渡したのが……それが裏目に出たのか!』
ペプは歯を食いしばった。
あれを出した以上、射程圏外に逃げるにはもう手遅れだ。
『通じるかどうかは後で考える! ここで死ぬよりはましだろう』
そのようにペプ·アルセナルは目の前の黒い怪物を押さえる『手段』を使う。
──いや、使おうとした。
「玄…さん?」
ペプの瞳孔は大きくなった。
自分が撃ち殺したはずの少女が立ち上がった。
眉間の傷は消え、現在の状況を見つめる。
玄だった黒い怪物を眺める。
「ミツキ···?」
そして、その黒い怪物は足を止めた。
☪
真っ黒だ。何も見えない。
「死ね!くたばれ!」
何か音が聞こえてくる。
悲鳴? いや、違う。
じゃあ、どんな音だ?
「クヘヘ!!! 殺す!全部殺す! 皆殺しだ!」
自分の声だった。
狂気に食われて狂気に身をまかせた黒い怪物。
それが自分の姿だ。
自分の本質だ。
──いや、そんなことはどうでもいい。
その子を、ミツキを殺した。
だからもう忍耐はやめる。
そう、怒りに身をまかせよう。
全部皆殺しにしよう。
「玄…さん?」
ありえないことが起こった。
ミツキが自分に声をかけた。
幻聴だと思った。
だが、心配そうな目でみつきは自分を見つめる。
醜いことである、化け物の自分を見つめる。
「ミツキ···?」
自分のその声に少女は笑う。
光が入る。
真っ黒だったものが消え、白夜だけが残る。




