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1人部屋

作者: Hato

「そっちの暮らしには慣れた?」

カウンターキッチンの向こう側で、洋子が夕食に使ったのであろう皿を拭きながら尋ねた。右下の時計は21時を示していた。

「ゆっくり街を回ることもないから、慣れたって言えるのかもわかんないな」

さきほど届いたばかりのピザを片手に河野健司は答える。

「都内は感染者が多いから、下手に外出できないわよね」

「そっちも同じだろ」

「まあ、そうね」

洋子が観たこともないスプレーをテーブルにかけた。おそらく最近購入したアルコール除菌スプレーだろう。

翔太が階段から降りてくる音が聞こえた。普段なら静かに降りなさいと注意をしているが、パソコンの画面越しで会話をしている今ではすべての生活音が大きく聞こえるためか、さほど煩わしさを感じない。

リビングのソファに腰掛ける音がすると、画面の右端から翔太の顔が出てきた。角度から考えると今日も部屋の真ん中のローテーブルにタブレットを置いているのだろう。

「お父さん、今日もピザ?」

「まあな。先週とは味が違うよ」8枚切りのピザを画面に向けて見せた。

「いいなあ、俺もピザ食べたいんだけど」

「お母さんにいいな」

ピザ食べたい、というかのように翔太が洋子の方を見た。洋子は布巾を洗いながら「うーん、そうね」とだけ言った。

「いいじゃん、明日はこどもの日だよ」

「それ、関係ないだろ」

「こどもの日はこどもがえらい日なんでしょ。ピザでもいいじゃん」

「こどもの日はちまきって決まってるの」洋子が近づいてきて、画面から消えた。翔太の隣に座ったようだ。

「こどもの日なのにこどもの食べたいもの食べれないの」翔太がふてくされる。



健司はこの春から都内に移住している。得意先の新システムの運用の現場管理を任されたのだ。上司から通知を受けたときは、入社12年目にして初めての東京の仕事に少しばかり心を弾ませた。また、小さい子供がいる身にとっては、久しぶりの自由な生活ができる単身赴任が密かな楽しみでもあった。8年前に洋子と結婚してから自由な時間を持てず、翌年翔太が生まれてからはさらにそれが難しくなった。家族を持つことは健司にとって本望ではあったが、仕事終わりに小さい子供の相手をするのは体にこたえた。

だがその思いも最初のうちだけだった。

弁護士を務める洋子は昨年から多忙を極め、帰宅が遅くなることもしばしば増えた。幼稚園の送り迎えや家事は基本健司が行った。一晩帰ってこないこともあった。

正直言って健司は洋子に嫌気がさしていた。中小企業に勤める自分よりも収入や権威が高いことに不満があったのではと言われれば否定はできない。しかしまだ幼い我が子がいるというのに仕事ばかり優先する様子に腹が立った。久しぶりに朝家にいるかと思えば自分の分の朝ごはんだけを準備してすぐに出て行った。ベビーベッドの上では赤ん坊の翔太が腹を空かせて泣いていた。

家事について話し合うこともあったが、洋子は仕事は削れないといって聞かなかった。どちらか片方が家にいれば回るだろうと突き放した。子供の面倒を見ながら家事をすることの苦労を何度も抗議したが、洋子に響くことはなった。そして最近になって、喧嘩すらしなくなった。健司はあきらめかけていた。家事が億劫になり、実家の母に翔太の面倒をみるように頼むことが増え、日常となった。家についても最低限やるべきことだけをこなし、洋子と鉢合わせても居ないものとして過ごした。この家から出たいと何度も思った。それは洋子も同じだったのかもしれない。

そんなある日社内で遅くまで残業をしていると、「おつかれさまです」という声とともに手元に缶コーヒーが差し出された。見ると、社内で同じプロジェクトに従事していた5歳年下の山本美穂だった。美穂は健司のパソコンを覗き込み、「プロジェクトはどうですか?」と聞いてきた。長いまつげが美穂の目をひときわ大きく見せている。

「部長の根回しもあって順調だよ」

「いつもの強引な根回し、またあったんですね」凛とした声で美穂が笑った。

健司も笑みを返した。こんな風に笑うのはいつぶりのことだろうか。

「うん、だから仕事は問題ないよ」

「仕事は?」美穂が尋ねる。

「何かあったんですか?」

その問いに健司は少し黙りかけた。正直、こころの桶に溜まった不満の水をあふれさせたい気持ちだった。その帰り、居酒屋で美穂に事情を話した。美穂は真剣な様子で話を聞き、健司に共感を寄せた。家事と子育てをしながら仕事もこなす健司を尊敬する、奥さんが理解できないとまでつぶやいた。彼女には言いたいことをなんでも話すことができた。それが健司の疲弊した心を癒し、気持ちを軽くさせた。そしてその後、健司は彼女が一人で暮らすマンションに訪れた。

彼女との関係はしばらく続いた。まめな連絡があるわけではなくその日どちらかがその気になったら会うというものだった。家族というくくりに疲れた健司にとって、美穂のような縛りのない関係は居心地がよかった。

「奥さんと別れなよ」

彼女がそういいだすのは遅くなかった。

「君とは深い関係になるつもりはなかったけど」

枕もとの時計を見ると、朝の5時だった。一度自宅に帰るため、脱ぎ散らかした服を手に取った。

「勘違いしないで。不自由そうだから言ってるだけ」

枕に頬杖をつきながら美穂が笑った。

「だって朝家に帰る河野さん、すごく不機嫌そうなんだもの」

健司はしばらく黙ったが、やがて何も言わず宿泊代だけテーブルに置いて部屋をで行った。

朝帰りは繁忙期にもすることはあったが、最近は美穂と会うたびにする。早朝に洋子と鉢合わせたときは仕事が遅くなったと言ってたが、近頃は何も言ってこなくなった。

察しているのかもしれない。まだ眠っている翔太の顔を見ると罪悪感がよみがえるため、健司はそそくさと出社した。

気持ちの整理をしたほうがいいのかもしれない。美穂の言葉が脳裏によみがえる。

それから数日経った休みの日、健司が寝室を掃除していると引き出しの奥から見たことのない紙が出てきた。離婚届だった。洋子が用意したに違いない。すでに洋子の記入部分は埋まっていた。不思議とその時は、驚きや憤りも安どもなかった。そこにあるのはほんの少しの虚しさだけだった。


翌朝翔太の幼稚園の支度をしていると、テレビのニュースがふと視界に入った。

中国で新型の感染症が流行っているらしい。健司は構わず家を出た。

出社早々、「5月から東京に行ってほしい」と言われた。都内を拠点とした新しいプロジェクトが始まる。そのリーダーを務めるよう指示が出た。

東京に出ることもプロジェクトリーダーを務めることも、入社当初から憧れがあった。ほんの3か月だけだが、その夢がかなうと思うと、浮足立つ気持ちだった。

同時に洋子と翔太の顔も思い浮かんだ。単身赴任のことを話したら、洋子はなんというだろう。行く前にこれを、と離婚届を出すのだろうか。今のようなうやむやな状況が続くのだろうか。

「すごいじゃないですか。次のプロジェクトも決まって」美穂がいった。

「ほんの3か月の小さなプロジェクトだけどな」

美穂は微笑むと、健司にしか聞こえない声でいった。

「いい機会になるんじゃないですか」

健司は美穂をみたが、何も言わなかった。まだ自分の中で整理がついていなかった。



「それじゃ、しばらくうちを空けるってこと?」

その日の夜、翔太が寝てから洋子に話した。彼女はまだ帰宅しておらず、電話口で話した。

「そうなる。3か月」

洋子が黙った。健司は洋子の次の言葉を待った。話したいことがある、私たちもう終わりなんじゃないか。最悪の言葉を先に脳内に並べた。

「わかった。翔太はお義母さんにお願いするから、気を付けてね」

洋子の言葉はそれだけだった。忙しいのか面倒なのか、電話はすぐに切られた。

洋子の気持ちが想像つかず、健司はただリビングで立ち尽くした。


1か月後、事態は急変した。

新型ウイルスの蔓延が日本でも急速に拡大したのだ。これを受け、政府が緊急事態宣言発令の方針を決めるというニュースが流れた。

翔太はこの4月で小学校に上がる予定だったが、休校要請により自宅にずっといる。洋子は在宅勤務の環境が整わないため通常通り出社していた。

「洋子さん、大変なのはわかるけどもう少し翔太君と一緒にいてやれないかしらね」

帰宅すると、さっさと帰り支度をする母に毒づかれた。健司も同じく在宅ができない仕事のため、何も言えなかった。

さらに大きな変化があった。単身赴任辞令が早まった。出社すると部長が「来週からさっそく東京に行ってほしい」といった。緊急事態宣言が出ると全国規模の異動が厳しくなる。会社の印象を保つための手段だ。

帰宅後すぐに荷造りに取り掛かると、部屋に洋子が現れた。今日は珍しく帰りが早かった。

健司は事の次第を話した。洋子はこれにはやはり驚いた様子だった。

「家のことは君に任せたい」

「任せるって言っても、私には仕事があるのよ。お義母さんがやってくれるわ」

「でも、母さんに頼りっぱなしはよくない。どうにかならないかな」

「勝手なこと言わないで」

「勝手なのはどっちだ。いつも家のことは放り出しているじゃないか」

「放り出しているつもりはないわ。私だって…」

言い合っているうちに翔太が目をこすりながら部屋を覗いていた。

「ああ、ごめんね、翔太…」

洋子が翔太を連れて部屋から出て行った。その日は洋子とは言葉を交わさないまま眠った。


洋子と険悪な状態のまま、健司は都内のウィークリーマンションに引っ越した。

物理的距離が発生したことにより、洋子への不信感はさらに高まった。結婚当初から洗濯や掃除は主に健司が担当し、食事を作っている姿もほとんど見たことがなかった。果たして彼女が翔太の面倒をしっかり見られるのか。倒れてしまうのではないかと心配すらした。

そして数日後、緊急事態宣言が発令された。健司は想像とは全く異なる閑散とした東京の風景を見ることとなった。駅中の店はシャッター街となり、大きすぎる横断歩道はほとんど人通りがなかった。健司はこの異常な景色に最初は慄いたが、1週間後には日常として受け入れて過ごした。

ある金曜の夜、仕事終わりの夕食の準備が面倒になり出前を注文した。ピザを一人で1枚食べるのは10年ぶりくらいだった。最初は背徳感があったが半分ほどで胃がもたれてしまった。

スマホが鳴った。自宅の電話からだった。

「もしもし?」

「お父さん?」翔太の声がした。1ヶ月ぶりの翔太の声に頬が緩んだ。

「翔太か。元気か?」

元気だよ、と翔太が言った。しばらく会っていなかったせいか、声は少し緊張気味だった。

「あのね、お父さん。絶対に誰にも言っちゃいけないって言われたんだけど」

がさがさと何かが擦れる音が聞こえる。何かを出しているのだろうか。

「絵日記、書いてるの」

「絵日記?翔太が?」息子がいつの間に日記を書いていたことに、先ず感心した。

「うん、交換絵日記」

「友達とやってるのか?」

「ううん、お母さんと」

「お母さんと…?最近始めたのか?」

「ううん、僕が5歳の時から」

健司は唖然とした。今まで育児に加担せず翔太と向き合っていないと落胆していたが、洋子は自分の知らないところで我が子と心を通わせるために齷齪していたのだ。自分が不倫に走ったときのことを思うと、ひどく恥ずかしく感じられた。自分は少しでも翔太と向き合おうとしただろうか。妻の代わりに家事は回したものの、翔太はいつも一人で遊んでいた。翔太の心を豊かにした自信はなかった。

「…そうか。お母さんには内緒にしてって言われてたのか?」

「うん」

「父さんに言っちゃって大丈夫なのか?」

「…お父さんに見せたかったから。お母さんの絵」

「…絵を描いてくれたのか?お母さんが、お父さんの?」

そのとき、忘れかけていた記憶がふと蘇ってきた。洋子は似顔絵が得意で、職場の人や友人の似顔絵をよく描いて見せてきた。相手に媚びずよく特徴を捉えた彼女の似顔絵は、健司にとって楽しみでもあり癒しでもあった。翔太が生まれ生活に余裕がなくなった頃から、洋子の似顔絵を見なくなった。

「すごく似ているんだよ」ふふっと笑いながら翔太が言った。

「そうか。それはすごくみたいな」内心どんな絵か想像はついていた。尖った骨格と正気のない目、高い鼻の男が浮かんだ。これまで何度も、彼女が健司に嬉しそうに見せた絵だ。

「でも、電話じゃ見せられないよ」翔太が寂しそうに言った。

「そしたら、テレビ電話をしようか」

「テレビでんわ?」

「テレビみたいに画面を通してお話しできるんだよ。今度、お父さんとテレビ電話がしたいってお母さんにお願いしてくれないかな」

「うん、わかった」

その後もたわいの無い話をした。翔太と長く話をしたのは、これが初めてだ。ふと美穂の言葉を思い出した。同じ部屋にいた時よりも距離を置いたほうが親しくなるのなら、単身赴任はいい機会だったのかもしれない。



「じゃ、お風呂入ってくる。お父さんおやすみ」

翔太は立ち上がると画面端に消えて行った。

台所を片付けた洋子が画面前に大きく現れた。

「たまには栄養あるもの、食べなね」

「うん、ありがとう」


洋子とまともに会話をするようになったのは、単身赴任を初めて1ヶ月後、翔太が洋子に頼んでテレビ電話を始めた時からだ。

最初は気まずかったが、翔太が無邪気に騒いだため困ることはなかった。翔太がいなくなったすき、洋子は健司に頭を下げた。

「最近うちでも在宅勤務が始まって、翔太の面倒を見ながら家事を回す機会がでてきて。ごめんなさい、あなたに任せていた仕事がこんなに大変だとは思わなかったの…」

どうやら洋子は今の生活に悪戦苦闘しているらしかった。気にするな、と声をかけた。

「でも偶然あの子がテレビ電話したいって言ったからびっくりした。いつのまにそんなことまで覚えたなんて、子どもってわからない」

前夜に翔太と電話したことについては二人の秘密にした。言う必要はないと思った。

階段からどたどたと駆ける音がした。翔太は一枚の紙を持って健司と洋子の間に割って入った。

「見てみて、これ僕が描いたお父さんとお母さんと僕!」

そこには彼が精一杯描いた3人の絵があった。クレヨンや色鉛筆が使われており、時間をかけて描いたことが窺われた。

しかし健司は紙の白い部分に目をやり、あっと声を上げかけた。洋子も気づいたらしく、慌てて翔太から紙を取り上げて「上手にかけたね、しまっておきましょう」と言った。

健司は確信した。それは以前寝室で見たあの緑の紙だった。わずかにだが彼女が押印した赤い捺印も透けて見えた。あそこまで鮮やかに絵を描かれてしまったのかと思うと、面白くて笑みが溢れた。



「あなたの単身赴任から1年なんて、早いわね」

「ああ。自粛は夏までには終わりそうな気がしたけど、何度も波がきたからな」

結局、健司の単身赴任は無期限延長となり、新型ウイルスが落ち着くまでは当面東京で生活することとなった。2021年の5月は1年前と比べると落ち着いており、街中ではマスクをつけて外出するのは当たり前の世界となっていた。

ピザはすっかり冷めていたが、以前自宅で一人で食べていた食事よりも豊かに感じる。

「俺も、自粛をきっかけに絵でも描こうかな」

「あなたは無理よ」

「なんでだよ」

「絵心がない」

「ひどいな、結構自信あるのに」

「付き合ってた頃私の絵を描いたの覚えてる?ほんとに酷かった」

「ああ、確かに描いたことあったな」

少し黙ってから、健司は笑って言った。

「今度は3人で食べよう、ピザ」

洋子は健司と目を合わせ、うん、と頷いた。


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