森の中の青い薫り -樹海の奇譚-
緑深い森を歩きながら、僕は君に最初にかける言葉を考えている。
ねえ、僕は随分と長い間君を探したよ。
君が最後に僕に宛てて残した手紙はもうすっかり色あせて、紙もよれて折り目からところどころ裂けている。
ちょうど僕の心みたいにね。
もう遥か昔のことだけど、僕は人間が好きで里に暮らす人間たちの何気ない生活をそっと眺めるのが好きだった。
楽しそうで温かそうな人間たちと言葉を交わしてみたくて、仲良くなりたくて。僕が知恵をしぼって始めた茶屋は、なかなかうまくいかなかった。
人間たちにとって所詮僕らは怪物だったから。
恐ろしい外見に、心など持ち合わせない存在だと思われていたのだから。
人を騙して喰らうために手管を使っていると思われていたのだから。
でも、僕の気持ちに気づいた君は自分が悪者を演じて、
僕を正義のヒーローにすることで人間たちの輪に加えてくれた。
それから僕には人間の友達ができたけれど、入れ替わりに僕の前から君が姿を消してしまった。
心優しい君。
君は自分の心を押し込めて、僕と人間たちの友情を思ってひっそりと姿を消してしまった。
僕にたった一通の手紙を残して。
ねえ君、あの時君は僕が君を思って泣くとは思わなかったの?
一人ぼっちで君は消えてしまったけれど、僕の中にある君の場所がぽっかりあいた穴になったんだ。
でも、最近僕は人間たちのネットワークの中で君の存在を知った。
どれだけ驚いたことか。
人間もいろいろらしい。
同じ仲間なのに、ちょっと見た目が違うとかそういうことで仲間外れになったり、里で暮らせないほど辛い目に合うものもいるらしい。
「傷ついて、生きているのも辛くて、このまま死んでしまいたい」
そう思うほど追い詰められて死に場所を求める者もいる。
そんな思いを抱いて森に入った人間が、森の奥で君の店を見つけて、君と出会って君と話して、その後でもう一度自分たちの里に戻って来た。
そんな体験を書いてるブログを見つけたんだ。
店は山の中広がる樹海にあったって。
森の奥深くポツンと建っているログハウス風のカフェ。
名前は「Blue in Green」。
自家焙煎の薫り高いコーヒーは手作りのコーヒーカップで供される。香ばしい木の実を使った焼き菓子もある。
優しい声と眼差しで包んでくれる大柄なマスターは、好きなだけ居ていい、お代は要らないと言う。
でも、携帯は圏外。写真や動画の撮影はお断り。
気になるのは、まだこれまで二回以上店を訪れた人間がいないみたいだってこと。
訪れた人間は皆、君に感謝してる。
生きてて良かった、あの時死ぬことを選ばなくて良かったと。
マスターが居てくれたからだって。
「また店に行きたい。マスターと話したい、あのコーヒーをまた飲みたい」
けれど店を見つけられない、たどり着けないって書いてあるんだ。
電話もなくて、番地もない森の中の店の情報はウェブには見つけられない。
どうしてなのかな。
訪れる人は増えているみたいで、同じ経験をした人間同士はつながっていっているようだけれど。
もしかして君は、それぞれの人間に君のありったけの優しさを贈っておきながら、一期一会の風流を気取っているわけでもないだろう。
君の謙虚さと、いつでもそっと人の記憶から消えようとする臆病さが、そうさせているのじゃないのかい?
架空の生き物と呼ばれる僕らも、今ではもう君と僕の二人きりみたいだ。
僕は君を探しながら年をとって、それでも君を探すことをやめられないんだ。
ねえ、どうして君は一人で生きていけるの?
それは君の強さなの、それとも弱さなの?
どんなことをしても僕の記憶から君が居なくなることはないんだよ。
生い茂る木々の向こうに小さなログハウスが見えてる。
ほんのりとコーヒーの薫りがする。これが君色の薫りなんだね。
僕を見た君は呼んでくれるだろうか。
「赤くん」と。
それとも僕が君を呼ぶのが先かな。
カフェ「Blue in Green」の優しい青鬼のマスターを懐かしく「青くん」と。