風のタビビト - 1
『願い』をもたない人は居ない。
誰もが皆、心の中に欲望を持っている。
それは例えば、今日の晩御飯はハンバーグがいいなあ、とか。
どんな些細な事でも、本人が本気でそう思えば、それは立派な『願い』だ。
そしてそんな『願い』を積み重ねて、人は未来を生きていく。
――僕、光明風輝もその一人の筈だった。
願いのために、存在を賭す覚悟はあるか――
深い深い暗闇の中で、そう、誰かが語りかけてきた。
願いのために、存在を賭す覚悟はあるか――
一体何が言いたいのか、今の僕にはよく分からなかった。
暗闇に堕ちて、身体も、心も、何もかも溶けてなくなってしまうような感覚――。
そう、僕は死んだのだ。
凍てつくような風が肌を刺す冬の日、なんの前触れもなく、突然それはやってきた。
暗闇から現れたそれは、僕の胸に手をかざすと、そこには大きな穴が出来た。
血が出たわけではないが、心臓があったであろう部分にはぽっかりと円状に空いた穴があった。
それが死を意味したのは、かすかにまだ残っていた意識が識っていた。
次に意識を取り戻したときには、僕は深い深い闇の海の中で帆のない船のように漂っていた。
目の前には、闇の中で輝きを放つステンドグラス調の鏡が浮かんでいた。
その奥には、いくつもの幻想的な風景が広がっており、そこには先程僕の胸に風穴を開けた張本人――黒いコートに身を包んだ者が映っていた。
願いのために、存在を賭す覚悟はあるか――
朦朧とした意識の中、黒いコートの人物がそう問いかけてきた、ような気がした。
「これは、夢……?」
これが夢なのではない、お前が夢幻なのだ――
「意味が……わからない……」
――願いのために、存在を賭す覚悟はあるか。
我が名は探索者。
願いを叶えたくば、想像せよ。創造せよ。
それは願いをカタチにする力――すなわち、夢幻魔法。
また意識はどんどんと遠のいていく。それと同時に、何かが僕の中に入り込んでいくような感覚を覚える。
そして、次に気がついたときには――僕は、見知らぬ世界のど真ん中に寝転がされていた。
遥か遠くで響く、獣や鳥の鳴き声。
雄大に広がる森樹の海に、陸を割るように流れていく清らかな川。
鼻孔に広がる、どこか懐かしい自然の匂い。
そして、僕の顔を首を傾げ、不思議そうに覗き込む謎の少女。
「……だ、誰」
それがこの物語の始まりであり、僕、"光明 風輝"――カザキの旅の始まりでもあった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
最初の壁は、言葉の壁だった。
少女は話どころか言葉が通じる人間ではなかった。
異国の言葉のような、そうではないような、なんとも曖昧な聞いたことのない言葉。
「こんにちは」とか「ここはどこ」とか、色々喋ってみたものの、反応は「?」の連続だった。
その事実は、僕に遠い遠い異邦の地へ連れてこられたのだと認識させた。
少女はそうとも知らず不可思議な言語であれこれと質問をしてくる。
語尾が上がっているので質問をしてるのかなと思っただけだけど。
言葉の通じない状況に困りあぐねていると、少女は自らを指差して"ミュウ"と僕に告げる。
「ミュウ? それが、君の名前?」
そうだと言わんばかりに、もう一度彼女は「ミュウ!」と今度は大きな声で告げ、僕を指差す。
名乗れ、という事だろうか。
たしかに、お互いの名前が分かれば、それは大きな前進になるかもしれない。
僕は彼女に目線を合わせて、自分の胸に手を当てる。
その胸には、死んだ時に出来ていた大穴は空いていなかった。
自分の胸に奇妙な違和感を覚えながら、僕は少女に自分の名を告げる。
「僕は、カザキ」
「ボクハカザキ?」
首を横に振って、もう一度「カザキ」と答えると、彼女は「カザキ! カザキ!」と何度か復唱して、僕の周りを元気にはしゃぎ回る。
その姿は、まるで、太陽のような優しい輝きを錯覚させ、淀んでいた僕の心を少しだけ落ち着かせてくれる。
とりあえずホッと一息つこうとして、腰を下ろしかけたその時、彼女は僕の服の袖を引っ張りながら歩き出す。
意外と力持ちのようで、僕のひ弱な身体は有無を言わさず連行される。
寝転がっていた丘を下り、川に架かった木製の橋を渡り、少し歩いた先に集落のようなものが見えてくる。
見慣れぬ服装に、言葉の通じない僕を警戒してか、村民は誰一人として近寄ってくることはなかった。
手元には財布、使えないスマートフォン、愛読書の入った鞄――つまり、死んだ時に持っていたものしか持ち合わせていなかった。
スマートフォンはアプリはおろか電源さえ入らない。
絶望的な状況だった。
『異世界転生』――なんて綺麗なものじゃない。
2度目の死を、じわじわと、与え続けられているような感覚だった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
「ねえ、カザキ」
金の髪と赤いリボンを夜風に棚引かせ、少女が顔を覗かせる。
この少女の名前は"ミュウ"。僕がこの異世界に来てから一番最初にお世話になった子で、今は一緒に旅をしている。
傷を癒やす魔法を扱う"治癒術師"でもある彼女は、一人で旅をする気だった僕に半ば強引に着いてきた。
危険な旅だと何度も説明しても、彼女は引き下がることは無かったので仕方なく連れてきたんだけど……。
今では、大切な仲間の一人だ。
「ああ、ミュウ。どうしたの?」
「アレ、聞かせて」
そう言ってミュウは、僕の隣に座り込んで使い古されたノートを取り出す。
僕は旅の途中、こうして夜に考古学の復習をしつつ、ミュウに勉強を教えるのが日課になっていた。
このノートはミュウがこの旅の中で得た知識を記した、勉強用のノートだ。
僕がリーフェンにやってきたときに、偶然持っていたものを与えただけなのだけど、この世界で紙は貴重だ。
だからミュウは書いたものを消しては書き、消しては書きを繰り返して1年はこのノートを保たせている。
貴重なものを大切にする気持ちは分かるんだけど、僕には夢幻魔法がある。
ノートくらい作るのは簡単なんだけど、そう言っても彼女は頑なにノートを変えようとしなかった。
『カザキから貰ったものだから大切にしたい』と。
嬉しくないわけじゃない。嬉しくないわけじゃないんだけど、勉強を教える身としてはもっとこう使いやすいものを使ってほしいというか――。
「この世界の事は、ミュウの方が詳しいはずでしょ?」
「そんなコト、ない。カザキ、世界のことすごく勉強した。"物知りカルジ"より、世界知ってる。それに、もう言葉話せる。すごい」
考古学好きが功を奏したというかなんというか。
この世界、"リーフェン"はさっきも言った通り異世界だ。
僕が以前住んでいた世界――地球とはまったくと言っていい程、常識も環境も言葉も違う。
だからこの先、生きるために必要だと思って、転生してからしばらくしてこの世界の言葉から勉強しだした。
それが思いの外楽しすぎて、言葉をある程度勉強した後に"リーフェン"の歴史学や考古学に手を出したら、ミュウが暮らしていた村で一番の物知りと言われていた老人"カルジ"より世界のことに詳しくなってしまった、らしい。
と、そんなことはまあ置いておいて、だ。
「じゃあ、初歩的なところからおさらいしようか。――んんっ、あー、世界は5つの大陸に分かれている」
東の魔法文明によって発展が盛んな大陸、"イースタウッド大陸"。
西の荒野地帯が広がる大陸、"ウェイストウッド大陸"。
南の群島が繋がって出来ている大陸、"サウセウッド大陸"。
北の雪が一年中降り続く火山地帯が広がる大陸、"ノーサセス大陸"。
そして、『世界樹』の幹が全体の7割を占める大陸、"ブレインウッド大陸"。
「そして、その5つの大陸すべてに根を張り、恩恵を与えてくれているのが」
「『トイノチニマンナ』さま、だね」
「あー、うん。まあ、正解だね」
この世界では人は『トイノチニマンナ』という、5つの大陸全て――つまり星全体に根を張り、意思を持った生きた大樹から恩恵を享受し、暮らしている。
僕の世界の言葉に訳すのならば『世界樹』と呼ばれるものだ。
『世界樹』から与えられた様々な恩恵。その中でも、『魔法』は最大の恩恵と言っても過言じゃない。
リーフェンでは、この『魔法』と呼ばれるものが一般的に浸透している。
大昔、『時の魔法使い』と呼ばれる伝説上の魔法使いが、世界樹の苗木から散布されるエネルギー『マナ』を発見したことによって、人は『魔法』と呼ばれる力を行使する事ができるようになったと云われている。
「ミュウが使う"星療魔法"もその一つだね」
「うん、いっぱいカザキ、治療してきた」
「うっ……もしかして、この前の事まだ怒ってる? だ、だからあれは仕方がなかった事だろ? 割り込んでいかなきゃミュウが怪我をして」
「この前だけじゃない。ずっとそうだった」
「ああ、もう! それは置いておいて、次だよ次!」
魔法にもいろいろな種類があるが、大きく分けて3つのカテゴリがある。
まず最初に"星療魔法"。
星の化身である世界樹の『癒し』の力を術者の身に宿し、自分や他者に癒しを与える魔法だ。
肉体的な面だけじゃなく、精神的な面も治療ができる。その分扱いが難しく、星療術師はこの世界の人口約13億人の0.5割にも満たない。
だから、ミュウはそんな偉大な魔法を扱うことの出来る、希少な魔法使いということになる。
次に"星霊魔法"。
リーフェンに存在する超自然的存在である"星霊"と契約を結び、その力の一端を借りる魔法だ。
"星霊"には何かを生み出す力はないけど、宿ったものの力を増強させる力をもっている。
星霊には"属性"という概念があって、『火』『水』『風』『土』『光』『闇』『無』『素』の8属性に分かれている。
それぞれの属性は、"自然由来の存在"の基となっていて、星霊なくして世界の環境は整えられないと云われている。
最後に"星文魔法"。
人の言葉の力をマナによって具現化させる魔法だ。
形式化された呪文を唱えることによって、決められた形をとることが出来たり、エネルギーを発生させたりすることができる。
そして、この世界で一番悪用されやすい魔法でもある。
ある種の呪いでもあるこの魔法は、3つの魔法の中で唯一である"直接的に人を傷付ける事が出来る"魔法だ。
人の悪意を具現化させる事のできる呪文を唱えれば――。
争いの火種にもなりかねないこの魔法は、ある一定のランクの魔法使いでないと使用を禁じられている。
そして今現在、魔法は『星ファリス従樹教会』と呼ばれる組織によって管理されて、魔法を使った間違いが起きないように均衡が保たれている。
この『星ファリス従樹教会』には、各大陸の代表陣が参加していて、そのおかげで大陸間は互いに手を取り合い、世界の秩序は今も世界樹と全世界の人々によって守られている。
「というのが、今ミュウに教えてあげられる"リーフェン"の歴史。もっと昔の歴史もあるし、ちゃんと教えてあげたいんだけど……」
「えと、『シゲキ、強い』?」
「そう。残念だけど、歴史っていうのは良いことばかり記している訳じゃない。リーフェンにとって悪いことも勿論たくさんあった。中には嘘を書き込んでしまっているものもある」
「うん。でも、『全部積み重なったから、今がある』。でしょ?」
「覚えててくれてうれしいよ」
そう。例え過去にどんなに辛く悲しい過去があろうとも、そんな過去を経て未来がある。
現在を悔いなく生きるために、先人たちが遺した歴史がある。
昔を知ることは楽しい。でもそれ以上に、僕が考古学に惹かれるのは未来を守る術がそこにあると信じているから、なのかもしれない。
「そういえば、カザキ、使う。夢幻魔法? 分類は?」
「え、僕の魔法? 僕のは魔法っていうか――」
僕が扱う夢幻魔法は、多分星文魔法に分類されるもの、なのかな。
どこへ行っても異端魔法扱いされるから詳しくは分からないんだけど。
「カザキは、習った、違うの?」
「うん。僕の世界には魔法はなかったから。おとぎ話の中でしか出てこないものだったんだよ」
「でもカザキ、今使える。なんで?」
「ほんと、何でなんだろうね。僕に夢幻魔法を与えてくれた人は何も言ってくれなかったから」
僕にこの魔法を与えたのは、|"探索者"《シーカー》と名乗る人物だった。
そして、その人は僕をこの世界に転生させた張本人でもある。
「丁度いいや、ミュウにはこの話をしてなかったし……」
僕がこの世界に来た経緯を話し始めようとしたその時、草陰から大きな影が姿を現す。
悠に2mは越えるその影に、突然の事で咄嗟に身構える。
「ったく、いつまで起きてやがるおめーら」
――現れたのは、僕の仲間の一人。剣士の"イドニス"だった。