第2R『正義の拳』完
十三時ちょうど。協拳ジムに着いた。立派なビルのいくつかのフロアがジムになっている。一階のガラスの扉を開ける。
日曜日の今日は、ジムは休みらしい。練習生は誰もいない。奥にあるリングの上に動く影がひとつ見える。シャドーボクシングをしている。見とれるぐらい綺麗なフォームだ。
リングの横に立っている影がもうひとつ。きっとあこたんだろう。窓から差す光で逆光になり、二つは完全な影になっている。影でも絵になる。
「あっ」
あこたんが僕に気が付いた。その声でリングの上のシャドーボクシングが止まる。
「へー。ほんとに来たんだ。逃げるかと思ったんだけどな」
返事をした方がいいのか迷いながら、無言のままリングに近づく。二つの影があこたんとあこたんの彼氏だとはっきりと認識できる位置ではじめて声を出した。
「よ、よろしくお願いします」
頭を下げる。緊張と不安でいっぱい。強がって見せることすらできない。
「そこがロッカーだから着替えて来な」
「は、はい」
ロッカーで着替えてリングに向かった。どんどん緊張が大きくなり、自分が自分なのか、ここにいることが現実なのかあやふやな感覚に襲われた。
「よし。来たな。こっちは準備できてるから、そっちのタイミングでいつでもはじめていいぞ」
「は、はい。じゃあ、ちょっとだけ体温めます」
リングから離れた所にある鏡の前で、ストレッチをはじめた。
「あの、本当に勝負するんですか?」
いつの間にかあこたんが後ろにいた。
「は、はい」
「まだ、ボクシングはじめたばかりですよね?大丈夫なんですか?」
「大丈夫です。やります」
大丈夫かどうかなんて聞かないでおくれ。大丈夫なわけないけど、あこたんのためにやると決めたんだ。
「何かあったら、私がすぐ止めますから」
そう言って、小走りでリングサイドまで戻っていった。
ストレッチが終わって、鏡の前でファイティングポーズをとった。自分で言うのもなんだけど、お世辞にも強そうには見えない。下手なのがばれるのが嫌でそれ以上の動きはしなかった。覚悟を決めてリングに向かう。
「あ、あの。準備できました」
シャドーボクシングをしていたあこたんの彼氏は、こっちを見て頷き、青コーナーを指差した。僕は青コーナーからリングに上がった。あこたんがヘッドギアとグローブを持ってきてくれた。
ヘッドギアを受け取り勢いよくかぶった。首の辺りにある留め金をあこたんが留めてくれる。あこたんの顔が目の前にある。戦う前の緊張とあこたんが近くにいる緊張。間逆の感情に戸惑った。
「きつくない?」
「はい。大丈夫です」
あこたんはニコっと笑顔をつくると、グローブを手に取り、拳が入りやすいように広げてくれた。拳を奥まで入れる。マジックテープ式のグローブだった。あこたんがマジックテープをしっかりとつけた。逆の拳も同じようにグローブに手を通す。
「ハンデとして、そっちは八オンスのグローブ。オレは十二オンスのグローブにしておいたから」
オンスが重さなのは分かったけど、どれくらいの差があるかは分からなかった。それでもハンデくれたということだから、あこたんの彼氏のお礼を言った。
「アマチュアのジュニアと同じ二分三ラウンドな」
そういうとあこたんがタイマーの横にスタンバイした。
「準備はいいか?」
ここまで来ると不思議と落ち着いていた。
「はい!」
あこたんの彼氏はうなずき、あこたんはタイマーのスイッチを押した。
カーン。ジムにゴングが鳴り響く。タイマーの数字が1:59となりカウントダウンをはじめた。
「よろしくお願いします!」
青コーナーから大きな声で深々と頭を下げ、あいさつをする。
あこたんの彼氏は驚いた顔をしてリング中央で拳をこちらに向けている。挨拶は拳を合わせるみたい。ちょっと恥ずかしくて、何度も会釈しながら慌ててリングの中央に向かい拳を合わせた。
拳を合わせた瞬間、あこたんの彼氏はバックステップで距離を取った。同時に目つきが変わる。ボクサーの目。戦う男の目。獲物を狙う目。この目を何度か見たことある。でもあこたんの彼氏の目は少し違った。悪意が見えない。いままで僕にこの目を向けてきた人たちは、悪意の塊だった。一方的な悪意。獲物を見つけた目。でもあこたんの彼氏の目は違う。同じリングに立つ者として対等な敬意が感じられた。光栄だった。怖かったけど、リングに上がってよかった。心からそう思った。
次の瞬間、あこたんの彼氏が目の前にいた。熱い!突然顔が熱くなった。痛みが後からくる。どうやらパンチをもらったみたい。何がなんだか分からない。体の支えが利かない。尻もちをついた。慌てて立とうとするけど体がいうことを利かない。見上げるとあこたんの彼氏が見下ろしていた。心配そうな顔をしている。すでにボクサーの目ではない。またあの目。誰もが僕を見るときの見下した目。やっぱり無謀だったんだ。プロのボクサーと勝負しようなんて。
「佐々木君!立って!」
えっ?あの声?もしかして、彗星ジムのトレーナー平田さん?でもここにいるはずないよなぁ。
「牽制のジャブが当たっただけだから。ほらっ。立って」
リングサイドに立っているのは、やっぱり平田さんだった。
「平田さん!」
平田さんの顔を見て、一気に緊張がほぐれた。立てた。リングサイドに向かう。
「まだ、テンカウントにはなってないですよね?続けて大丈夫ですか?」
平田さんがあこたんの彼氏に向かって言う。
「ああ。いいですよ」
あっけにとられた表情をしている。平田さんの事も、来ることも知らなかったみたい。
「平田さん、どうしてここが?」
「生野さんから聞いてね。まさか本当に来てるとはね。絶対逃げると思った」
「えっー!」
「だって、ほら、これだけ実力差があったら、無理ってわかるでしょ。まぁ、そんなことはいいや。とにかく無謀にもリングに上がったからには、やれるだけやらないとね。一発クリーンヒット当てれば、勝ちなんだよね?」
無謀は余計だよ。分かってるわ。
「は、はい」
「じゃあ、まずはこのラウンドの残り一分ちょっとを耐えようか。ガードをしっかりしよう。左拳はこめかみにつけて、右拳は頬につける。脇を閉めて、ボディを打たれないように猫背になろう。その体制で、相手の足をみる。つま先の向きを見ながら、左に回って、相手の横につく。ついたらその場でワンツー。当たらなくていいからとにかくワンツーね。ワンツーを打ち終わったら相手のつま先がこっちを向いているはずだから、同じように左に回って、ワンツー。これの繰り返し。いいね」
足を見て、左に回ってワンツー。あこたんの彼氏の顔を見ないで済むならやれるかもしれない。あのボクサーの目を見ちゃうと萎縮してしまう。
「わかりました」
左に回って、ワンツー。頭の中で反復しながら頷いた。
「じゃあ、いこう!」
平田さんの声で、あこたんの彼氏があこたんに目で合図をした。
「ボックス!」
あこたんの掛け声がジムに響いた。同時にあこたんの彼氏の目がまたボクサーの目になった。
練習を思い出しながらしっかりとガードをあげた。猫背になるとあこたんの彼氏の足が見えた。この体制すごく楽だ。そうか。普段からいつも猫背だからだ。猫背になって足元を見ながら歩いていることをこんな時に再認識するとは。
あこたんの彼氏の足があっという間に近づいてきた。ガードにパンチが当たる。ガードがはじかれそうになるのをこらえながら左に回ってその場でワンツーを打った。
打ち終わった頃、あこたんの彼氏の足が目の前にあった。ガードにパンチが当たる。こらえながら左に回りワンツーを打つ。
今度はさっきよりも速くあこたんの彼氏の足があった。パンチも二発飛んできた。すぐに左に回りワンツーを打つ。
あこたんの彼氏の足は前よりもはやく目の前にある。今度は距離も近く、ボディに向けてパンチが飛んできた。より背中を丸めガードをがっちり固める。
左に回る。と、あこたんの彼氏と体がぶつかった。サイドステップで左に回ることを止められた。やばい。
ぐふっ。わき腹にパンチが当たる。ガードの横をつかれた。痛いというよりも苦しい。左に回ろうとしても、体が密着して動くことすらままならない。そのままもう一発わき腹にパンチをくらった。もうだめかも。
カーン。その時ゴングがなった。助かった。フラフラになりながら、なんとかコーナーに戻った。
「よーし。よく耐えた!」
ハァハァ。お腹が苦しいのと疲れで息が上がって返事もできない、頷くのがやっと。
「体力も限界みたいだし、次のラウンドで決めよう。必殺技を伝授する」
必殺技!?ボクシングにそんなのあるの?
「まずはさっきと同じ。足が近くに来たら、すぐに左に回る」
「で、でも。ハァハァ。」
言葉がでない。
「深呼吸して。疲れると呼吸が浅く速くなるから深呼吸するとだいぶ楽になるよ」
深呼吸する。ほんとだ。ちょっとだけ楽になったような気がする。
「で、さっきの続き。左に回ろうとすると最後のように道をふさぐように体を当ててくるはず。そこで同じようにガードをしっかり固めてれば、わき腹を狙ってボディを打ってくる。わき腹に一発もらったら、すぐに、」
「えっ?またもらうんですか?」
「だいぶ手加減してもらってるんだから、我慢、我慢。本気のボディブローもらったら一発で立てなくなるよ。長引けばどんどん本気出してくるけど、それでもいいの?」
「あれで手加減してるんですか?」
「当ったり前だよ。三割ぐらいじゃないかな。まぁ、でも逆にチャンスなんだよ。完全に舐められて油断してるから、そこを突こう」
手加減してるのかぁ。本気のボディブローもらったらどうなっちゃうんだろう。絶対もらいたくない。
「で、わき腹に一発もらったらすぐに、両手同時にパンチを出すんだ!ガードした手をまっすぐに突き出すイメージで」
「両手同時に?」
「名づけてダブルパンチだ」
びっくりするぐらい、ダサい。
「ボクサーは、両手でパンチしてくることは想定してない。さっきの動きを見て、打ってくるならワンツーと思ってる。舐めて手加減してるからガードも甘い。これしかないと思うんだけど。どう?いけそう?」
確かにいけるかもしれない。ダサいけど。
「わかりました」
「チャンスは一度きり。二度目はないよ」
「はい」
「ガードをしっかりして、さっきと同じ動きで誘うんだ。いいね」
頷いて、ガードを固めた。猫背になって相手のコーナーを見る。あこたんの彼氏の足が見える。軽いフットワーク。さすがボクサーだと改めて思った。こんな初心者の僕と戦ってくれていることに感謝の気持ちが湧き上がった。
休憩の残り時間を確認するためタイマーを見た。タイマーの数字が0:02、0:01とカウントダウンしていく。あこたんの不安そうな表情も見える。
0:00。カーン。
「よし!いってこい!」
平田さんが背中を軽く叩くように押し出し、リングの中央に向かった。あこたんの彼氏の足が少しずつ近づいてくる。一気に来ると思ったから、想定外だった。左に回りこめる距離に入った。左に回りこむように動く。ガードにパンチが当たる。
あれ?左に回りこめちゃった。失敗?仕方ない、ワンツーだ。ワンツーを打つ。次の瞬間、あこたんの彼氏の足が目の前に来た。すぐに左に回りこむように動く。と、あこたんの彼氏の体が当たり、左に回りこむのを塞がれた。
来た!この形だ。左のわき腹にあこたんの彼氏の右フックが当たる。苦しい。一瞬息が止まる。耐えろ、チャンスだ!
ガードを突き出すように、両手を伸ばした。ダブルパンチだ!
あこたんの彼氏の頭が左のパンチをかわすように動くのが見えた。やばい。よけられた?と、思ったその時、右拳が何かに当たった。
「ストップ!」
あこたんの声がジムに響いた。僕は両手を伸ばしたまま固まっている。ゆっくりとあこたんの彼氏を見た。信じられないという表情をしたあと、苦笑しながら首を横に振った。どうやら右拳があこたんの彼氏の顔にクリーンヒットしたようだ。
「約束通り、お前の勝ちだ」
「や、やった…」
力が抜け、その場に崩れ落ちた。わき腹がまだ痛む。痛いけど、誇りでもあった。プロのパンチを受けられたこと。受けても立っていられたこと。痛いのにうれしいなんてはじめてだ。
「あ、あのー、これで僕がストーカーじゃないと信用してくれますか?」
「わかったよ。まぁ、ストーカーがこんなに堂々と出来るわけないし、リングに上がって戦うこともしないだろうよ」
「あ、ありがとうございます。あと、あのー、DVもやめてもらえるんですよね」
「なんだよそれ!」
あこたんの彼氏は、呆れた顔をしながら、声を出して笑いはじめた。
「誰だよオレがDVをしてるって言ってるやつは?プロボクサーのオレが暴力振るったら、犯罪だぞ。ライセンスも剥奪されて試合なんてできないだろう」
「で、でも聞いちゃったので…」
「誰から聞いたか知らないけど、本人に聞いてみたらどうだ?」
ほ、本人に?直接?あこたんの方をそっと見てみた。
笑顔で首を横に振っている。
「な、なんだぁ」
「当たり前だろ」
そう言ってあこたんの彼氏とあこたんは見つめ合った。二人の表情は幸せに満ちていた。むきー。
「それにしても、まさか両手でパンチ打ってくるとは思わなかったよ。今度の試合で使おうかな」
「本当ですか!?」
「本当に!?」
僕と平田さんが同時に声を上げた。
「冗談だよ。絶対使わねぇ。あんなかっこ悪いの」
全員で声を出して笑った。
窓から町の喧騒が見える。多くの人が行き来している。歩いているみんなが幸せに満ちているように見えた。
第2R『正義の拳』完