第一章 10
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「貴方の術は失敗したようですよ?」
「まるで見えているかのように言うね」
テレサが立っていたのは闇の中だった。闇一色の中で上下左右という概念は存在せず、今私が立っていると認識していても、そこが地面という確証はなかった。そのような無限に続く果てしない闇の中に、テレサはいた。
私の目の前にいるのは、モンドラーネ姉妹と同じく褐色の肌をした少女です。外国からきた私には有色人種は皆同じ顔に見えてしまいますので、顔の特徴は掴めませんが、モンドラーネとは服装が違います。深紅のドレスコードに身を包み、しかしその裾は汚れています。足はヒールを履いているようですが、何かぎこちない。
全体を通して評するならば、『背伸びをしている子ども』です。
「君がどんな方法で、連れの動向を見ているかは知らないし、興味もない。知ったところで、ここからどうすることも出来ないんだから」
「へぇ……そうですか」
とりあえずモンドラーネが無事で何よりです。敵対中の方が妹さんの様ですが……大丈夫でしょう。彼女の顔を見れば分かります。何かを吹っ切っれたようですね。
「じゃあさ、こっちも始めようか」
いつの間にか、目の前の少女の手には何かが握られ、それを前に翳しています。おおよそ武器にはなりえない形状です。左右に皿の様な物が付いており、それが真ん中を支点に揺らめいて、まるで――――、
「――――貴方は……マアト。真理神マアトですね」
――――まるで、両天秤。左右の皿に物を載せることで相対的な重量を測る道具で、この道具が象徴する神は一柱しかいない。それが、真理神マアト。
彼(もしくは彼女)は、冥界に属する神で、死者の魂の裁定を行うとされています。実際には、マアトが死者の心臓と自ら身に着けているダチョウの羽とを天秤の左右に載せます。心臓には死者が生前に犯した罪過がこびりつき、載せられた羽、真実の羽と呼ばれるそれよりも重く、つり合いが取れなければアメミットという怪物に心臓を食われ、二度と蘇生出来ないそうです。
彼女が神葬として扱うそれは、どのような効果を孕んでいるのか定かではありませんが、この空間が彼女の術中であることは確実になりました。この闇しか存在しない場所は、冥界を模した空間なのでしょう。
「……初見でそれを見破っちゃいますか。まあ、関係ないです。この場に引きずり込んだ時点であたしの優位は揺るがない」
私は錫杖を取り出すと、臨戦態勢を整える。何を仕掛けてくるかが未知数。でしたら、先手を取るまでです。
錫杖を足元に突き刺すと、目の前に神聖文字が浮かび上がる。
「『我はイシス。原初の理にて命ず。万事の理をも呑み込み、混沌を浚い、有限にして無限の世のあまねくを、無の境地へと帰還せよ』」
紡いだ言葉は、マアトの代理人には通じなかったでしょう。訝しむ彼女に解説する義理はありません。どうせすぐに分かります。
ドォォォォォッッッッッンンンンン!!!!!!
虚空より現れたのは水。ですが、その規模が違います。北米のナイアガラの大瀑布を一所に集約し叩き付けるイメージです。
大瀑布に匹敵する毎秒数万トンもの莫大な水量が、何もない無の空間に佇む少女を蹂躙する。
この場所に強制移動させられたのは運が良かったです。私の全力では周囲の街並みや人間を巻き込むのは必至。何もないこの空間は非常に都合が良いです。
そして、膨大な水量が落ち着きを取り戻し、自然消滅する。この程度で命を落としているとは思えませんが、さてどうでしょう。
「――――全く馬鹿げた規模ですよね」
案の定、無傷。そもそも、その場から動いてすらいない。彼女はゆったりと佇みながら、悲しげな笑みを浮かべています。
「これだけの事が出来るのに、あたし達はそれを『こんな事』にしか使えない。醜いことこの上ないね」
どこか寂しそうに彼女はそう言った。
「一緒にしないでください。私は――――」
「――――私は偽善で人を救う『真似事』をしていました……って?」
声が……出ませんでした。彼女の言葉に、ではありません。その言葉を吐き出せる心境にです。彼女の言葉は私に向けられた皮肉などではないように思えます。彼女の声音が、表情が、態度がそれを示しています。
おそらく、彼女は私と同質の人間だったのでしょう。様々な人間に手を差し伸べられる立派な人間だったはずです。しかし、同質であっても、完全に同じではなかったでしょう。彼女が一般人だった時のことは知りませんが、そんな気がします。この短い代理人の期間で彼女に何があったのでしょうか。
「……どんなに偉大なことをしても、誰の目にも留まらない。……道端で苦しんでいる人に手を差し伸べても、その手には気づかれない。……車に轢かれそうな人を助けても、気にもされない。見返りが欲しくってやっている訳じゃない。ただ、救われた、という気持ちがそこにあって欲しかった。あたしに直接向けられなくても、たとえ神の奇跡だ、と言われても、そこに感謝の念があるのなら、それで良いと思っていた。なのに、誰一人として、それが当たり前のように過ごしていく。ちゃんと気づいてくれる人は、ことごとく代理人で、顔を突き合わせれば、問答無用で戦闘になる。……あたしは、そんな世界で生きることを望んでいない」
「貴方、名前は?」
「……マルキ・マルです」
「マルキさん、貴方は正しいことを言っていると思います。考えていることも正しいでしょう。どちらも、本当に気高く尊い思想……いや、理想です」
私は言い切りました。
「断言します。マルキさん、貴方の言っていることは理想である、と。絵に描いた餅で、決して届かない夢で、何より……子どもの絵空事なのです」
「そんなこと、分かってる!!!」
私は無言で頭を振った。そう、貴方は分かっていない。
「分かっているわよ、そんなこと。私が全ての欲を捨て去って……それこそ、聖人君子にでもなれば良いんでしょ!何も求めずに、ただ与えるだけの神様みたいな存在に!」
マルキさんは激昂し、両天秤から手を離すと宙に漂ったままのそれをそのままに、こちらに飛び込んできます。怒りの籠った直線的な連撃を錫杖でいなしながら、頭の隅で思考を回します。。
違う。彼女は絶対的なスタート地点を間違えている。百メートル走に参加するのに、千五百メートル走のスタートラインに立っているように。
私は、彼女の目標を理想である、と断じた。決して叶えられない、空虚な夢だと言った。そして彼女は激昂した。それが彼女の間違い。
「違います。貴方は何も分かっていない。貴方の目標を、私は確かに不可能だと言いました。しかし、だから何だと言うのです? 迷い苦しむ、大いに結構です。不可能に挑戦するのですからいくらでも壁は立ちはだかります。そんな壁に押し潰されるなら、貴方の夢は、夢で終わってしまいます。やりたいのなら最後まで――――他人に何と言われようとも、、たとえ目の前に神が立ち塞がろうとも、やり通す。そこまでやったなら、何かを成し遂げることが出来るはずです」
マルキの攻撃を受けながら告げると、錫杖を薙いでマルキさんを吹き飛ばします。
信じる者は救われる、とは良く言ったものです。自らを信じ切られるのなら、きっと最後には後悔以外の、決して悪くない感情が芽生えていることでしょう。しかし、彼女のそれは、必ず乗り越えなければならない壁。乗り越えて、その先にようやく救いが見えてくるのです。
だからこそ、彼女にはここで潰れて欲しくはない。私には訪れなかった、その壁をしっかり乗り越えて。




