02
家から少し歩いて、小さな石の橋の上についた。
アスファルトと橋のらんかんとの隙間にたんぽぽが食い込むように生えていた。先端はすでに白い綿毛を別世界に旅立たせ、ほとんどの軸の先は裸ん坊になって、つんつんと空を指して揺れていた。
わたしは箱を片方の脇に抱えるようにして、橋のすぐ脇、草の生い茂る土手を降りて行き、流れの激しい水面のすぐ真上にしゃがみこんだ。
それから、中を見ないようにしてそろそろと水平に箱を川面におろし、浮力が十分にあるだろう、と判った時点でぱっと手を離す。
はっと思いをひるがえした時にはすでに、茶色の段ボール箱はわたしの手から届かぬところに流されていた。不格好な船はゆらりと舳先を揺らしながら、のどかな晩春の川をしずかに下っていく。私は一歩川に踏み込んだ。思ったより深く、前のめりに倒れる。水は上は生温かく、底はびっくりするほど冷たかった。あわてて起き上がり、膝上くらいの水の中に立ち尽くす。そこから先はもっと深くなって、底には泥けむりが渦巻いていた。
何かの大きな黒い影が足下をかすめ、またどこかに見えなくなった。
どうして帰ったかは記憶にない。
多分、すごく濡れそぼって、手ぶらで、泣いてはいなかったけど母さんに問い詰められて
「川に流した」と言った瞬間、喉が焼けるように痛くなったことだけは覚えている。
ちょうど沢から帰ってきた弟も足が泥だらけで、「きょうだい揃ってアンタたちは」と叱られて何だろうかわたしは弟とは全然理由が違って世界の終わりを見てきたのに、って気持ちがガラガラと腹の底から巻き上がってきて、たまたま「どうしたの」って近寄ってきた弟を突き飛ばして転ばせてしまったのだった。
弟は手にしていたバケツをひっ繰り返してしまい、せっかく獲ってきたザリガニやドジョウやフナを地面にぶちまけた。弟は一瞬ぽかんとしていたが、急に火がついたように大声で泣き出した。
それでまた、わたしは母さんにこっぴどく叱られた。
わたしはその時、泣いたんだろうか。いくら思い出そうとしても思い出せない。
そしてもっと不思議なことに、あの時、子猫はいつから「にい、にい」と鳴いていなかったんだろうか、って。
箱が流れている間、子猫の頭すら全然見ていなかったし、声もしてなかったような気がする。
それどころか、橋についてタンポポの軸を見た時には、すでに音は全部消えていた。
もう一つ、これもすごく不思議なこと。
子猫がどんな毛並みでどんな模様だったか、色すらも、今では全然覚えていない。
この歳になって、まさか故郷に帰ってくるとは思わなかった。
当時は可愛らしい石の橋だったここも、今ではちゃんとコンクリート製のものに変わっていた。川幅は変わっていないのに、道幅が拡がったのと護岸工事が進んだせいで、当時の面影はあまりない。
それでも、ちょっとした隙間になぜか、同じようにタンポポの茎が伸びているのが見えた。
橋にもたれかかり、川下の景色を眺める。耳を澄ませても、川のせせらぎと小鳥の声くらいしか聞こえてこない。
実家はとうに、無くなっていた。土地も更地に戻り、今度拡張される県道の一部になるらしい。
今回は、土地を処分する手続きのために一旦ここを訪れただけだった。
家族の墓参りをしてからつき合いのあった御近所何軒かに挨拶に伺い、見おさめにと思って、この橋を訪ねてみた。橋のこの場所に立つまで、ずっと子猫を拾った時の事はすっかり忘れていたのだが、何故か急に、その事を思い出したのだった。
あの時も、多分こうしてしばらくは川下を眺めてここに寄りかかっていたのだろうな、何となくそう感じながら、もう一つだけ、母さんのことばを思い出していた。
多分、それから間もなく何かの折に子猫の話が出たのだろう、わたしはめずらしく母さんに反論していた。
「川に流せ、って言ったよねあの時」しかし、彼女にこう返された。
「私は、置いて来いって言ったけど、流せなんて言ってなかったよ。まさか流しちゃうとはね」
水にまで浸かってさ、と母さんは確か、軽く笑ったように思う。
それから2年くらいして、母さんは病気で亡くなった。
もちろん死んだ時には泣いた。でもどこか、醒めた気持ちは否めなかった。
多分、完全には許していなかったのだ。
今でも、許していないのだろうか。
何が許せないのか、今になって思うとよく解らない。わたしも気づいたら人の親になっている。母さんは特別、わたしに対して酷い事をしたり言ったりしていたわけではない。わたしがもし当時に戻って同じようにあの場で母親をやることになったら、ちょっとおぼつかない足取りの娘のことを心配して、忙しい仕事の合間でも色々と口を出してしまうだろう。それに母さん、本当に「流して来い」とは言ってなかったのかも知れない。それすらもう確かめるすべがないのだが。
ただ、傷ついた、という棘の先が残ったような痛みがずっと心の隅から消えないだけだ。
そんな過去の想いを共有できるかも知れない家族も既に、ここには誰も残っていない。
娘は当時のわたしと同じ9歳、今も姿は見えないが、無心に土手の花を摘んで歩いているようだ。いま私たちが住んでいるのは遠く離れた外国の町。このような、わたしには慣れ親しんだ景色も、何もかもが珍しく眩しく輝いて見えるらしい。
「ママ」
片手の指が結べないくらいたくさんの花を掴んで、ヤンナが土手から上がってきた。くすくす笑いながら、軽く握りしめていた、花を持っていない方の手を拡げて見せる。
「ねえ、これきれいだと思わない?」
先は尖っていなかったが、ガラス瓶の割れた欠片が深い緑色に輝いていた。
「危ないよ、手を切るかも」取り上げようとしたが、手を引っこめようとしたのでかえってケガをしてはいけないと思い、
「取らないから、見せて」と言うとまたしぶしぶ手を拡げた。
「持って帰ってもいいでしょ」
私が黙って手を出すと、ヤンナはしぶしぶその欠片を私の手に乗せた。
「すごくきれいなのに」
「ダメとは言ってないよ」私の返事に、ヤンナはぱっと顔をあげる。
「いいの?」
「ママが預かっておくから。帰ったらパパにケースを一つ貰いましょう、飾っておけるように」
ヤンナは嬉しそうににっこりしてから、今度はしっかり握った花を前に出した。
「これは持って帰れないの? おうちには」
「そうだね、持っては帰れないね」
「こんなにキレイなのに?」
「本当、綺麗だね。でも持っては帰れない、残念だけど」
「一つだけ押し花にしていい?」
「いいよ」
ヤンナは、ありふれたピンクの花を一つだけ慎重に選び、残りはぱあっと掌を青空に向けて、橋から川に向けてまき散らした。
白や黄色、紫の可憐な花ばなが清らかな流れの中に散り落ちて、先をあらそうように川下へと流れてゆく。
その時、わたしはこう思うことにした。
わたしの流してしまった子猫は、もう戻らない。でも
戻らないということだけは私はしっかりと、心に刻んだのだ、と。
「ママ」
ヤンナがわたしを見上げた。
「何を見てたの」
「いえ、別に何も」
ヤンナが暖かい手で、ぎゅっと私の手を掴んだ。
「ママ、おうちに帰ろう」
流したはずだった思い出をひとつ拾い上げて、私たちは帰っていった。
ふたりで手をつないで、はるか遠くにある暖かいおうちへ。
了