01
一人きりで家に帰ることになったのは、担任のニシガミ先生の話が長かったからだ。
いつもなら仲良しのじゅんちゃんと一緒なのに。
だから、あれは小学校3年の時だったと思う。
早く帰りたくて、少し近道をした。通ってはいけないと言われている、シゲタさんち裏の細い抜け道を辿って、破れたフェンスのすき間から隣のつぶれた工場の敷地に少し入り、駐車場を横切る。
コンクリートにひびが入り、枯れかかった草がはみ出している。
所どころ割れたガラスの破片が光っていて、本当は宝石みたいなので拾いたいのだけれども、我慢して通り抜ける。母さんに怒られるから。すぐゴミを拾ってくる、って。
もう少しで次の穴から敷地を出る、というフェンスの境あたりで、かすかな声を聞いた。
にい、にい。
少し静かになってからまた、にい、にい、にい。
覗きに行ってはいけません、心の中ではっきりした口調がわたしにそう命令する。
見に行かなくちゃ、もっとワクワクするような舌っ足らずな早口の声がそうわめく。
どちらに従えばいいのか、きょろきょろした覚えはあるのでたぶん迷ってはいたのだろう。それでも9歳かそこらの子どもが、そんな冒険を避けて通ることなんてあるんだろうか?
最後の数歩で駆け寄っていた。
工場の外壁のすぐ脇に、段ボール箱がひとつ。
ちょうどわたしくらいの子どもが両手で抱えられるくらいの大きさ。中には古くなった白い下着が丸めて入れてあり、まん中に子猫がいた。
目はようやく開いたかのように、端がまだくっついていて、大きく開けた口にはまだ歯がない。ふわふわした感じではなかった、多分。それに壊れそうなほど小さかった。
なのにとても大きな声で泣いていた。
自分の中では百万通りにも渡る言い訳を考えながら、とぼとぼと家路につく。
胸にはもちろん、段ボール箱を抱えて。
子猫は思い出したように伸びあがって鳴き、わたしはその都度立ち止まっては箱を抱え直し空いた手でその頭を撫でて黙らせてやった。
母さんは廊下に据えてあるミシンの前に座っていた。掃き出し窓は全部開け放してあり、彼女のこちらを向いて座っているのが外からも丸まる見えた。
近所の人たちに頼まれて洋服を縫ったり繕い物をひきうけたりしていたので、母さんは家にいることが多かった。
その日も、かなりのスピードでミシンの間から白い布が前へ前へと繰り出されていた。黒い機械から全速力で走っているような音が響いてくる。
「おかえり」
そう言った母さんは顔を上げなかったので、いっときほっとする。だがすぐに
「おかえり」今度は返事を待つかのように、手をとめてこちらを見た。
急に静かになった。
「何? その箱は」
ずっと考えていた言い訳はすべて頭から滑り落ちていた。
わたしは目線をどこに合わせようか家の玄関を見る。木戸の下側は昨年の大雨で浸水したせいで白く粉をふいたように膨らんで歪んでいた。わたしは明け放たれた廊下が三角形に陽のあたるのを見て、それからまた玄関脇で斜めにかかっているくすんだ赤色の郵便受けを見て、それから箱に目を落とした。
母さんの顔を見られなかった。
わたしが答える前に、猫が鳴いた。「にい、にい」
母さんが静かに言った。
「どこで拾ったの」
「工場のはしっこ」中に入ったと言えば、きっと叱られるだろう。
「工場の中じゃないの」
「ちがうよ、フェンスの外」
「ふうん」
見せてごらん、と廊下のすぐ外、洗濯ものを出し入れするために用意したサンダルを突っかけて、母さんが庭に下りてきた。
「なにこれ」
まず反応したのが、敷いてある下着だった。
「汚い……」その時気づいたが、かすかに血で汚れていた。なぜ血がつくのか、当時の自分が判るわけがなかったが、何だか急に、嫌なものを持って帰ってきたという気に囚われ、指から力が抜けそうになった。
わたしは下を向いたまま箱を抱え直す。
「一匹なの」
「そう」
母さんはたいして興味もないように、それでも人差し指で子猫の頭をそっと撫でた。
子猫は少しくすぐったそうにあごの下を伸ばし、目を細くした。その人指し指に身をゆだねるかのように頭を少し上げた。
そうか、母さんも猫が好きだった。わたしは溜めていた息を少しだけ吐き出す。
「飼ってもいいでしょう? お母さん」
母さんはすぐに答えず、腰を伸ばして庭の向うを伺うようにうん、と伸びをした。
「ねえ」
「うちは小鳥がいるから無理」
やっぱりそうだ。少しでも期待してしまった自分が情けなくてまた箱に目を落とす。よく見ると箱もほこりだらけで汚かった。
小鳥がいるから……いつも聞かされる理由だった。お父さんが大事にしている小鳥たち、全然懐かず可愛くない。小さなかごに閉じ込められてずっと右へ左へ行ったり来たり、たまに見ていないときにエサを突いたり水を呑んだりするだけの生き物。そんなものを飼って何が楽しいんだろう、弟はじっくり見つめていることがあるけど、あんなのは野山で自由に飛び回っている方がどんなに可愛いか。
猫の方がもっと可愛いに決まってる。呼べば来るし、抱っこしてやればゴロゴロ喉を鳴らすし、もっと慣れれば一緒に布団に入って寝てくれるかもしれない。弟だって動物は好きなのだから猫のよさを言って聞かせればきっと味方してくれるだろう。
そう言えば、弟はどこにいったのだろう? キョロキョロしてみたけど、肝心な時にいない。お気に入りの長靴がないので、きっとまた友達と近くの田んぼか沢に遊びに行ったのだろう。
きょろきょろしているわたしを置いて、母さんはまた廊下に上がって、ミシンの前に座ってしまった。
「置いてきな」
簡単にそう言ってから、またミシンのはずみ車に手をかけ、勢いをつけて手前にひねった。機関銃のような連続音が開け放した廊下いっぱいに響く。ガラス戸がビリビリと鳴った。足にもはずみをつけてリズミカルに布を送り出す。
「置いてくるって?」
「元あった場所に」
「だって中に入りたくないもん」
「やっぱり工場の中に入ったんだ」母さんがまた顔を上げる。明らかに目が怒っている。
「じゅんちゃんも一緒に入ったの?」
「今日は一人だった、帰りの会でニシガミ先生の話が長くてさ……」
「アンタたちが言う事聞かないからでしょ」余計なところにまで文句を言われる。
母さんはまた手と足を動かした。ダダダダダ、ミシンは小刻みに周りの風景を揺らす。
「とにかく、置いてきな」
「どこに」
「どこでも」
「欲しい人いるかもよ」
「今どき、猫なんて欲しい人はいないよ」
母の断定的な言い方は、いつものことだ。いつもそれを聞かされるたびに、ああ、そうだよな、って思い知る。
この世には、鳴いてばかりで汚い布に包まれて毛も濡れたように固まったりして目もちゃんと開いてなくて可愛いとは言い切れないような子猫なんて、欲しがる人はいないのだ。
「裏の川に流してくるしかないでしょ」
ミシンの止まる寸前に、簡単にそんなことを言って彼女はミシンの下から布をひっぱり、小鋏でちっ、と糸の元を切った。
「どっちにしても、うちでは飼えないからね」
父にも相談してくれないのだ、そう悟った。元もと全然、言うつもりはないのだろう。
わたしはとぼとぼと、箱を抱えて家に背を向け、また歩き出した。




