色違いがふたつ
僕に魔法が使えるようになったのは、いつごろのことだろう。
正確に言うのなら、これが魔法なのか、奇跡なのか、魔術なのか、呪いなのか、僕にはわからない。この力をどのように名前をつけて呼ぶべきなのか、正直決めあぐねている。それは、この力のことを僕が誰からも教わっていないからかもしれない。ただひとつ言えることは、僕の中にこの力が存在しているということ。
*****
「早くしなさいよ。」と、僕は彼女に攻め立てられる、
「財布忘れてたから、取りに戻ってたんだよ。」
「ほんとどんくさいよね、あなたって。」
彼女は玄関のドアを足で押さえながら、なおも僕を罵倒した。
「それにしても、今日晴れてよかったね。」
靴を履きながら、僕が話題をそらす。
今日は久しぶりのデートだ。僕が通っている大学のスケジュールが立て込んでおり、なかなか時間が取れなかったのだ。
「ほんと!よかったー!」
彼女が背伸びをしながら、空を見上げている。今日は隣の県にある遊園地に行く予定なのだ。雨が降ってしまったら、予定を変更せざるを得ないところだった。
靴を履き終え、玄関を閉める。
「鍵、ちゃんと閉めた?」
アパートの階段を下りながら、彼女は言った。
「もちろん!きちんと確認もしたよ。」
「えーほんとかなー」と意地悪く、しかし楽しそうに笑う彼女に、「ほんとだって!」と少しむきになって返す。
「だって、あなたどんくさいじゃない。」
「そんなことない。なんだったら、確認してくれば?」
尚もニヤニヤと笑う彼女に対して、僕はそう提案した。
しかし彼女は「ううん。確認しない、」と言って、階段の最後の2段を一気に飛び降り、こちらを振り向きもせずこういった。
「私、あなたのこと信用してるから。」
今日の彼女は、大層機嫌がいいようだ。
*****
勇者という言葉がある。賢者という言葉がある。大体、魔法とか奇跡とかが使えるのはそんな風な、常人と一線を画した、選ばれた人間だ。しかしこれは、漫画や映画の世界でしか当てはまらないことだということを僕は知っている。現に僕は、勇者でも聖人でも天才でも、もっと言えば秀才でもない。ただの凡人、いや、もしくはそれ以下だ。今までの人生で、取り立てて目立ったこともないし、運が悪いときにはいじめの対象になったりしたような、そんな人間だ。
できるだけ自分を客観的に説明してみようと努力するなら、僕のという人間は以下のように説明できる。 積極性がない。友好関係を築くのが下手。時折挙動不審。無口。運動は中の下。容姿も中の下。 でも、魔法が使える。いいことなのか悪いことなのかわからないが、僕の人生の中に守るべきお姫様も倒すべき魔物も存在しない。「今のところ」という言葉を付け足すべきなのだろうが、その言葉をつける必要がないことを、確信に似た直感で、悟ってしまっている。必要に迫られない力など、正直何の意味もない。
*****
遊園地につくと、入園口に長蛇の列ができていた。土曜日ということもあってか、僕らのようなカップルに加え、高校生らしき若者グループ、家族連れと、さまざまな団体が列に並んでいる。
「えー!?こんなに並ぶのー!?」
彼女が早速、眉間にしわを寄せ口を尖らせている。
「仕方ないよ。でもまあ、みんな入場券を買うだけだし、すぐに順番がくるんじゃない?」
「そうかなー…」
「そうだよ。」
「じゃあ、あなたちょっと前まで行って、係りの人にどれくらい時間かかるか聞いてきてよ。」
「えー?」
黙って待っていても、そんなに時間はかからないと思うんだけど。
しかし、彼女の言うことであれば仕方がない。なんたって彼女は、僕にはじめてできた大切な彼女なのだから。
彼女には十分魅力があるが、もし今後彼女がどのような欠点を晒したとしても、僕のことを好きでいてくれるという点に揺るぎがなければ、僕は彼女のどんな欠点も許容できるし、包み込みたいと思う。僕のような人間を愛してくれる。その事実だけで僕は胸が苦しくてたまらなくなるし、右腕でも左足でも肺でも心臓でも、彼女のために差し出したって構わないとさえ思うのだ。
歩いて入園口のほうへ向かうと、後ろから「はっしれー!」と彼女の楽しそうな声が聞こえたので、仕方なく小走になる。
入園口で忙しそうにしている係りの人の中でも、できるだけ暇そうな人を探し声をかけた。
「あの四つ目の電柱のあたりに並んでるんですけど、後どれくらいで入場できますかね?」
「そうですね。あちらでしたら、15分程度でご案内できるかと思います。」
忙しいだろうに、係りの人は「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。」と深々と頭まで下げてくれた。
やはり、そう時間はかからないようだ。
「忙しいところすみません。ありがとうございました。」
僕は係りの人にお礼を言った後、また小走りで彼女の元へ戻った。
「どうだった?」
「あと15分位だってさ。」
「そっか。走って疲れたでしょ?」
彼女はバックの中から水筒を取り出し、僕に差し出してくれた。
「ありがとう」といいながら、お茶を飲む。
「おつかれさまー」
お茶を飲んでいる僕の頭をなでながら、彼女はそう言って僕をねぎらってくれた。
自然にほほが緩む。彼女は僕の締りのない表情に気がついたのか、「ニヤニヤすんなっ!」と言って僕のわき腹を小突いた。
彼女の不意打ちに僕は飲んでるお茶をぶっと噴出してしまったが、それを見て彼女が楽しそうに、本当に楽しそうにけたけたと笑うので、僕はお茶のことなどどうでもいいと思った。
*****
僕が今まで魔法を使ってやってきたこと。それをいくつか挙げる。
・小学生のころ、僕を噛んだ犬(年齢性別不明 ノラ)へのおしおき
下校中、小型犬に右足を噛まれる。おしおきとして、その犬の前足と後ろ足を魔法で入れ替える。
・中学生のころの担任(中山秀雄 44歳)への仕返し
宿題を提出したにもかかわらず担任がそれを紛失。未提出だということにされてしまい、罵倒される。その腹いせに、彼の飼っていたインコを、魔法で蛇に変える。蛇は籠から脱走。
・高校生のころの同級生(佐々木裕 17歳)にいじめられたことに対する仕返し
理由はわからないがいじめられる。その仕返しとして、彼の左右の足を魔法でくっつける。
これだけ列挙すると、僕という人間を極悪で非道で無慈悲で小さい人間だと思うだろう。加えて、野良犬や中山秀雄氏(の飼っていたインコ)や佐々木裕氏のその後の生涯を憂う人も少なくないだろう。でも、心配は要らない。僕の魔法は期限付きなのだ。短くて1時間、長くて1習慣。効果が切れると元に戻ってしまう。結果、僕の魔法は所詮いたずら程度にしか使えない、せこくて陰険な魔法なのだ。正直、魔王や魔物に攻めてこられても、困ってしまう。
*****
「ほんと、信じられない!信じられない!」
曇天から雨天に変わるのに、そんなに時間はかからなかった。お昼過ぎの現在の時点で、雨は土砂降り。夏のセミよりもけたたましく、屋根や地面を打つ雨音がそこら中を覆っている。
楽しみにしていた遊園地デートだったが結局乗れたアトラクションは当初の目的の半分にも満たない。それに加えて、僕らはびしょ濡れ。
彼女が、動物のようにぶるぶると体を震わせ水気を飛ばそうとする。長い髪の毛がバサバサとゆれる。
「あー気持ち悪い!なんでこんなことになるの!?」
本当に、そう思う。何でこんなことになったのだろう。天気予報でもこんな雨のことは言っていなかった。せっかくのデートなのに。
彼女は、不機嫌そうに腕を組み、険しい顔で押し黙っている。
一向に終わりの見えない雨音だけが、僕らの間に流れる。
にわか雨だったら、早く止んでくれ。お願いだから、僕らの邪魔をしないでくれ。真剣にそう願った。
「帰る。」
しばらくの沈黙の後、彼女は小さくそういった。
「え?もう少し待とうよ。止むかも知れないし。」
「帰る。」
引き止める僕の言葉に、彼女は耳を貸すつもりはないらしい。
でも、僕もここは折れたくなかった。せっかくのデート。しかも、さっきまではとびきりに楽しかったデート。それを、こんなところで終わらせたくなかった。悪い形で、終わらせたくなかった。
「じゃ、じゃあ!あっちの雨でも乗れるアトラクションに行こうよ!それだけでも乗って帰ろう?」
そういいながら彼女の方を掴んだ僕を、彼女はキッと睨み付けた。
「触らないで!」
その剣幕に僕は思わず手を引っ込め、「う…うん…」と小さく返事をするので精一杯だった。
*****
自分には何ができるのか。僕はこの質問に正確に答えることができない。この魔法は気が付いたら身についていたもので、最初にも述べたとおり、僕はこの力に関して誰からも教えを受けたことがない。何をするにしても手探りで、かすかにある不確かな自信も経験則によるものだ。 自分の力の上限も下限も、加減の仕方も言ってしまえば「適当」なのだ。
全ての物事において経験則に導かれていない物は何一つない、と言っても過言ではないのだろう。化学だろうと物理だろうと、言語だろうと文化だろうと、その点は同じだ。しかしながら、それらの物事に比べて、僕のこの魔法はその経験の蓄積があまりにも浅い。ゆえに不確か。僕のこの魔法に関する認識は、生まれてこのかた「なんとなく」の域を出たことがない。
そういうこともあり、僕はできる限りこの魔法を使わないようにしてきた。何が起こるかわからない。どんな予想外、想定外が起こるかわからない。だから、怖いのだ。
日に日に募る思いは、その「恐怖」と、慣れることによる「過信」だ。相反する気持ちが徐々に積み重なることで、僕の心のバランスは徐々に壊れていったのかもしれない。
*****
家につくまで、僕らは一言も会話をしなかった。
一方的に僕が話しかけても、彼女は一切返事をしない。次第に僕も話しかけなくなる。楽しいはず、楽しかったはずのデートの結末は、こんな最悪の形だった。
鍵を開け、部屋に入る。依然無言の彼女は、そのままバスルームへと向かう。僕はタオルを取り、体をふく。シャワーを浴びている間に、彼女の機嫌がなおればいいなと思った。
ふと外を見る。雨はもう止んでいた。遊園地は隣の県なので、そこでまだ雨が降っているかどうかはわからないが、正直今はそんなことどうでもいい。彼女が元気になること。彼女が笑顔になること。せっかくの休み、残りの時間をどんなふうに楽しく過ごすか。僕の頭の中はそれで一杯だった。
体をふき終え、部屋着に着替えた後、何気なくキッチンに向かう。流し台に、朝食の洗い物が残っている。お茶碗が二つ。お皿が二つ。お椀が二つ。マグカップが二つ。全てオレンジと水色の色違いだ。
ふと、昼食を食べていないことを思い出した。あんなことがあって、すっかりと忘れていた。もう時間は4時を回っている。彼女も、さぞおなかが空いているだろう。
冷蔵庫を開け、中身を確認する。ハムエッグなら作れそうだ。今から作ればちょうど彼女がお風呂から上がってくるころに出来上がるだろう。食パンをトースターに入れダイアルを回し時間を合わせる。フライパンを熱し、卵とハムを落とす。ジュウジュウという美味しそうな音と香ばしい匂いがする。ちょうど卵とハムが焼けたころ、トースターの焼き上がりを知らせるベルが鳴り、それとほぼ同時に、バスルームのドアが閉まる音がした。時間ぴったりだ。
盛り付けを済ませ、両手にお皿を持ちテーブルに並べようとしている時、彼女が髪をふきながら部屋に入ってきた。
「あ!ごはんできてるよ!」
努めてなんでもない風に、彼女に声をかける。あのデートは無かったんだ。雨にも降られることはなかったんだ。そう思わせるように、努めて明るく。
しかし、彼女の表情は違った。
眉間にしわを寄せ、歯を食いしばる。づかづかと足音を立てながら僕との距離を縮め、止まる。右手を思い切り横に振りぬく。僕の両手に乗った皿は宙に舞い、床に落ちた。皿が割れる音。半熟卵の黄身が床を汚す。
一体、何が起こったのか。わからなかった。
彼女は依然険しい表情で、僕を見つめる。恨めしそうに。憎らしそうに。
頭の中が、真っ白だ。
「と…とにかく片付けないと…」
気が動転して、物事の順序がうまくつけられない。僕はその場にしゃがみ、割れた皿の破片を拾い集める。
「………してるんでしょ」
彼女が何か言った。僕は彼女の顔を見上げる。
「馬鹿にしてるんでしょ!私のこと!雨ぐらいで拗ねて、帰って!我がままな女だと思ってるんでしょ!言いたきゃ言えよ!」
「そんなことないよ。」
「へらへら笑って、私の機嫌とって!馬鹿なんじゃないの!?むかつくんだよ!そういうの!」
大声で叫ぶ彼女。表情は、さっきよりも険しい。
「ごめん、わかったから。とりあえず落ち着こう?」
そういって彼女の手を取る。しかし「うるさい!」と、それはすぐにふり払われてしまった。
「何様のつもり!?いつも冷静ぶって!ほんとは小心者のクセに!自分じゃ何もできないくせに!それがかっこいいと思ってんの!?バカみたい!あんたみたいなやつ好きになる奴なんていないのよ!あたしだってそうよ!」
”同情で付き合ってあげてるだけなんだから!”
真っ白になる。
手には、ひりひりとした感覚。
目の前には、右ほほを赤くはらし、茫然とする彼女。
何か言わなければと思ったが。
声が出ない。
体も動かない。
彼女の顔が、みるみる崩れていく。
彼女のほほは涙に濡れ、今までに見たこともない、悲しげな、申し訳ないような表情。
彼女はゆっくり後ろを向く。そのまま、とぼとぼと歩いて家を出て行った。
追いかけなければ。そう思ったが、足が動かない。
呼び止めなければ。そう思ったが、口が開かない。
結局、彼女が出て行ったドアを見つめながら、僕はしばらくそのまま動くことができなかった。
どれくらいの時間が経っただろう。
足の裏が痛む。床を見ると、血が一面に広がっていた。皿の破片を踏んだのだのだろう。足の裏を見てみると、案の定陶器の破片が刺さっていた。それを抜き、流し台に落とす。カランという無機質な音。
天井を見る。先ほどの事を思い出す。自分のしてしまったこと。犯してしまった罪。どうすれば許されるのだろう。どんな罰を受ければ、この罪は許されるのだろう。
その時、カランという音が聞こえた。今度は、流し台からではない。玄関の方だ。
急いで玄関に向かう。郵便受けに何か入っている。白い封筒に、僕の名前。彼女の文字だ。
今なら、まだそんなに遠くに行っていないはずだ。急いでドアを開ける。
晴れた空の、夕焼けがまぶしい。
僕が思っていたよりも、彼女は、思いのほか近くにいた。
ドアを開けた、すぐそこ。
地面に、ちょこんと座っていた。彼女本来の姿で。
彼女は、にゃあと、鳴いた。
*****
僕に恋人を作る能力が欠けているということは、確定的に明らかで、僕にとっては不変のものと言えるのではないのかというぐらい無慈悲に、僕の眼前に横たわっている。どこで何を間違えているのかわからないし、自分としても恋人を作りたいのだが、うまくいかない。決して、「女なんて面倒だから必要ない」といった硬派を気取るつもりも、気取ったこともない。恋人というのは僕が欲してやまない物のうちの一つなのだ。
何かを強く欲しがるとき、それは文字の通り強欲と言われるが、その強欲は、手の届かない物にこそ向けられる。手が届かないからこそ、強く欲し、あえぐ。その果てには、時に手段さえ選ばない。だからこそ、強欲は大罪の一つに数えられるのだろう。
僕の強欲の対象は、恋人だった。決して、「女」ではない。「色欲」ではない。恋人。友達よりも近く、血がつながっていないにもかかわらず愛情を抱く。そんな人間を欲した。強欲した。
その結果、僕は手段を選ばなかった。
求める方法としては最低だということをわかっていたが、僕はこの方法を選んだ。
「恐怖」と「過信」という釣り合った天秤の「過信」の方に、「強欲」が乗った。ゆえに、天秤は傾いた。
彼女は人間になり、自然に僕と恋仲になった。僕の、特別な人になった。
そして、彼女にはもう一つ特別な点があった。
彼女の魔法は、1週間を過ぎても、2週間を過ぎても、1か月を過ぎても、解けることはなかったのだ。
こんなこと、今まではなかった。
*****
彼女は僕と初めてであった頃よりきれいな毛並みをしていた。それを見て、ああさっき、彼女は風呂に入ったばっかりだったのだということを思い出した。
僕の横を通り抜け、彼女は平然と部屋の中に入る。僕を気にするそぶりは全くない。
彼女が一直線に向かった先は、先ほど彼女がふり払ったハムエッグの所。床に散らばった陶器の破片を上手に避け、ハムエッグまでたどり着いた彼女は、床にべっとりと着いた黄身をぺろぺろと舐め始めた。
そこには人間の尊厳もなく、叡智も感じられない。ただの動物。ただの、猫。
元の姿に戻った彼女を見た瞬間、彼女には人間としての記憶が残っているのではないかと期待した。部屋の前に座っていて、躊躇なく部屋に入ってきた彼女は、人間の記憶を保っていて、僕を許して戻ってきてくれたのではないかと、期待した。しかし、どうやらそれは間違いの様だ。
彼女は、元の猫に戻ってしまった。人間ではない動物に、変わってしまった。僕は彼女のことを彼女だと認識しているが、彼女は僕のことを認識していない。
彼女に、そっと手を伸ばす。頭を撫でる。
彼女は、ハムエッグから頭を上げ、にゅあと、短く鳴いた。
胸が、万力で締め上げたようにきりきりと痛む。まっすぐ、立てないくらい。
彼女の横に座り、彼女を抱きかかえる。
あまりにも軽いそれは、獣のようにシャーと警告音を鳴らす。
もう一度、もう一度。
もう一度、彼女に魔法をかける。
そうすれば、元通り。
同じ人に二度、魔法をかけたことは今までない。二回もすると、その人の体に負担が起きすぎるのかもしれないと思ったからだ。
もしかしたら、ここでもう一度彼女に魔法をかけたら、彼女は死んでしまうかもしれない。
死なないまでも、健康ではいられないかもしれない。
でも、僕に残された道は。僕の心を保つ為に残された道は、これだけだった。
僕はゆっくりと目をつむり、祈る。
掌が温かい。彼女の体温以上に、熱を持つ。
瞼越しに、彼女が白く光るのを感じる。
お願いだ。お願い。もうこれ以上何も望まないから。
白く光る彼女を、ゆっくりと床に置く。
「僕の下に、彼女を返しておくれ…。」
彼女の光が、ゆっくりと弱くなる。
僕は、ゆっくりと目を開ける。
お願いだ。お願いだ。お願いだ。
頭の中で何べんも繰り返す。
眼を開くと同時に、涙が溢れ出る。思わず、声が漏れる。
「…なんでだよ。」
僕はうずくまったまま、その場を動けなかった。
*****
この魔法は、何のために僕のところに生まれたのだろう。
大切な人も守れない。そんな力を、神様は僕にどんなふうに使ってほしかったのだろう。
でも、確かに言えることが一つだけある。
僕は、この魔法を、正しく使うことが、できなかった。
*****
彼女が元に戻ってから、7回目の夜がやってきた。
その間、僕は何もしていない。生命活動に必要な行動さえ、満足にしていない。電気もつけずに、部屋の隅に座っているだけ。割れたお皿は、まだ床に散らばったまま。
彼女が、とことこと僕の前を横切る。僕の方には一瞥もくれない。そのままどこかに行ってしまった。
生きる意味を失った僕は、この場所で、動かず、死のうと思った。彼女を失った世界に、意味などない。慈愛もなければ、憎しみもない。
このまま、目をつぶって逝くことができれば、どれだけいいだろう。彼女も、腐った僕を食べ、しばらく生きながらえたのち、死ぬ。一時でも彼女の血肉になれるのならば、それは至上の幸福のように思えた。
ゆっくりと、目を閉じる。僕はこのまま、逝く。
暗闇の中で、彼女のことを思った。意地悪な笑顔、怒った声、時折見せる彼女の優しさ。それら全てが僕の喜びであり、僕の人生の全てだった。もう一度生まれ変わることがあれば、今度はこんな魔法なんていらない。ただ、彼女ともう一度出会い、彼女の人生に僕の色を少しでいいから混ぜたい。それだけが僕の今の願い。
遠のく意識の中、どこか遠くから、音が聞こえる。
カラン
何の音だろう。前にも聞いたような音。
流し台に何か落ちる音、ではない。これは、郵便受けに何かが入った音だ。
眼を開く。僕には、もう一つやるべきことがあった。
彼女の残した手紙。彼女が何を最後に僕に伝えようとしたのか。知りたい。彼女が僕に残した言葉。それを噛みしめながら逝きたい。
力の入らない足で立ち上がる。
玄関に向かい、暗闇の中手探りでそれを探す。それはすぐに見つかった。僕の名前が書いてある白い封筒。彼女の細い文字で書いてある封筒。それを手に取る。
電気をつける。光の強さに目がくらむ。封筒には、封がされていなかった。
ゆっくりと、雑に三つ折りにされた便箋を取り出す。震える手が便箋を揺らすカサカサという音が、やけに大きく感じる。
彼女は僕に何を伝えようとしたのか。彼女は僕に何を知らせたかったのか。
ゆっくりと、ゆっくりと、便箋を開く。
彼女が記した言葉。
その便箋には、何も書かれていなかった。
真っ白な便箋に、ボールペンで何かを書こうとした跡だけ。
それ以外には、水滴が落ちたようなシミがいくつもついている。
天井を見上げる。
電球の明かりがまぶしい。
彼女は、これを書こうとしている時に、元に戻ったのだ。
最後の力を振り絞り、僕に何かを伝えようとペンを執ったのだ。
でも、間に合わなかった。
間に合わず、元に戻った。結局、何も伝えられないまま。
感謝の言葉か親愛の言葉か恨みつらみか、それともいつものような厳しい言葉か。
彼女は伝えずに行ってしまった。
でも、彼女が僕に何かを伝えようとした事実。最後の瞬間に僕を思ってくれていた事実。最後まで、僕の為にあがいてくれた事実。それだけで、本当に、幸せだった。
僕の後ろで、にゃあという彼女の声が聞こえる。僕は振り向き、彼女に笑いかける。
「君はこんなに頑張ってくれたのにね。それなのに、僕が頑張らないわけにはいかない。君に、怒られちゃう。」
彼女は、じっと僕を見る。
本当にきれいな瞳だ。
すぐに会いに行くから。少しの間そこで待ってて?
僕は掌を、自分の胸に当てた。
+++++
「あら?誰もいない…。しかも臭いし…。最近の若い人は無責任なんだから。出ていくなら出ていくって言ってくれないと困っちゃうわ。掃除もしてないし…。なんなのほんとに。あらやだ!ねこちゃんじゃない!かわいそうに…。ご主人様において行かれちゃったのね…。信じられないわ!生き物をなんだと思ってるのかしら!ぬいぐるみや何かと勘違いしてるんじゃないの。ほんと頭にくる。…かわいそうに。大丈夫、私がしっかり供養してあげるからね…。2匹一緒に。」
おわり