6. 不思議だ
卒業アルバムを開いた。実は、中を見たことはなかった。大学の受験日が重なったせいで、卒業式にも出なかった私は、最後までクラスとのつながりが希薄なまま消えてしまって、なんだか他人事みたいに、卒業アルバムにも担任教師が作ってくれたDVDにも、目を通さなかった。
高校を卒業して、もう8年。今さらという気持ちはある。でも、私が歩み寄らなかったせいもあるんだとも、今は分かっている。
中を見ても、やっぱり他人事だった。こんな人もいたなあという人たちばかりで、私の姿はほとんど写っていない。ただ、四郎くんはよく写真に現れた。お人好しの彼は、クラスの中でもよく絡まれて、愛されていた。こんな人と、私は話していたんだ。遠い人みたい。
思いながらめくったページに、たったひとつだけ、私がメインで写っている写真があった。各クラスで自由に編集する一ページの、私のクラスのページの端っこ。写真の中央で私は、端から伸びる指のさす方を見て笑っている。こんな写真の中でさえ、私は一人に見える。でも知ってる。写真には写っていないこの指の持ち主。
四郎くんは高校時代彼女がいたし、私の周りに誰もいなかったから気まぐれに声をかけてくれただけだってことは、知ってる。思い上がってなんかいない、勘違いなんかしてない。
そうやって、自分が傷つかないように、恥をかかないように、予防線を張ってきた。
でも、踏み込まなきゃ、踏み込んできてはくれない。
約束は金曜日の午後。決戦は金曜日、なんて、懐かしい歌を思い出した。
約束の十分前に着いた。そのすぐあとに四郎くんがやってきて、「ごめん、待ったかな」と言った。
「なんか前もあったね、この会話」
「そうだっけ?」
私が笑うと、四郎くんもつられたように笑った。
「今日、どうするの?」
「いやあ、『やり直そう』とか言ったけど、おれたち別に破局したカップルじゃないんだからさ、別に普通に遊べばいいんじゃないかな、と思って」
「破局したカップルねえ」
「いや、それは言葉のあやで…。そ、それよりどうしようか、美術館はさ、おれと住田さんはペースが違うみたいだけど、もう一回行ってみても、いいんじゃないかなとは思ってる」
「ええ、もう一回?」
「うーん、住田さん次第なんだけど」
お、これは試されているなと、私は感づく。どれだけ私が彼に合わせられるか、正念場だ。
「いいよ、行こう。私も、今回は、四郎くんと一緒に楽しめるように、頑張る」
「うん」
四郎くんが笑った。それに私はほっとして、意気揚々とバス停を目指した。
三度目は、私立の美術館に行くことにした。ちょうど新進気鋭の画家たちの絵の展覧会が開かれているのを知っていたからだ。
「この町に、こんなに美術館があるなんて知らなかった」
「そうでしょう。用がないとね」
バスの中で、三度私たちは隣り合って座る。街なかに向かうバスだからか、平日の午後だというのに乗客が結構いる。
「…絵って、どこを見ればいいのかな」
ぽつりと、四郎くんが呟いた。どこを見ればいい?あらためて言われると、返事に困る。
「えーと、…私の考えだけど。どこを見てもいいんじゃないのかな」
たとえばさ、と説明しようとして、実物があった方がいいような気がした。
「着いたら、話そ」
今まで四郎くんと一緒に来た中で一番街中にあって、便利のいい美術館だ。バスを降りたら真ん前が美術館の入り口だった。
入ってみると平日のわりに人がそれなりに入っている。私は少し緊張しながらチケット売り場に向かった。
「たとえばね、」
最初に現れたのは、パステル調の色彩の中に、大小の四角が描かれた絵だった。幻想的な雰囲気がある。
「たとえば私は、この絵の、この、ピンク色から黄緑に変わるところが気になる。とてもきれいだと思う。でも、この四角がなんで四角なのかって疑問に思う人もいるだろうし、この絵について何も感じない人もいるだろうし」
「うん」
四郎くんは辛抱強く聞いてくれている。その視線は絵に注がれていて、真剣な眼差しにちょっとどきどきする。
私たちのいる展示室にはちょうど誰もいなくて、ちょっと安心する。一般客に過ぎない私が、偉そうに講釈を垂れている姿は、あまり大勢に見られたくない。あ、監視員の人がいた。
「自分の心に引っかかったものだけ見ればいいと思う。その引っかかりを、どう処理するのかも、自分次第だよ。どう引っかかったのか分析してみてもいいし、その引っかかったっていう感触だけを、大事に覚えていてもいい。……って、すごく、抽象的だけど」
言いながら、そうか、と思った。結局、自分次第だよな、と。
人間関係も、芸術に対しても、自分次第だ。そこに自分の心が関わる限り、わからないことは「わからないもの」で、解釈は自由だ。どう扱っても構わないんだ。
そして、自分の心が関わらないことなんて、ない。
「そっか」
四郎くんが、相づちを打った。
瞬間、私は何に対して「そうか」と思ったのか忘れてしまう。何を悟った気になったのか、忘れてしまう。何か、掴みかけた気がしたのに、目覚めたあとの夢みたいに消えてしまった。
「自分の心が、どうしたとか、考えていたはずだけど」
「何か言った?」
思わず呟いたのを聞き咎められてしまって、私はあわてて首を振る。それで本当に完璧に、私はそれを見失ってしまった。
まあいいさ。見失うってことは、それだけのこと。分かった気になった、ただの錯覚、あるいは、また出会える真理なんだろう。
ゆっくりと、会場を回った。無理にひとつの絵を見るペースは合わせない。気になったものはじっくり見るし、あまり興味のないものはすぐに通り過ぎる。ひとつの展示室を出る前に、なんとなくお互い待って、一緒に次の部屋へ行った。展示室内にはベンチもあるし、相手が見終わるまで、気に入った絵の前でぼーっと待っていてもいい。逆にあまり気にならなかった絵をあらためて見て待っていたら、何か新しい発見があるかもしれない。
退屈してないかな、と、私は何度か四郎くんの方を覗き見た。そのたびに真剣に絵を見ようとしている四郎くんが見えて、ちらちらと見る私の方が恥ずかしくなってしまった。
一人で集中してじっくり見るのと、誰かと一緒に見ること、同じ『展示を見る』という行為でもこれほど違うということが、わかった。
ミュージアムショップを軽く通り抜けて、美術館を出た。
「どうだった?」
「うん…」
四郎くんはまだ考えているような表情だった。
「住田さんは、どうだった?」
「え、私?」
聞かれて、少し考えながら言う。
「……そうだな、やっぱり若い人が多いだけあって、技術というより、勢いだよね。私はどっちかっていうとじんわり来るような絵が好きなんだけど、たとえば最初の方の青い絵とか」
「あ、あの犬の絵」
「そうそう」
「勢いのある絵か」
「えっと、筆の勢いとか、単純にそういう意味じゃなくて、『自分を見てくれ!』っていう意気込みが違うっていうか。そんな勢い」
「ああ、それは、なんか感じたかも」
「そう?」
嬉しくなった。同じ感性が少しでもあることが、嬉しい。不思議だ。自分とそっくり同じ人間なんていないしいてもつまらないのに、違う人間に少しだけ共通するところがあると、こんなに嬉しいなんて。
「おれは、今まで、こんなに絵を見たことなかったんだ」
「うん」
「すごいな、エネルギーが。吸い取られそう」
「ああ、わかる」笑ってしまった。美術をやっていようが、素人だろうが、変わらないな、感じることは。
絵画の見方、なんて偉そうに史緒里は語っていますが、人それぞれなんだと思います。作者にも、よくわかりません。
余談ですが、この話に出てくる絵画にはっきりとした元ネタはないです。




