5. それは、史緒里が悪いよ
家に帰ると、真澄がソファに座ってテレビを見ていた。
「真澄ぃ」
「ちょっと待って、今いいとこだから」
なんで私は待ってるんだろう、ドラマがCMに入って、ようやく真澄は私の顔を見た。
「うわ、ひっどい顔」
「だめだったよー」
「だろうね…だめだったって、どう?」ぽんぽんとソファの隣を叩いて、座れと合図された。素直に隣に座る。
「なんかわかんないけど、怒らせちゃって、多分もう会ったりしないと思う」
「ええ、何で一日でそんなぶち壊せるの」
真澄の容赦ない一言に、私はがっくりと肩を落とす。
「どうしてかなあ」
「まず、何をして怒らせた」
「わかんないの」
「最初から言ってみ」
言われるがままに、思い出せるだけの会話を再現してみせた。手をつないだと話すと、「やるじゃん」と笑った真澄も、話が進むにつれ表情が険しくなっていく。
「…しーちゃん、史緒里。それは、史緒里が悪いよ」しーちゃん、と昔の呼び名が出たのは、ついうっかりだろう。それほどまでに、あきれかえっているのだ。
「うん…」
「わかってないでしょ?」
「え?」
「『私が悪い』って思う前に、何が悪いか、ちゃんと考えて」
「…興味のない、美術館に連れて行ったこと?」
「も、あるかもしれないけどさ!」
「だよね…」
「それもあるけど!しーちゃんとその人、手をつないでたんでしょ?いつ離した?」
「えっ」
全然覚えていない。気がついたら四郎くんその人がいなくなっていたから。いつの間に、手が離れていたんだろう。
「その人だってさ、そんなに簡単に手をつないだりしないんじゃないかな。嫌いな人とはしたくないだろうし。それをさ、なんか、どうせ、人とぶつかったりした拍子とかに離しちゃったんでしょ。でもそれを気づきもしないで、絵に夢中って、そりゃ、嫌になるんじゃないの」
さーっと心臓に霜が降った気分になった。
もしかしたら四郎くんは、それなりの勇気を出して、手をつないだのかもしれない(その意味は今は考えないとして)。手が離れたときに、何か言おうとしたかもしれない。『はぐれるよ』?『ちょっと待って』?
私はそんなこと、お構いなしに、四郎くんがいなくなったことすら、あとになって気がついた。
「わ、私、間違っちゃった…」
「…ついでに言うけど、その『間違った』っての、よく言うけどやめた方がいいよ」
「え、そんなに言ってる?」
「言ってる。人間関係に、間違いとか失敗とか、分かりやすく現れるわけないじゃん。なんかネガティブで、むかつく」
弱っているところにそんな厳しい言葉を浴びせなくてもいいのに。
うなだれる私を、あまりに哀れに思ったのか、真澄は少し語調を和らげて言った。
「…まあさ、史緒里の話を聞く限り、その人も史緒里のこと悪しからず思ってるみたいだし、早めにフォローしといたら大丈夫なんじゃないの?」
「真澄」
「もー、どうしてこんな奥手で付き合いべたなの」
「しょうがないじゃん」
「この際全部言うけど、史緒里、油絵臭い。部屋も臭い。なんとかして」
「それこそ、しょうがないじゃん…」
しょうがない、と言いはしたけど、四郎くんにも臭いと思われてたらいやだな、と思った。
早めにフォローと、真澄に言われたものの、私はそれからあとも、四郎くんに連絡しなかった。
こんな夜遅いと迷惑かなとか、学校に出ずっぱりでそれどころじゃなかったりだとか。なんて、自分に言い訳をしながら。
また、失敗したらいやだなって、思っていたから。
真澄は嫌がったけど、やっぱり『失敗』はあり得ると思う。私は、小学校のときから、失敗を繰り返してきた。
社交的な真澄の影にいつも隠れていたけれど、真澄が私立の中学校に行ってからは、私一人。同世代の子たちの話題についていけない。輪の中に入れても、私が何かしゃべると、会話が一瞬止まる。そのあとは何もなかったかのように今までの話題が続くんだ。
みんなと同じものに興味がもてない。みんなが笑うテレビ番組で笑えない。愛想笑いだけ身につけて、面倒な人付き合いから逃げていたら、クラスの中でいてもいなくてもいい存在になっていた。
高校で出会った友達は、そんな私みたいな人間の集まりで、楽だったけれど閉鎖的だった。『これでいいんだよね』と顔を見合わせながら、ぬるま湯の中に浸かりきっていた。
大学に入って、私は今までで一番ましな人間になれた。美大に通う人は、いろんな感性を持っていて、どこかでつながることができた。失敗したって構わない。未熟な人間ばかりが集まって、なんとか動こうとあがいている、そんな中で、私もなんとかやっていける、そんな気になった。
だけどそれと同時に、私はこの環境のぬるさも嫌いだ。いつだって、こんなところ出てやる、社会に出て行ってやる、って思っていた。
でもどうだろう、結局、私はこの居心地よさにあぐらをかいて、ぬるま湯につかっている。
外の世界は怖いと、震えて、失敗ばかりだ。
こうして、四郎くんに連絡せず放置していたら、本当に『失敗』に終わってしまうことは、分かっていたのに、逃げていた。
『迷惑かもしれないけど、電話していいかな』
そんなメールが来たのは、一ヶ月後だった。
その日は講師を呼んで授業をする日で、送迎や準備にかり出されていた私がメールを見ることのできたのは着信から三時間後。文面を理解した瞬間、息が詰まったようになって、軽いパニックに陥った。
どうしよう、四郎くん、私に何の用かな、私が謝るの、待っていて、いつまでも謝ってこないから、怒ってるのかな。
文章は感情を伝えてこない。震える指で、『大丈夫です』とだけ打って、返信した。
三時間も経っていたから、あきらめてしまったかなと思ったけれど、電話は返信後すぐにかかってきた。意味もなく、部屋に誰もいないことを確認して、電話を取った。
「は、はい」
『…あ、もしもし』
初めて聞いた電話越しの四郎くんの声は、少し籠って聞こえた。
「ごめんね、メール、気づかなくて」
『あ、いや、ごめん、急にメールしたから』
「ううん、こっちこそ、あの、全然連絡しなくて…」
『え?』
意外そうな声。連絡なんて、待ってなかったんだ。私に期待なんて、してなかったんだ。
落胆すると同時に、もう一度疑問がよぎる。
「あの、どうしたの?メールじゃなくて、電話だし…何か、急な用でも」
『あ、うん』
遮るように返事した四郎くんは、けれど、しばらく沈黙した。彼が黙ると、電話のノイズも聞こえなくなって、もしかして電話が切れてしまったのかと心配になる。
「…あの、四郎くん?聞こえてる?」
『え?あ、うん、聞こえてるけど』
小さい咳払いの音が聞こえて、つばを飲み込む気配がした。
『あのさ、住田さん、こないだは、ごめん』
「え、ううん、私が悪かったよ、ごめん。手だって、つないでくれてたのに、私、離れたことにも気がつかないで、その、こないだも言ったけど、集中すると他に思考が回らなくて、ってこれ、言い訳か、あの」
『ちょ、ごめん、住田さん、ちょっと、聞いてくれる』
「あ、ごめん」
またやっちゃった。自分が弁解するのに必死になって、四郎くんが何か言おうとしているのに。
『…おれさ、おれがさ、住田さんのいつも見てるものみたいって言ったのに、自分が相手にされてないってだけで拗ねてさ。住田さんはいつも通りの姿を見せてくれただけなのに、おれのことなんて、いてもいなくても同じって、思っちゃって』
「拗ねてたの」
『そこ拾うなよ、恥ずかしいから』
ちょっと早口に四郎くんが言う。拗ねてたとか、恥ずかしいとか、それって、どういう意味?
『だからその、もっかい、やり直しませんか』
もう一回、出かけるところから、やり直さないかと、四郎くんは言った。