4. また間違っちゃったかな
「真澄ー」
「どうだった?」
「うん、まあまあ、なのかな…」
「で、どうする」
「え?」
「次だよ!なんか話した?」
「次の話?別に…」
「だめじゃん!次の約束をさ、どうにかつけなきゃ」
「えーだって、今日遊んでまたすぐ次って」
「史緒里はどうなりたいの、その男とさ!」
「…どうなりたいとか、別に」
「もー、いいからメールしろ!今日はありがとう、またどっか行こう、からの三日後のメールだ!また誘え!」
「は、はい」
『こんばんは、いきなりごめんね。今度の土日のどっちかに、また美術館に行こうと思うんだけど、一緒にどうかな?今度は県立美術館です。もちろん、無理にとは言いません。もし、興味があれば、ぜひ』
そんなメールを送った。大丈夫かな、私、調子に乗ってないかな。相手はただ、友人とご飯食べた帰りに暇つぶしに誘っただけかも。美術館なんて微塵も興味ないかも。でも、興味なかったら断ってくれるよね。私も、ただ友人を誘ってるだけだよね。
送信したあと、どきどきしながら、布団にもぐった。ぐるぐると思考が回って、いつ眠れるかと思ったけれど、案外早く眠りは訪れて、翌朝目覚めて時間を確認した携帯電話に、返信のメールが届いていた。
『遅くにごめん。いいよ、行こう。俺のほうは、土日どっちでもいいです。土曜日は、午後からの方がいいな』
ぎゃーと心の中で叫んだ。
「真澄、真澄!また一緒に出かけることになった」
「あー、何がー?」
興奮気味に駆け込んだ先の真澄は、不機嫌そうに寝ぼけ眼を布団から出した。
有名な画家の展覧会だった。日本で十数年ぶりに公開されるという絵が目玉で、テレビ広告も打っているくらい大きな展示のようだった。
四郎くんもチラシを見て、「あ、これ、美術の教科書で見たかも」と言った。具象絵画だし、きっと前よりは楽しめるはず。
けれど、
「うわあ、すごい人だね」
「うん、平日に来ることが多かったから、こんなに人が多いのは初めて」
入るだけで30分くらいかかる。四郎くんが不機嫌になっていないか、それが気になる。
「ごめんね、こんなに並ぶと思ってなかったや」
「まあ、しょうがない」
今度は用意していた前売り券を眺めながら、四郎くんは何気なく言う。
「住田さんといれば、話してるうちにすぐ入れるっしょ」
うわあ、と思う。勘違いしちゃうよ、私。顔が熱い。別にそんな意味で言ったわけじゃないだろうに。一人で列に並ぶより、人といる方が暇つぶしになるとか、そんな意味だろうに。私と一緒なら、退屈じゃないとか、そんなふうに受け取ってしまう。
「中もすごい人だねえ」
「うん…」
言いながら、腕をつんつんとつつかれた。
どうしたのかと目線を下ろせば、こちらに向かって差し出される手。
「手、貸して」
うわわわわわわ!
「人、多いし」
美術館の中で、カップルが手をつないだり腰を抱いたりしているのをみて、なんでこんな場所でいちゃつくんだろうと思っていたのに、今や自分たちがそうなってしまっているとは!
つないだ手は温かい。あまり大柄じゃない四郎くんでも、手は厚くてしっかりしていて、どうしても男の人を感じてしまう。
「なんか、すごいね。四郎くんって、タラシでしょう」
「ばか」
そのばかってどういう意味?どうしようもなく浮かれた馬鹿な頭は、『お前以外にこんなことするか』なんて台詞を捏造してしまう。
それぞれの絵の前にぴっしりと並んだ人びと。間に割り込むことはできそうになくて、素直に最初から並んで、人の流れのままに絵画を見る。
四郎くんにとっつきやすいような展示を選んだのも事実だけど、私自身この画家の絵は見たかった。
色、色、かすかな絵の具のにおい、追体験する筆のタッチ、微妙な陰影。
照れ隠しから絵に集中しようとし始めたけれど、いつの間にか、私は絵画たちに引き込まれていった。
展示室と展示室をつなぐ通路に、トイレや休憩室がある。そこに来て初めて、私は四郎くんが近くにいないことに気がついた。
慌てて携帯電話を確認するも、地下で電波が入らない。
(先に行っちゃったんだろうなあ)
人の波に押されても、絵の前に陣取ったりしていたから、四郎くんは素直に流されて行っちゃったんだろう。申し訳ない。待っているだろうか。
そのあとは気もそぞろで、出口の案内が見えたときにはほっとした。こんなとき出口に直行せず、急ぎながらも絵を見つつ進む自分が恨めしいけれど、見なくてはもったいない。
「ごめん、待ったよね?」
果たして四郎くんは、ショップを出たところのベンチに座っていた。
「うん、まあ」
「本当にごめんね。あの、つまんなかった?」
四郎くんの表情は暗い。こんな人ごみに連れてきて、興味のないものを見せられれば、不機嫌にもなるかもしれない。私はまた間違っちゃったかな、と思う。
「ていうか、なんつうか、おれがいてもいなくても一緒かなって」
「え?」
「おれは、『住田さんと』美術館に来たんだけど、住田さんは『絵を見に』来たんだろ。一緒に来たのがおれじゃなくても、どころか、一人でだって、ぜんぜん変わんないんだろ」
「あ、その…ごめん」
「それ、どういう『ごめん』?」
「えっと、ごめんね、私、ばかで、ひとつのことしか集中できない」
「おれとは無理ってことかな」
「四郎くんとって」
「ごめんな、付き合わせて」
四郎くんが何を言いたいのか分からない。ただ、拒絶されているらしいことは、分かった。やっぱり、失敗していたらしい。
「帰ろっか」
小さく言う四郎くんに、頷くことしかできなかった。
帰りの静けさったらない。電車の中でも、バスの中でも、どちらも何も、言わなかった。せいぜい、お互いの家が同じ方向にあることを確認したくらいだった。
私は何を言っても四郎くんを失望させるような気がして、怖かった。四郎くんはどうしてしゃべらなかったんだろう。つまらない女って、思ったのかな。もう私としゃべりたくなんて、ないかな。
でも最後くらいは、何か言わなきゃいけないだろう。バスを降りて、四郎くんと向き合った。一生懸命言葉を選んだつもりが、出たのはやっぱり、どうしてもつまらないせりふ。
「…今日、ごめんね」
「いや、おれも、なんか空気悪くしたよな、ごめん」
四郎くんも謝ってきて、私はびっくりする。
「何で?四郎くんは悪くないよ」
「住田さん」
四郎くんがさらに何か言いそうだったから、慌ててしゃべった。
「また、クラス会とかあったら、行くよ。今まで行ったことないけど、四郎くん来るなら、顔くらい出してみる」
「おれが来るならって」
「あ、変な意味じゃないよ。ほら、クラスであんまり人と話さなかったし、少し馴れてる人がいれば、話しやすいかなって」
変な意味に取ってもらっちゃ困る。私が、勘違いしているって思われたくない。『こいつ、おれが好意を持ってるって勘違いして、調子に乗ってる』なんて、絶対に思われたくない。
数時間前まで浮かれきっていたことを棚に上げて、私は四郎くんに気なんて持ってないように振る舞おうとした。私は気のいい友人、それ以上では、あり得ない。
「そか」
「じゃ、またね。今度またメールするよ」
言いながら、多分しない、と思った。多分、四郎くんとは元の通り。この数週間で近づいたように見えた距離も、元通り。
「ああ、じゃあな」
背中がみじめに見えないように、不自然なくらい姿勢よく歩いて、その場を去った。