3. デュシャンのせいだ
共有スペースを通って、自室へ入る。荷物を置いて、コートを脱いで、かけて、ピアスを外した。
深呼吸をする。
そしてきゃー、と心の中で叫んだ。急いで隣室に駆け込む。鍵はかかっていなかった。
「きいて!きいてきいてきいて!!」
布団に転がって雑誌を開いていた真澄が、目を丸くしてイヤホンを外した。
「どうした?」
「お、男の子と、二人で、ご飯食べることになった!」
勢い込んで言ったのに、真澄の表情は最初に驚いたきりで変わらない。
「へえ」
「え、何でそんなに反応薄いの?二人きりだよ?」
「いや、ふつーにあるんじゃない?」
あるものなの?
「そりゃ、真澄は…」
「…あ、本当だ!史緒里が男と二人なんて、すごいじゃん」
そこで納得されるのはちょっと遺憾だけど、本当のことだから文句は言わない。
「てか、デートじゃん、それ!」
「で、デートじゃないけどさ」
間違えてはいけない。デートではない。でもこの人生初のイベントに、浮かれざるを得ない。
「どうしよう、あんまり気合い入れた恰好したら、引かれるかなあ」
「いやいや、まず史緒里の中ではっきりさせる必要がある」
「え?」
真澄は布団の上に座り直して、正面から私を見つめる。真剣な眼差しに私もつばをのんだ。
「その人のこと、狙う方向でいい?」
「ねらっ…」
「好きなの?」
私は少し後ずさりして、顔の前で手を振った。
「…いやいや、わかんないでしょ。高校のときの同級生だけど、卒業してから全然会ってなかったし、好きかどうかなんて。大体、こんな、二人きりでご飯なんて初めてだし、まずそれだけで浮かれちゃうというか…」
「高校のときはどうだったの」
「それこそとんでもない!四郎くん、高校のとき彼女いたし…」考えたこともないよ、と私はうつむく。
「ふうん。まあでもとりあえず、男女関係を目指せばいいのか」
「男女って…」
「よし、どうせ史緒里はいつもと同じ服装で行こうとするだろう。コーディネートしてやるから、あるだけ持ってこい!」
「ありがとう、真澄!」
「史緒里からこんな話聞くなんて、初めてだ」
「私も初めてだよ」
「うまくいくといいけど」
だから、うまくいくとか、ないんだってば。
ただ、友達とご飯食べるだけ。相手が男の人だから、ちょっと浮かれちゃうだけ。
昼前に駅で待ち合わせをした。
時間の三分前に到着して、四郎くんもすぐに来た。
「うわ、ごめん、いつからいた?」
「私も今来たよ。待ってない」
真澄と一緒に数十分悩んだ服だったけれど、四郎くんは何も言わなかった。当たり前か、彼氏でもないんだし、そういうこと言う方が気障っぽいって思うのかも。
と、考えて、『彼氏』という単語にどきどきする。自分で考えたことでどきどきしてどうする。
市役所までバスで出て、歩いた。
「本当にすぐ近くなんだけど、このへんちょっと入り組んでるでしょ」
「いや、あんまり来ないから、よくわかんねえ」
という言葉通り、四郎くんは珍しげにきょろきょろと辺りを見ながら歩く。この辺りは食べ物屋さんが多くて、私はよく来るけれど。
「そっか、四郎くんち、食堂やってたっけ」
「え、知ってんだ」
場所だって知ってる。前を通ったこともある。行ったことはないけど。
「自分ちのご飯がおいしいから、外食とか、しないんでしょう」
「いやー、確かに外食はあんましたことないけどな」親が昔気質で頑固なんだよなあ、とため息をつく。
「うちさ、町の小さな食堂って感じだから、なんていうの、お袋の味?みたいな」
「うん」
「家でもそんな料理ばっかだからさ。カルボナーラとか?おしゃれな洋風料理は、なんとなく憧れるんだよなあ」
「ナポリタンとか、ないの」
「あるよ。ナポリタンとコロッケが唯一の洋風料理」
なんだかんだ、家の話をする四郎くんは楽しそうだ。
土日だったから空いているか心配だったけれど、幸い余裕のある時間だったらしい。
「たぶん、今から人が増えてくるんだろうな」
「あんまり大きい店じゃないから、すぐ人がいっぱいになるんだよねえ」
案内された席は窓際で、半地下の店内から道行く人々の足が見えた。面白い視点だ。外を眺める私をよそに四郎くんはメニューを広げた。
注文をして、水を一口飲んだ。四郎くんが笑いを含んだ声で言った。
「カルボナーラ、あったな」
「良かった。おいしいって言っときながら、肝心のカルボナーラがなかったらどうしようかと思ってたんだ」
「なかったら、意地でもカルボナーラあるとこ探して、連れて行ってもらうところだった」
カルボナーラがなければ、次の約束があったのかな?ちょっと残念だ。って何を考えているのやら!浮かれ過ぎだ。
なんてことを話しているうちに、料理が運ばれてきた。カルボナーラと、揚げ茄子のトマトソース。揚げた茄子がおいしいというと、食べたいというので、ひとつあげた。
「うめえ。茄子と油の相性はすごいよな」
「麻婆茄子とかも、先に油通しするとおいしいよね」
「へえ」
やっぱり、楽しいなあ。
いいなあ、四郎くん。
店を出て、四郎くんが腕時計を見た。ちゃんと腕時計をつけて時間管理してるんだ、すごいなあ、大人だなあ。
「まだ時間あるな」
夜から学校に行く用事があったから、夕方には帰らなくてはならないと言ってあった。でもまだ数時間の余裕がある。
「こんなとき、住田さんはどこ行く?」
「んー?どこかなあ」
と言いながら、なんとなく街中に垂れ下がる広告を見ていた。
「あれ、行きたいの?」
「うん、東京のが回ってきてるみたい。あの作家最近よく出てるんだ。雑誌でも特集多いし」
現代美術作家の展示だ。東京を始め主要な都市を巡回している大掛かりなものらしい。布を使ったインスタレーションが主な活動らしく、面白そうだなと思っていた。
「行ってみる?」
「えっ」
「近くの美術館だろ」
「そうだけど、…四郎くんはつまんないかもよ」
「行ってみないとわかんねえよ」
と、いうことで、四郎くんと美術館に行くことになった。美術館の入館料は高くても千七百円程度、大体は千円強。映画より経済的ではある。
「おれ、小学校の遠足で行って以来だわ」
「そんなもんかもね」
と私は笑う。美大にさえ、年に一回程度しか美術館に行かない、なんて言う不勉強な学生もいる。一般大学を出たなら、よほど興味のない人しか行かないだろう。
「建物も、面白い形してるよな。あそこの窓、普通の家じゃ絶対不便だ」
「うん、ここは有名な建築家が設計してるから」
と言いつつも、四郎くんが言わなければ私もこんなふうに改めて見上げることはなかったかもしれない。新しい発見だ。
インスタレーションとは、作家が構成した、空間自体を作品にする芸術のことを言う。なんでもありな現代美術は、たとえば部屋の電気を点けたり消したりするだけでも作品として成り立つ。そこにコンセプトさえあれば、十分なのだ。
美大の同級生は、よく「デュシャンのせいだ」と言う。マルセル・デュシャンはかつて、既製品の便器にサインを書いて作品にしたことで有名で、そこから今日の現代美術が始まったといっても過言ではない。それ故に、私たちはこれほどに悩まなくてはならなくなったのだと。
そんな友人に感化されて、私も面白い作品を見るたびに「デュシャンのばか」と心の中で呟く。
大きな空間を、自分のものだけにできるのはとてもうらやましい。私はまだ、ほんの小さな展示室さえ、扱いきれない。
大きな展示とはいえ、地方の現代美術館は人の入りが通年少ない。自分の見たいペースで鑑賞して、出たあと真っ先に気になったのは四郎くんの感想だった。
「どう、だった?意味分かんないのも、多かったかもしれないけど」
「うーん、おれには、やっぱりちょっと難しいかな?」
あ、失敗したかな、と思った。自分が見たいからといって、いきなりインスタレーションとか、現代美術は大変だったかな。
「そっか。じゃあまた、もっとわかりやすそうなとこ、行こう?」
「うん」
そこで彼の、微妙な表情に、私は気がつくべきだった。
部屋の電気を点けたり消したり……Work No. 227, The lights going on and off (マーティン・クリード)
既製品の便器にサインを書いて……泉 (マルセル・デュシャン)