(5.) 楽しそうに見ていた
週末。ようやくまた一週間が終わったと、おれはため息をついた。ここまで、なんと辛い二週間だったことか。何度布団にくるまって一日過ごしたいと思ったことか。
落ち込んでも仕事は仕事。おれの私生活に何があったなんて、同僚にとってはどうでも良いことだ。愚痴を言おうにも友人たちもみんな立派な社会人になってしまっている。
…こういうときはフリーターの友人を呼び出すに限る。
「しろうのおごりなんでしょう、今日」
「…まあいいだろ」
自分で金を払わなくてもいいとなると、目の前に座る男はうきうきとメニューを開いた。最近食べる楽しさを覚えたらしい。おれの実家の定食屋で舌を肥やされたと先日文句を言われた。
「相変わらずヒモなの、お前」
同棲中の恋人は就職して、ばりばり働いているという。かたやこいつはずっとフリーターだ。
「ひも?ひもってなに」
こういうときだけ日本語弱いフリしやがって。…本当に知らないかもしれないが。
運ばれてきたビールを突き合わせて、乾杯をした。
「なあおい、聞けよ。おれはさあ」
「んー、聞いてるって。あ、芋のお湯割りお願いしまーす」
他愛もない会話を挟んでから本題に入ろうと思っていたら、他愛ない会話のうちにずいぶん出来上がってしまって、おれはぐだぐだと言葉にならないことを呻くし、奴は机にほとんど突っ伏しながらしかし酒は飲み続ける。きっとこいつはおれが何を話しているのかさっぱり分からないに違いない。
「おれはさあ、彼女にさあ」
「突き放されたくなかったんだ?」
顔を上げると、友人が笑みを含んだ顔でこちらを見ていた。なんか聞き覚えがあると一瞬思って思い出した。それはおれがいつかこいつに聞いた言葉だ。
「…突き放されたくなかったんだ」
実際、突き放されてなんかいない。おれが勝手に、突き放されたような気分になっただけだ。
「会いたい?」
「会いたい」
「そばにいたい?」
「いたい」
「好きなの?」
「…好きだ」
もう『まだわからない』とか言わない。おれは彼女が好きだ。がばっと起き上がって、叫んだ。
「好きだー!住田さん!」
「うるさい。もう帰ってよ、しろう。お金置いてって」
「お前も言え!カノジョに電話しろ!好きって言えー!」
「すきだー!ひいろー!」
ぎゃははと笑いながら、なんとか会計して店を出たのは覚えている。
がんがんと頭が痛い。母親がため息をつきながら水を置いていってくれて、おれはこれが社会人のすることかと落ち込む。二日酔いで母親に介抱してもらうって。
しかも、問題は解決していない。好きだなんだと叫んだところで、彼女との関係はマイナスのままなのである。
携帯電話を取り出して、おれに負けずべろんべろんだった友人に電話をかけた。
「おい、おまえ、大丈夫だったか?」
『うん、だいぶ怒られたけど』
恋人にか。そりゃ結構なことで。友人には二日酔いは全くなかったらしく、普段通りの声が恨めしい。
「でさ、おれ、どうすれば良いと思う?」
『は?何の話?』
奴は昨晩のことをすっかり忘れていた。
多分高校のときからおれはもうとっくに住田さんのことが好きで、でもそれに気づくことはなかった。いつも彼女のことを見ていたのに、それは彼女が教室で一人だから気になっているのだと思っていた。
高校三年の冬、ばかな男子たちの間で、ひとつの計画が持ち上がっていた。
計画と言っても大したことではない。卒業前に、気になる女子とダンスを踊りたいと誰かが言い出したのが始まりだ。そのころ男子の間で少女マンガを読むのが流行っていて、その中の一場面に、文化祭の後夜祭でキャンプファイヤーを囲って好きな人と踊るという描写があった。文化祭に、後夜祭もキャンプファイヤーもなかったおれたちの高校で、ではどうやってダンスを踊るかという話になって、どこでもいいなら教室で踊れば良い、寒いし、という結論に落ち着いたのである。
準備は着々と進められた。机はこのように積み上げよう、気になる女子をどうにかして放課後の教室に留まらせよう、アルバム委員を呼び寄せ、あわよくば一緒に踊っているところをアルバムに載せようと手配が為された。
そして当日、
「あ、住田さん」
おれは彼女に声をかけた。彼女はすでに鞄を手に取っていて、すぐにでも教室から出てしまいそうだ。
「今日さ、ちょっと残っといた方が良いかも」
「え?」
住田さんはきょとんとしておれを見る。そして教室を見渡した。確かにその日は多くの生徒が教室に留まっていた。
「今日、何かあったっけ」
「いや、卒業式のあと、先生になんか贈りたいって中川あたりが言い出してさ。わかんねえけど、それの話したい?みたいな」
そういう口実で留まらせるように、男子の中で決まっていた。実際できるようなら話し合いもしたいしな、ということだったが、計画で頭がいっぱいの彼らには多分無理だろう。
「そっか」
住田さんは素直に席に戻り、鞄を置いた。おれはなんとなくほっとして、その隣の席に座る。
「もう卒業だなあ。住田さん、今、何してんの」
センター試験が終わって自由登校になり、彼女が学校に現れることはほとんどなくなっていた。住田さんは眉を寄せて小さな声で答えた。
「…受験勉強?」
当たり前のことを聞いてしまったようだ。
「あ、ごめん、それは当たり前か。えっとね…なんだろ」
彼女は真剣に考え始める。そんなに真面目に聞いたわけではないので、申し訳ない気分になってきた。
「おい、四郎!」
計画の首謀者がおれを呼んだ。
「これから始めるから」
「うん」
宣言するとそいつは満足そうに頷いて、カメラを持った生徒と一緒にはしゃぎ始めた。
「話し合い、始めるの?」
「多分な」
違うのは分かっていたけれど。示し合わせたとおり、計画に賛同していた男子たちも混じって踊り始め、机を動かす準備をしている。
おれたちは席を立ち、教室の隅の方へ移動した。騒ぎに巻き込まれないためだ。
「な、何だかすごくなってきたねえ」
「まあ、今日くらいはな、受験勉強忘れてもさ」
とはいえ、騒いでいる中心人物は、もう推薦で大学に合格している奴だ。
きゃーと声がした。そちらに顔を向けたおれは、想像以上の光景に楽しくなってしまってつい叫ぶ。
「おい、見ろよ!」
机はきれいに並べられ、その上で生徒たちが踊る。体育の授業でやっただけのフォークダンスは記憶もあいまいで、ステップもばらばらだ。でもステージの上で男女が踊るその光景は、見ていても心が躍った。もちろん、迷惑そうな顔で見ている生徒もいたけれど。
と、隣の住田さんを横目で確認した。彼女は驚きながらも、楽しそうに見ていた。
「四郎くんは、行かなくていいの?」
聞かれてどきっとする。計画を知らされていた男子たちは、どの女子を誘うか各々考えていたが、おれは特に誰と、とは考えていなかった。
…じゃあどうして、彼女が教室に残ってくれてほっとしたんだ?
「いいや、見てる方が楽しい」
「そう?入ってる人たち、楽しそうだよ」
ならおれと踊ってよ。
おれはついにそう言うことができなかった。
『おれがいてもいなくても一緒』
な、わけないだろ。
あれだけ気を使って話しかけてくれたのに、それを忘れて「構ってもらえなかった」とか、嘘だろ。
そもそもおれを誘ってくれたんだぞ、彼女から。彼女が、自分の領域に、おれをいれようとしてくれていたんだ。
大丈夫だ、まだ、やり直せる。
今度は間違えない。
『おれと踊ってよ』
今度こそ、おれは言う。




