『桜と月(2)』
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「ふむ。ちょうど見頃になっていて美しいな」
桜を見ながら山を散策する。その時、ふと争うような声が聞こえた気がした。
「遊女だなんて、そんな大層な者ではございませんわ。両親とこの後、待ち合わせがありますの。離してくださいませんか?」
微かに、それでもはっきりと聞こえた声に私は人知れず息を吐いた。
大方、どこぞの酔っ払いとやらが女子にでも絡んでいるのであろう。
それにしても、と思う。
聞こえた声は『遊女』を『大層な者』と言った。つまり、遊女が何であるかを僅かなりとも知っている、ということだ。
(しかし、身分の高い婦女子であるならば一人で出歩きなどするはずもない。牛車を使うはずであろうに)
どちらにせよ、これを知らぬ顔する訳にはいかぬだろう。
私は声の聞こえた方へと歩き出した。
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木があったためか、思っていたよりも声の場所は近かった。
なるほど、美しい色合いの桜色の着物を着た娘の腕を男どもが掴んでいる。
「ふむ…。これは風流ではないな」
桜の美しく咲く日には不釣り合いなほど無粋な光景であろうそれに小さく呟いた私は、半ば無意識に声を掛けていた。
「離してやらないか」
その声に腕を掴まれていた娘が振り向いた。
(なるほど。これは確かに美しい娘だ。佇まいにもどこか品が漂う。しかし…着物の布から察せるにおそらく村の者。この娘が村の者たちが言っていた娘だろうか…)
遠くからでは声を掛けることは出来ても、男や娘の顔は見にくい。男の顔は覚えて確認しておきたいところであるし、美しいと評判の娘ならば尚更近くでその顔を見てみたい。
そう思い、私は彼らの元へと一歩一歩近付いていった。次の瞬間。
「濃紫…」
男の呟くような声が聞こえた。娘の腕を掴んでいた男は私の狩衣を見ていたのだ。
男は娘の腕を離すと、他の男たちと共に、瞬く間に逃げていった。
「ふむ。逃げられたか」
しかし、奴らの顔は覚えた。勿論、見覚えのある顔だ。
あれらは、ここら一帯を管理しているはずの国司に付いている武士であったはずだ。
不正のあるという噂の男。これでまた一つ調べる理由が出来ただろう。
心の内でそんな事を考えつつ、何処となく居心地の悪そうな顔をした娘を見やる。
濃紫、という言葉に微かに反応したその娘は、改めて、とこちらを向き直すと頭を下げた。
「助けていただき、ありがとうございました」
サラリと長い黒髪が揺れるその姿に一瞬見惚れ、私は慌てて、しかしそれを悟られぬよう平静を装って声を掛けた。
「面を上げよ」
ゆっくりと顔を上げながら、おずおずとこちらを伺ってくる娘に小さく笑みが零れた。大方、この色の狩衣を着ている私に対し顔を向けていいものか悩んでいるのだろう。
そんな娘に対し、私は本心からの言葉を掛けた。
「何、そなたが気にすることではあるまい。あの者らに何かされてはいないか?」
実際、絡まれていたのはこの娘であったし、会話からはこの娘に落ち度は見当たらなかった。…まぁ、年頃の娘ともあろう者が一人で山を散策することはいささか頂けないが。それでも、村娘であることを考えるとこの娘に何ら悪い点はない。
そんなことを思う私は難しい顔でもしていたのだろうか。娘はフワリと柔らかく微笑んだ。
「大丈夫ですわ。―――――貴方様が助けてくださったおかげにございます」
なるほど、これは男どもが舞い上がる気持ちも分からないではない。このような柔らかい笑顔を向けられては、勘違いをする輩が現れても致し方あるまい。そう思ってしまった私は思わず口走ってしまった。
「何の、これしき。私は当然の事をしたまでだ。―――――そなたのような美しい娘を見て舞い上がってしまったのだろう。あの者達は酔っていたようであったしな。どうか、私に免じて許してはくれまいか。“桜の姫君”よ」
“桜の姫君”
これ以上ない、的確な呼び名であるように感じた。美しく艶やかな黒髪に色白の顔。桃色に色付いた唇と頬。そして桜色の着物。立ち居振る舞いは美しく上品であり、言葉の節々からは教養を感じる。少なくともそういう教育を施せば、貴族として務まるだろう。
(私は会ってわずかの娘を娶りたいと思っているのだろうか)
ふと、胸に浮かんだ考えを打ち消した。今はそれでも外を出歩いたりしているが、本来は叶わぬことであるのだ。少なくともあと数年後には、気軽に外へと出ることは叶わなくなる。この娘を囲ってしまおうにも、身分から許されることはないだろう。それに何より。
(私には昔より、定められた許嫁がいる)
おそらく村娘には、夫が何人もの妻を娶ることは耐えられないだろう。
そんなことを考えていた私に目の前の娘は、ただこう告げた。
「私はただの一農家の娘。―――――桜の姫君など、私には恐れ多い呼び名にございます」
ただの一農家の娘。分かってはいることである。この出会いも、ただこの一時ばかりの偶然の逢瀬であろう。それでも、ただこの瞬間、この娘に対し自分という存在を刻みつけてしまいたいと、ひどくそう思った。
「何、そなたは桜のように可憐で美しいというだけのこと。どうか、私にそう呼ばせてはくれまいか。―――――今、例え私の狩衣がこの色であろうとも、この場においてはただの男と女として接して欲しい。そうだな―――――“月の君”とでも呼んでくれ」
そう告げた私に目の前の娘―――――桜の姫君は無意識であろうか、柔らかく微笑んだ。
その様子に何処となく気恥ずかしくなった私は、照れを隠すかのように手近な桜をひと枝手折った。そして、その桜を見てふと思うところがあった私は、手頃な大きさになるようにもう一度折る。
美しく桜が咲き誇るその中にまだ小さな蕾を残したそれを、桜の姫君の髪へと優しく挿した。
「思った通りだ。そなたに何ともよく似合う」
桜の姫君は髪へと恐る恐る手をやると、花に僅かに手が触れたのか嬉しそうに小さく微笑んだ。
「ありがとうございます。―――――月の君」
その笑顔と呼び名に胸が高鳴った気がした。
そして何処となく気恥ずかしくなった私は、この場を去ろうと小さく笑って背を向けた。
これが一度きりの逢瀬だろう、そう思ったところでもう一度と願いたくなった。
「桜の姫君に出会えたのが桜が美しく舞うこの日ならば―――――次に会えるのは月の美しく輝く日だろうか」
言葉には力が宿るとされる。だからこそ私は、もう一度を願って言葉を発した。もう一度、桜の姫君に会えることを願ってふと振り向く。その瞬間、目の前を桜が舞った。桜の姫君が驚いた顔を見せるのが目に映る。
(これは…まるで桜の姫君との出会いを祝福してくれているようではないか)
そう思った私に桜の姫君の声が届いた。
「月のお方が地に舞い降りる日かもやしれません」
その返しを面白いと思った。確かに月見よりも前に祭り見物があるだろう。そして私はそこで舞を披露する手筈となっている。
町へと“降りて”きて、“舞”を披露するのだ。
私の濃紫の狩衣と見て察せられる年から推測したのであろうか。それとも偶然であろうか。根拠はないけれども、なんとなく前者のような気がして口元に笑みを浮かべた。
「ならばその日を楽しみにしようではないか。桜の姫君」
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「おや、どうかなされましたか。霧月の君」
村へと戻った私を行通が出迎えた。
どうやら、私が供の者も付けずに出掛け、且つ帰りが遅いことを心配してくれていたようであった。
心配をかけたことについて謝罪をすると、行通は気にする必要はない、と言った上で尋ねてきた。
「何処となく、楽しそうなお顔をしていらっしゃいます。もしや、噂の娘にでも会われましたか?」
楽しそうな顔で私の世話を焼く行通に、私は話し始めた。
「ははっ。聞いてくれるか…」
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