『桜と月(1)』
「桜の姫君に出会えたのが桜が美しく舞うこの日ならば―――――次に会えるのは月の美しく輝く日だろうか」
そう呟き首だけ振り向くと彼女―――――桜の姫君―――――はハッと一瞬驚いた顔をして、そして美しく微笑んだ。
「月のお方が地に舞い降りる日かもやしれません」
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花見見物の日、視察と称して私は歩き回っていた。
皆の者は私自身が自らの足で歩くなど、以ての外だと言う。
だからこそ私は―――――人聞きは悪いが、抜け出してきていたのだ。
―――――――このような美しい姫君に出会うなんてことも知らずに。
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私には幼き頃よりともに育ってきた者がある。
左大臣の子息である藤原行通だ。
彼の父親である左大臣は私の母の兄、つまり伯父にあたる。
伯父―――――名を藤原道行という―――――は私と行通が幼い頃、よくこう言ったものだった。
『民の気持ちを理解しようとしなさい。民の生活を知りなさい。身の丈に合った生活は必要であれど、その生活は民なしでは成りえないのだよ』
そして、それを聞いていた父も肯定するかのように黙っていたし、おそらく御簾の向こう側にいた母もそうであったのだろう。
だから、私と行通はよく二人で村まで出てきたし、数年かけて村人達とも打ち解けていった。
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「若様、今日はお一人ですか?」
私が村を訪れると、彼らは“若様”と呼ぶ。
昔馴染みのためか、未だに若様と呼ばれるのだ。実際は元服も数年前に終えている身であるし、少し気恥ずかしくはある。それでも、普段仰々しい呼び方をされているせいか、この呼び名がひどく落ち着くのだ。
「今日は花見見物だろう?どうせ、このあとは堅苦しい席につかなければならないのだ。せっかくだからゆっくりと先に花を見たいと思ったのだよ」
ここに来ると、話し方もいつもと変わる。彼らにとっては私はいつまでも若様であるのだ。だからこそ昔のような、少しばかり砕けた話し方になる。
「そういえば、何か変わったことや困ったことはないか?」
実は、この辺り一帯を治めている国司には少しばかりきな臭い噂があるのだ。租として民が納める米をごまかしているのではないか、という噂が。
確かな証拠がない以上、あまり大っぴらに動くことも出来ぬ。故に―――――近くに住む行通に調べるよう、頼みをしてある。
「相も変わらず日照り続きでして。―――――今年は租をお納め出来るかどうか…」
不作なうえに、国司によってごまかされてるとしたら、相当大変なはずである。しかし、彼らは決してどうにかして欲しいとは求めない。―――――彼らが私の正体を知らないから、当然でもあるのだが。
「そういえば、村のはずれに大変な別嬪さんが来てますよ。どこかの貴族様の姫様かとも思ったんですがどうやら違うようでしてねぇ。今は村の端の老夫婦の元で暮らしていますよ」
村の端の老夫婦といえば私の祖父にあたる藤原頼行―――――藤原家の先代―――――を助けたということで藤原の姓を賜った老夫婦のことだろう。長い間子が出来なかったと聞くから、おそらく喜んで引き取ったのであろう。
「その娘とやらは…」
私の一言に彼らは笑いながら答えてくれた。
「気立ての良い娘でしてねぇ。別嬪さんで優しくて。村の男衆からも好かれております」
「年の頃は…十五、六だったでしょうか。結婚してもおかしくはない年でしょうが、そういう話は聞いた事がないですねぇ」
気立ての良い美しい娘。私だって男である。興味も出るというものだろう。
私の雰囲気を察してか、村人の一人は笑いながら告げた。
「今日は花見見物の日ですから。おそらく山の方にいるでしょう」
山か。今日は桜を見に行こうと思っていたところだ。ちょうどいいだろう。
「すまない。感謝する」
そして私は山の方へと向かったのだった。
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