今度は、奇跡を。
今、この世界で、どれほどの人が、恋をしているのだろうか。
そのうち、どれだけの人が、好きな人の隣にいられるのだろうか。
好きな人の好きな人になる。
みんなが当たり前にしていることは、本当は奇跡に近いことなのではないだろうか。
奇跡は、めったに起こらないから、『奇跡』と呼ぶ。
人は時々、それを忘れる。
「聞いて!竜也くんから、告白されちゃった!」
加藤渚は、朝から、そんな話を聞かされた。
報告をしてきたのは、中学の頃から仲の良い友人。
軽いウェーブのかかった栗色の長い髪。整った顔立ち。
山本咲は「かわいい」より「きれい」と称される部類の女の子である。けれどその性格はかわいく、そのギャップがまた、人気を呼んでいる。
学年で一、二を争う美人であり、しかもその性格はやさしい。
渚の自慢の友だちである。
「そうなんだ。やったね。前から好きだって言ってたもんね」
「うん。竜也くん、格好良いし、みんなの人気者だから、絶対に無理だと思ってたのに…」
「でも、その竜也くんから、告白されたんだよ」
「…うん。よかった」
「もちろん、付き合うんでしょ?」
「……うん」
頬を赤く染め、小さく頷く。
「咲、かわいい!私も咲に惚れそう~」
「何言ってんの」
「でも、もう、咲は竜也くんのものだからな~」
「もぉ~」
いちいち頬を染める咲を見て、渚は笑った。
そして、思った。
上手く笑えてよかった、と。
噂とは、どんどん広まるものだ、ということを渚は本日改めて思い知る。
竜也と咲が付き合うことになったというニュースは、どこのクラスでも持ち上がるほど話題となった。
竜也、咲ともに自分の席をクラスメイトやら野次馬やらに囲まれ、質問攻めにあっている。
そんな様子を渚は少し離れた所で見守っていた。
「いいの?」
不意に頭上からそんな声がする。
少しだけ顔を上げ、声の主を確認した。
「佐々木、何の用?」
「冷たいね。心配してやってんのに」
「…何の?」
「泣いているのかと思ったけど…」
そう言って、佐々木龍二は、渚の顔を覗き込む。
近すぎるほど近づき、頬を一撫でした。
「大丈夫そうだね」
「…近い」
「ごめん、ごめん」
別段、悪いと思っていない調子で、謝罪の言葉を述べる。
「…」
「ってかさ、お前。あんだけ近づいたんだから、頬を赤く染めるとか。耳まで染まっちゃうとか。そういうかわいいことしてみろよ」
「できない」
「俺だから?」
「そう」
「竜也だったら、近くにいただけで、赤くなっちゃうのにね」
「…」
渚は、鋭い視線を佐々木に向けた。
「何それ。上目遣い?」
佐々木は、くすくすと笑う。
「あんたにそんな技、使うわけないじゃん」
「へ~。お前の上目遣い、技になるのか?」
「……どうせ、かわいくないよ。いいから、ほっておいてくれない」
せめて、今日だけでも。
その一言は、心の中にしまっておいた。
「今日だけな」
しかし、心の声を聞き取ったように、そう言い残し、佐々木は渚のもとから離れて行く。
するとともに、チャイムが鳴り、教師が教室に入ってきた。
本日の主役を囲んでいた野次馬たちは、急いで定位置に戻っていく。
渚は、すっと斜め前に視線を向けた。
そこには嬉しそうに頬を緩める竜也がいた。
渚が、竜也を視線で追うようになったのは、高校に入ってすぐの頃だった。
理由はあるようで、ない。
顔が好きだとか、部活をしている姿が一生懸命だっただとか、挙げればいくつだって挙げられた。
けれど、どれもこれも、しっくりくるものではなく。
きっと、竜也が竜也だからこそ、好きになったのだと渚は思っている。
けれど、「好き」から「大好き」になったきっかけは覚えていた。
渚と竜也は、二年になってやっと同じクラスになったが、一年の頃は、違った。
二人の間に接点はなく、渚は、放課後、教室からグラウンドで部活動に専念している竜也を見つめるくらいしかできなかった。
委員会は同じではあったが、そこで言葉を交わしたことはない。きっと竜也は自分のことなど知らないだろう、と渚は思っていた。
だから、驚いた。
クラスが一緒になった時、
「同じ委員会だったよね。よろしくね、加藤さん」
そう、名前を呼ばれた時は。そして、本当に涙が出そうになるくらい嬉しかったのだ。
「好き」が「大好き」に代わるほど。
渚が、竜也に恋をしたのは、咲よりずっと早かった。
けれど、恋は、早い、遅いで決まるものではない。
「私ね、竜也くんのこと、好きになっちゃった」
一学期の中頃だっただろうか。
咲は、そう、渚に告げた。
「同じクラスになって、話すようになって…もっと一緒にいられたらいいなって思うようになったの」
その顔は、本当に幸せそうで、きらきら輝いていて。
だから、渚は、言ったのだ。
「頑張ってね」
と。
渚は、「好き」だと思うことはあっても、「付き合いたい」と思うことはなかった。
けれど、「一緒にいたい」と思っていた。
それでも、「頑張ってね」と咲に言ったのは、咲が幸せそうだったから。
そして、知っていたから。
渚が辿った視線は、いつだって、咲を見ていたこと。
「咲、ならいいや」と思った。
でも、同時に、
「どうして、咲なんだろう」とも思った。
ことあるごとに聞かされる、竜也と咲の出来事。
親しくなっていく過程。
ずっと見てきた竜也の表情が、やさしくなっていく様子。
咲を見つめる視線が、曖昧なものから、確信に変わって。
矢印が互いに向き合っていった。
見たくはないのに、渚の視線は、竜也を追い。
当人たちが知らない事実を知っていく。
黒髪が好きだと言っていたから、咲に「一緒に髪を染めようよ」と言われた時、断ったのに。
髪の短い人がタイプだと言ったから、寒い冬も伸ばさずにいたのに。
咲の髪は、茶色くて、長くて。
どうして、自分は、かわいくないんだろう。
どうして、自分の方を見てはくれないんだろう。
好きなのに、咲より、好きなのに。
咲が、恨めるような子だったらよかったのに。
しかし、それはやはり無理なのだ。
だって、竜也がそんな人を好きになる筈などないのだから。
好きな人の好きな人になる。
そんなことは、奇跡なのだ。
奇跡は、めったに起こらないから、奇跡という。
それがたまたま、咲と竜也に起こっただけ。
自分に起こらなかっただけ。
「ごめんね。今日は竜也くんと帰るの。部活が休みなんだって」
放課後、少しだけ申し訳なさそうに咲が報告をしてきた。
渚は笑う。
「何を当たり前のこと言ってるの?恋人同士なんだから、当たり前でしょう。これからも、そうするんだよ。…でも、たまには遊んでよね」
「うん!もちろんだよ」
「じゃあ、仲良くね」
「ありがとう。バイバイ」
小走りで駆けて行く咲の後ろ姿を、渚は見送った。
ウェーブのかかった髪が上下に揺れる。
きれいだと思った。
「かわいいね。咲ちゃんは」
そんな声が、耳に入る。
確認せずとも、誰かはわかった。
佐々木が渚に何かと話しかけてきたのは、咲が竜也を好きだと渚に報告をしてきた頃だった。
全て見透かしたような目。
声をかけてくるタイミングはいつだって、嫌な時だった。
でも、同時に、一人でいたくない時だった。
「ねぇ。知ってた?」
笑いを含んだ声で佐々木が尋ねる。
「何を?」
「俺が、渚ちゃんのこと好きだったってこと」
「…知ってたよ」
「やっぱりね」
それ以上のことは、佐々木は口にしなかった。
そして渚も、何も言わなかった。
好きになっても、好きになってもらえないことを知った。
好きになってもらっても、好きになれないことを知った。
好きな人の好きな人になることは、奇跡なんだ、と。
「渚ちゃん」
「…何?」
「俺、今も、好きだよ」
「……さっきは過去形で言ったくせに」
「細かいこと気にするなよ。かわいくないぜ?」
「どうせ、かわいくないよ」
「いいんだよ。俺、かわいくない子が好きだから」
「それ、全然嬉しくない」
「あのさ」
「何?」
「…」
「何よ?」
「…お前、覚悟しとけよ?」
突然、佐々木の声が、低くなる。
渚は思わず、一歩だけ、後ずさった。
「…何を?」
けれど、身長差のある二人。そんな一歩は意味を持たない。
少しだけ開いた距離を佐々木はすぐに埋める。
顔を近づけて、笑った。
「…な!」
いつもの含みを持った笑みではなくて、どこか幸せそうな笑み。
その変化に、渚の心は少し、揺れた。
「お前、俺のこと、好きになるから」
「…何言ってんの?」
「顔を近づけたら、かわいいくらい真っ赤になるようにしてやるからさ」
そう言って、佐々木は顔を離す。
渚の頭にポンと手を乗せた。
「だから、今はこのくらいにしといてやる」
「……かわいくないやつが好きなんでしょう?」
一瞬言葉に詰まった自分を悔しく思いながらも、渚はいつものように悪態をついた。
「かわいくない、お前が好きなんだ」
似合わなく真面目に言い放つ言葉。
しかし、渚の顔は染まらない。
けれど、それでもいい、と言わんばかりに、佐々木は楽しそうに笑っている。
渚はふっと目を閉じた。
心の中で、「さよなら」と告げる。
口にすら出せなかった、叶うことのなかった奇跡に。
不意に、何かが近づいてくる気配を感じ、渚は両手を前に出した。
「痛っ!」
「…何やってんの?」
「目を閉じたから、キスをご所望なのかと思って」
「ばかじゃないの…」
「大丈夫。そのうち、お前からしたくなるから」
「どこからくんの?その自信」
そして、「ばかに付き合ってられない」と捨て台詞を残し、教室を出た。
足音が聞こえる。
追ってくるのは、知っていた。
今度は、自分にも奇跡が起こることを願いながら、渚は少しだけ、歩みを緩める。
アンハッピーエンドにしようとしましたが、結局、佐々木が出てきてしまいました。
でも、自分、結構佐々木好きです(笑)