忘却回廊都市「ムネモ」の物語
棚が、光っていた。
壁一面に並ぶ棚のどこを見ても、カケラが微かに光っていた。暖かい琥珀色、青みがかった白、淡い金——色はそれぞれ違うのに、どれも同じくらい静かに光っていた。まるで眠っているみたいに。
暮方燈子は受付カウンターの前に立って、その光をぼんやりと眺めていた。今日で入職三日目だった。まだ何もかもが、少し夢みたいだった。
「あの、カケラって……全部残るんですか?」
そう聞いたのは、自分でも気づかないうちだった。「死んだ人が全部覚えてることを。忘れたいこととかも、残っちゃうんですか?」
休憩室の引き戸が、少し開いていた。その隙間から、骨灰錠次が顔を出した。
「いやあ、難しい質問ですよ、それ」
錠次は手にコーヒーカップを持っていた。遺光館の記憶師の先輩で、燈子より十歳以上は年上のはずなのに、どこか子どもみたいな顔をする人だった。「カケラってのは、忘れたくても残ってしまうものも、あるんですよ。でも」
「でも、何ですか?」
*ガコン。*
休憩室の奥から、不規則な音がした。錠次が振り返り、カップを持ったまま休憩室に戻っていく。
「コーヒーメーカー、また調子悪いですね」
「えっ、答えてくれないんですか?」
「コーヒー、飲みますか?」
燈子は「また話題変えた」と思ったが、口には出さなかった。
受付カウンターの向こうで、紡木澪が書類を整理していた。遺光館の先輩記憶師で、燈子の直属の指導担当だった。細い指先が書類の端を静かに揃えている。澪は燈子の質問も、錠次の返答も、特に聞いていないようだった。
「カケラは、生前に本人が意図的に鍵をかけた記憶と、かけていない記憶の二種類があります」
そう言いながら、澪は書類から目を上げなかった。「……いえ、正確には、鍵をかけた、というより。渡さないと決めた記憶、という方が近いかもしれません。前者が封印記憶、後者が公開記憶です。封印記憶の解読には組合の許可が必要で、無許可での解読は重大な犯罪になります」
「渡さないと決めた」と燈子は繰り返した。「自分で決めるんですか、それ」
「生前に、はい」
「じゃあ、渡したくなかったものは、ずっと渡されないまま……?」
澪が少し間を置いた。「……そういうこともあります」
休憩室から、*ガコン、コン*、という音が続いた。錠次が電源を入れ直しているらしかった。
燈子は棚に並ぶカケラをもう一度見た。どれも静かに光っていた。眠っているみたいに。
その中に、一つだけ、光り方の違うカケラがあった。
他のカケラが暖かい色や青白い色の光を放つ中、そのカケラだけが暗い金色をしていた。揺れない。ただ、そこにある。
「あの、あのカケラだけ色が違いますね」
澪が書類から目を上げた。「封印記憶が多いカケラは、ああいう光り方をすることがあります」
「暗い金色に?」
「はい。解読されていない記憶が多いほど、光が落ち着かなくなります。……いえ、正確には、落ち着かない、というより。内側に向かっている、という方が正しいかもしれません」
燈子はそのカケラを見た。内側に向かっている光。誰かが渡さないと決めた記憶の、色。
「なんか、寂しいですね」と燈子は呟いた。
澪は答えなかった。
*ガコン。*
「コーヒーメーカー、今日も駄目ですかねえ」と錠次が休憩室から言った。「燈子さん、コーヒー飲みますか? ……あ、でも今切れてますね。お茶でいいですか」
「おじさん、さっきからずっとコーヒーの話してますよね」
「おじさんじゃないです、先輩です。骨灰先輩です」
「骨灰先輩……なんか言いにくいですね」
「じゃあ錠次先輩で」
「それも言いにくいです」
「……じゃあ錠次さんで」
「それは普通ですね」
澪が書類を一枚、静かにカウンターに置いた。二人の会話には加わらなかった。しかし燈子は、澪の指先がほんの少し止まったのを見た気がした。棚のあのカケラの方向に、澪の視線が向いていた。一秒も経たないうちに、また書類に戻ったけれど。
燈子は休憩室に向かいながら、もう一度だけ振り返った。
暗い金色のカケラが、静かにそこにあった。
*誰かが渡さないと決めた記憶が、ずっとそこにある。*
「……忘れたいことが残ってたら」と燈子は小声で言った。「その人、ずっと苦しいですよね」
休憩室から、錠次の「まあ」という声だけが返ってきた。
「まあ、って何ですか」
「お茶、飲みますか? 緑茶と麦茶、どっちがいいですか」
「……また話題変えた」
錠次が笑う声がした。澪は書類を整理し続けていた。月曜日の朝の遺光館は、カケラの微光の中で静かだった。
廊下は、棚で挟まれていた。
両側から棚が迫り、天井が低く、足音が詰まって聞こえた。カケラの微光が壁に反射して、廊下全体がぼんやりと光っていた。燈子は澪の後ろをついて歩きながら、この廊下が好きだと思った。幻想的な、という言葉が浮かんだ。
突き当たりに、鉄製の扉があった。
扉の下の隙間から、光が漏れていた。廊下のカケラの光とは違う色だった。青白い。温度のない光。
扉の脇に小さなデスクがあり、作業服を着た職員が台帳に向かっていた。ペンが紙を押す音が、規則的に続いていた。*シャッ、シャッ、シャッ。*
「あそこって、ずっと光ってるんですか?」と燈子は聞いた。
「ずっと光っています」と澪が答えた。
「カケラが、ですか?」
「はい。底蔵に収蔵されているカケラは、解読されていないものがほとんどです。解読されていないカケラは熱を持ちません。だから光の色が、ああなります」
燈子は扉の小窓に近づいた。指先を光に近づけてみる。温もりが来ない。棚のカケラの光は触れると微かに温かいのに、この光は冷たかった。ただ、光るだけ。
「なんか、冷たいですね、この光」
「解読されていないカケラは、熱を持ちません」と澪が繰り返した。
扉の向こうから、管理担当職員の声がした。燈子が小窓を覗こうとしたとき、職員が静かに「触れないでください」と言った。燈子は手を引いた。
「あの、今日は何番まで書いたんですか?」と燈子は職員に聞いた。「昨日の続きですか?」
職員がペンを止めた。「今日は……四一七番から、です」
「昨日が四一六番だったんですか?」
「……いえ」職員が台帳を確認した。「四一二番の次が四一七番になっていたので、そこから始めました」
「あれ、間が飛んでますね」と燈子が言いかけたとき、廊下の奥から来客の予約確認の声が聞こえた。
「燈子さん、戻りましょう」と澪が言った。
声は穏やかだったが、少し速かった。燈子は「はい」と言って、澪の後に続いた。
廊下を戻りながら、燈子は一度だけ振り返った。扉の小窓から、青白い光が漏れていた。職員がまたペンを動かし始めた音が、廊下に続いた。*シャッ、シャッ、シャッ。*規則的に。
「なんか、誰かいる気がするんですよね、あそこに」と燈子は小声で言った。
「カケラがあるからです」と澪が答えた。
「カケラって、気配がするんですか?」
澪が少し間を置いた。「……そう感じる人もいます」
燈子はその答えを、廊下を歩きながら考えた。そう感じる人もいます。澪は「感じない」とは言わなかった。
廊下の奥に、受付カウンターの明かりが見えた。錠次がコーヒーメーカーの前に立っているシルエットが見えた。また電源を入れ直しているらしかった。
「なんか、寂しいですね」と燈子は言った。今度は底蔵ではなく、廊下全体に向かって言った気がした。「誰も解読しないまま、ずっとそこにいるのって」
澪は答えなかった。廊下のカケラの微光が、二人の足元を照らし続けた。
休憩室は、館内でいちばん普通だった。
古いテーブル。壁の棚に職員の私物。小さな窓から外の路地が見える。カケラの微光も、石の壁も、ここにはなかった。コーヒーの匂いだけが、何年分も木に染み込んでいた。
骨灰錠次がコーヒーメーカーの前に立っていた。電源ボタンを押す。*カチッ。ブーン。ガコン。*また不規則な音がして、止まった。
「今日も駄目ですかねえ」
錠次がコーヒーメーカーの側面を軽く叩いた。*コン。*
燈子はテーブルに座って、ノートを開いていた。今日覚えたことをメモしようとしていた。カケラの種類。公開記憶と封印記憶の違い。解読の手順。書いているうちに、さっきの問いがまた浮かんできた。
「あの、さっきの話の続きなんですけど」と燈子は言った。「カケラって、忘れたいこととかも残っちゃうんですか? 死んだ人が」
錠次がコーヒーメーカーから振り返った。「いやあ、難しい質問ですよ、それ」
「難しいって、どういう意味ですか?」
「カケラってのは、忘れたくても残ってしまうものも、あるんですよ。でも」
*カチッ。*
錠次がまたボタンを押した。*ブーン。ガコン。*
「でも、何ですか?」と燈子は聞いた。「『でも』の後、あるじゃないですか」
「コーヒー、飲みますか?」
燈子は「また話題変えた」と思った。今度は声に出した。「また話題変えた!」
「コーヒーメーカーが腹減ったって言ってるんじゃないですかね」
「そんなわけないですよ!」
錠次が笑いながら電源を入れ直した。*カチッ。ブーン。ガコン。コン。*今日は少し長い音がした。
「錠次さん、」と燈子は言った。「おじさん、」
「先輩です」
「先輩。さっきの話、本当に教えてくれないんですか? 『でも』の後」
錠次がコーヒーメーカーから離れ、テーブルの向かいに座った。カップを両手で持って、少し考えるような顔をした。
「そうですねえ」
それだけ言って、カップを口に運んだ。カップは空だった。陶器の縁が唇に触れる音だけがして、液体が流れる音はしなかった。
「……カップ、空じゃないですか?」
「あ、そうですね。コーヒー切れてますね」
「絶対わかってましたよね!?」
錠次がまた笑った。燈子は「もう」と言いながら、ノートを閉じた。
窓の外の路地は曇り空で、光が弱かった。コーヒーの染み込んだ匂いが、答えのない問いと一緒に休憩室に残っていた。
燈子は立ち上がりながら、もう一度だけ聞いた。「忘れたいことが残ってたら、その人、ずっと苦しいですよね」
錠次が「まあ」と言った。
「まあ、って何ですか」
「お茶、飲みますか? 緑茶と麦茶、どっちがいいですか」
燈子は「……また話題変えた」と呟いた。
錠次の「そうですかねえ」という声が、コーヒーメーカーの*ガコン*という音に重なって聞こえた。
午後の光は、金色がかっていた。
半透明の外壁を通して入る光が、館内のカケラの微光と混ざり合い、遺光館全体が琥珀色に染まる時間帯だった。鑑定待ちのカケラが棚で微かに輝き、来客用の椅子が三脚、空のまま並んでいた。
扉が開いた。
外の空気が流れ込んで、館内の温度がわずかに下がった。
紡木澪は書類を整理する手を止めた。来客だった。四十代後半と思われる女性が、受付カウンターに向かって歩いてきた。落ち着いた足取り。計算された丁寧さを持つ、整った所作だった。
澪は書類を脇に置いた。右手が、無意識に左手首の方向へ向かいかけた。気づかないまま、来客に向き直った。
「いらっしゃいませ。ご予約はいただいておりますか」
「朽木と申します」と女性は言った。「予約はしていないのですが、鑑定の依頼をお願いしたくて」
声のリズムが、完全に制御されていた。文章の区切りが、澪や錠次の話し方と微妙に異なる。澪は書類を受け取りながら、その違いを言語化しようとして、やめた。
朽木瑞、と名乗った女性は、依頼の概要を話し始めた。底蔵から発掘された、身元不明のカケラ。遺族として確認したいことがある。
澪は話を聞きながら、朽木の左手を見た。
薄墨色の手袋をしていた。午後の琥珀色の光の中で、その手袋だけが光を吸収していた。館内のあらゆる面が光を反射している中で、その手袋だけが黒い穴のように見えた。
*手袋だけが、光を反射しなかった。*
「あの」と後ろから声がした。
暮方燈子が、朽木の左手を見ていた。「手袋ってずっとしてるんですか? この館って結構暖かいのに……」
朽木が燈子に視線を向けた。その速さが、質問の内容と合っていなかった。
「手が冷えやすいので」と朽木は言った。穏やかな声で。
「そうなんですか、」と燈子が言いかけた。「あ、すみません、余計なことを」
「燈子さん」と澪が言った。
燈子が口を閉じた。
澪は朽木に向き直った。「では、鑑定受付室でご確認させていただきます。こちらへどうぞ」
骨灰錠次が澪の斜め後ろに立っていた。燈子がさらに後ろに続いた。朽木がカウンターの前を離れる瞬間、薄墨色の手袋をした左手がカウンターの端をわずかに触れた。その部分だけ、周囲のカケラの微光がわずかに揺れた気がした。
気がした、だけかもしれなかった。
澪は書類を手に取り、廊下を歩き始めた。
照明が、書類の細部を照らし出していた。
鑑定受付室は、受付エリアより明るかった。書類を精査するための光。澪はテーブルに書類を広げ、朽木瑞の向かいに座った。錠次が澪の斜め後ろに立ち、燈子がさらに後ろの棚の前に立っていた。
澪は書類を手に取った。依頼書の一枚目。日付、証明書の発行番号、発行機関の記載。指先が紙の端を触れながら、視線が書類の上を走った。
止まった。
「……いえ」と澪は言った。「正確には」
朽木が澪を見た。
「この日付と、証明書の発行番号が——少し、合わない」
澪は書類を朽木に向けた。日付の欄と、その下の発行番号の欄を指先で示した。「発行日が三月十四日になっていますが、この番号の形式は四月以降の書式です。……それと、書類の様式に詳しいですね」
「調べました」と朽木は言った。「依頼のために、徹底的に」
「発行機関の記載も、現在の組合書式と少し異なります」と澪は続けた。「こちらの受付番号の形式も——」
「あの」と燈子が割り込んだ。「朽木さん、さっきから手袋ってずっとしてるんですか? 暑くないですか? この部屋、明るくて少し温かいですよね」
朽木が燈子に視線を向けた。「ええ、手が冷えやすいので」
「そうなんですか、それって冬だけですか? 私も手が冷えるんですよ、記憶師って手が冷えると精度が落ちるって聞いて、それで」
「燈子さん」と澪が言った。
「あ、すみません」
澪は書類に視線を戻した。朽木の「調べました」という答えを、内側で一度繰り返した。調べた。徹底的に。その調べ方の精度が、一般人の域を超えていた。しかし澪は、それを声に出さなかった。
「封印記憶の解読許可申請が、されていません」と澪は言った。「無番号カケラの身元確認には、封印記憶の解読が必要になる可能性があります。許可申請は——」
「調べました」と朽木が繰り返した。「手続きについては、追って対応します」
部屋の中が、少し静かになった。
澪は書類の最後のページをめくった。朽木が提出した書類は、全体として整っていた。矛盾はあった。しかし整っていた。一般人が「徹底的に調べた」結果として、矛盾を含みながら整っている。その整い方が、澪には引っかかった。
「では、よろしくお願いします」と朽木が立ち上がった。「手続きが整い次第、ご連絡します」
錠次が「ありがとうございます」と言いながら、燈子に目配せした。燈子が「あ、」と言いかけて口を閉じた。
朽木が扉に向かった。
「あの」と錠次が言った。
朽木が振り返った。
「いや、」と錠次は言った。「お気をつけて」
朽木が頷いた。扉が開いた。外の廊下の光が差し込んで、また閉まった。
部屋に三人だけが残った。
「死人に口なし、ってのは半分嘘でね」と錠次が言った。
燈子が「えっ」と振り返った。「どういう意味ですか、それ」
「燈子さんが聞いてたじゃないですか、カケラって何が残るのかって。まあ、もう半分は……そういうもんですよ」
「そういうもん、って何ですか! もう半分は何なんですか!」
「では、よろしくお願いします」と朽木が退室した扉の方向から、廊下を歩く足音が聞こえた。遠ざかっていく、制御されたリズムの足音だった。
燈子が「あ、行っちゃった」と言った。
錠次が空のコーヒーカップを口に運んだ。液体が流れる音はしなかった。「さあ」と錠次は言った。「知らないということですよ、俺は」
澪は書類を手元に引き寄せた。
*許可申請を、意図的に避けている。*
その認識が、書類の矛盾の向こうに静かに浮かんでいた。
扉が閉まると、部屋の空気が変わった。
緊張が一段落した感覚と、しかし何かが引っかかったまま残っている感覚が、同居していた。
澪は書類を手元に引き寄せ、もう一度確認した。日付の不一致。発行番号の形式の齟齬。書類の様式への精通。そして——許可申請の空白。
「あの」と燈子が言った。「朽木さん、さっき澪さんの手を見てませんでしたか? なんかじっと……」
「そうでしたか?」と錠次が答えた。「まあ、書類を確認してたんじゃないですかね」
「なんか、書類じゃなくて澪さんの手を……」
「燈子さんは細かいですねえ」
燈子が「そうですかね……」と言いながら、首を傾げた。
澪は書類から目を上げた。「なぜ、許可申請を避けているのか」と澪は言った。「それが分かれば——いえ」
言いかけて、止まった。
*それが分かれば、次に何をすべきかが分かる。*
「明日、公開記憶の解読から始めます。公開記憶の範囲で確認できることを先に整理して、それから判断します」
「まあ、そうなりますよね」と錠次が言った。
澪はその言い方の微細な何かを感知した。*そうなりますよね。*予見のような、確認のような。しかし何を予見しているのかを言語化しようとして——
「原本も持って帰られましたね」と錠次が言った。「珍しいな」
「規則上は問題ないですよね?」と澪は確認した。
「問題ないですよ」と錠次が答えた。
錠次が立ち上がりながら、空のコーヒーカップをテーブルに置いた。陶器がテーブルに触れる音が、いつもより少し硬かった。
澪はその音を聞いた。聞いたが、言葉にしなかった。
「じゃあ、俺は受付に戻ります」と錠次が言った。「燈子さんも来ますか? 書類の整理、手伝ってもらえると助かる」
「はい!」と燈子が言った。「あ、でも澪さん、許可申請って私も手伝えますか? 書類の書き方、まだ全部分からなくて」
「後で説明します」と澪は言った。「先に行っていてください」
二人が部屋を出た。扉が閉まった。
澪は一人になった部屋で、書類と向き合った。
照明が書類の細部を照らし続けていた。日付の数字。発行番号。書式の様式番号。そして、空白。
*許可申請を、意図的に避けている。*
澪は書類を閉じた。テーブルの照明を消す前に、一度だけ手を書類の表紙に置いた。紙の冷たさが手のひらに伝わった。
「……明日、確認します」
小声で言って、手を離した。
一人になった部屋は、静かだった。
照明だけが変わらず書類を照らし続けていた。外の光が午後の傾きで変化し始め、照明の白さが相対的に際立っていた。
澪は書類を広げたまま、一点を見ていた。
封印記憶解読許可申請の欄が、空白だった。
その空白が、書類の中でもっとも白く、もっとも目立つ部分として澪の視野に入っていた。澪は書類の他の部分から視線を外せなかった——空白を見ているのではなく、空白が意図的に作られたものだと澪には分かった。
書類の矛盾は、不備ではなかった。不備なら直せる。しかしこれは、整えられていた。矛盾を含みながら、整えられていた。一般人が「徹底的に調べた」結果として、矛盾を含みながら整っている。その整い方が、澪には分かった。
澪は書類を閉じた。
「……明日、確認します」
小声で言った。誰もいない部屋に向かって。
書類を整理して、テーブルを離れた。扉を開けると、廊下のカケラの微光が澪の背中を照らした。




