第九話:紙
1535年、神聖ローマ帝国領、アウクスブルク。
この都市は、フッガー家が動かす莫大な「金」と、ルターの思想を(そして、それを弾圧する帝国の勅令をも)恐るべき速度で広める「紙」の力によって、沸騰していた。
法律家見習いのルーカスは、その「紙」の匂いの中で生きていた。
彼は、叔父が営む印刷所で徒弟として働きながら、都市の大学で法学を学んでいた。彼にとって世界は、神の言葉でも、金の流れでもない。人間が互いに交わした「契約」と、守られるべき「条文」によってかろうじて成り立っている、脆い建造物だった。
彼は、秩序を信じていた。だがそれは、フリードリヒのような「秩序のための秩序」ではない。「公正な手続き(プロセス)」こそが、人間の獣性を抑え込み、秩序を生むのだと信じる、若き理想主義者だった。
彼が、傭兵クノと名乗るあの狼のような男に出会ったのは、十数年前、彼がまだ学生だった頃だ。
酒場で無造作に放り投げられた、三つの「遺品」。
産婆マルタの、拙い文字とスケッチが記された「帳面」。
修道士トマスの、神学と医学の間で葛藤した「研究ノート」。
そして、傭兵クノ自身が書き記した、ボルジア伯爵の陰謀の「顛末書」。
あの日以来、ルーカスはこの三つの「証拠」を、法学の教科書よりも深く読み込んできた。彼は、法を学ぶ者として、この三つの断片が、一つの巨大な「犯罪」を告発していることに気づいてしまった。
一つ、産婆マルタの記録。これは、呪いではなく「毒(鉛)」や「病(産褥熱)」という「事実誤認(あるいは物的証拠)」を。
二つ、修道士トマスの研究。これは、「悪魔憑き」と「てんかん」や「麦角中毒(幻覚)」を混同した、「論理的破綻」を。
三つ、傭兵クノの覚書。これは、ジャンヌ・ダルクの時代から続く、権力者が「魔女」というレッテルを「政治的都合(暗殺や利権争い)」のために利用する、「意図的な偽証」を。
ルーカスの頭の中で、バラバラだった三つの事件が、一つの恐るべき「システム」として組み上がった。
「……これは、裁判ではない」
ルーカスは、インクの染みた指でこめかみを押さえた。
「これは、法の名を借りた、組織的な『虚構』だ」
そして1535年の今、その「虚構」は、ルーカスの目の前で、史上最悪の効率で稼働していた。
その日、ルーカスはアウクスブルク都市裁判所の後部席で、開廷を待っていた。
法廷を支配しているのは、ライン宮中伯(プファルツ選帝侯)より派遣されてきた、高名な裁判官フリードリヒだった。
今や彼は、帝国内で最も「公正」で、最も「迅速」に魔女裁判を処理するエキスパートとして、恐怖と共にその名を知られていた。
法廷は静かだった。マルタが殺された時のような、民衆の狂乱(私刑)はない。
すべてが「法」に基づき、整然と、冷徹に進められていく。
「被告、ウルズラ。前に」
フリードリヒの声は静かだったが、大聖堂のパイプオルガンの最低音のように、空間を圧迫した。
引き出されたのは、痩せたパン屋の女房だった。
「ウルズラ。お前は昨年の冬、悪魔と契約し、霜の悪霊を呼び寄せ、この地のブドウ畑を全滅させたと、十五名の証人が証言している。相違ないか」
ルーカスは息を呑んだ。
ここ数年、ヨーロッパは「小氷期」と呼ばれる寒冷化に見舞われ、各地で凶作が続いていた。アウクスブルクも例外ではなく、人々の不満は爆発寸前だった。
(フリードリヒは、あの時の恐怖を再現させないために動いている…!)
ルーカスは、フリードリヒの「動機」を正確に理解していた。彼は、幼少期に見た「獣の群れ(パニック)」の再来を防ぐため、完璧な「生贄」を用意したのだ。
「違います! 私は何も!」
「否」
フリードリヒは、淡々と羊皮紙の束を読み上げた。
「お前は自白している。『黒い山羊に跨り、霜の王に口づけし、ブドウ畑を踏み荒らした』と。これは、お前の署名のある自白調書だ」
「あれは…!」ウルズラは叫んだ。「あれは、拷問官様が、そう言わなければ娘も火刑にすると…!」
ルーカスは、フリードリヒの法廷戦術に戦慄した。
彼は、中世の「告発的訴訟手続」(告発者が罰せられるリスクがあった)ではなく、近代の「糾問主義的訴訟手続」を完璧に使いこなしていた。
この法廷では、裁判官が検察官であり、捜査官でもある。被告に弁護人はおらず、有罪を証明する「証拠」は、拷問によって引き出された「自白」だけで十分だった。
フリードリヒは、もはやウルズラの叫びを聞いていなかった。
彼は立ち上がり、法廷全体を見渡した。その目は、幼き日に見た「獣の群れ」を鎮めるかのように、冷たく、そしてどこか哀れみに満ちていた。
「本官の使命は、この都市の『秩序』を守ることにある」
彼は、ウルズラに向かってではなく、集まった市民たちに向かって語りかけた。
「この女一人の『魂の浄化』によって、我らが都市が神の怒りから解放され、今年の冬を越せるのならば。それこそが、法を司る者の『正義』である」
ルーカスは悟った。
フリードリヒは、神学的正義や、金銭的欲望からではない。
彼は、千人を救うために一人を殺すという、冷徹な「功利主義」の論理で動いている。
そして、その「道具」こそが、今や印刷術によってヨーロッパ中に広まった、インスティトール(第八話)の『魔女に与える鉄槌』だった。
「被告ウルズラ、並びに、共謀者とされる残り七名を、火刑に処す」
判決が下された瞬間、ルーカスは法廷を飛び出していた。
吐き気がした。マルタを殺した村人たちの「熱狂」よりも、フリードリヒの「理性的な殺人」の方が、何千倍も恐ろしかった。
その夜、ルーカスは叔父の印刷所に駆け込んだ。
「叔父上、プレス機をお借りします」
「ルーカス? 何事だ。今夜はルター師の新しい聖書(ドイツ語訳)の刷り上がりを…」
「聖書で人は救えない! 少なくとも、今は!」
ルーカスは、法廷でフリードリヒと戦っても勝てないことを悟った。フリードリヒが「法」そのものなのだから。
戦うべき相手は、フリードリヒではない。彼に「道具」を与えた、インスティトールの『鉄槌』だ。
あの「本」の虚構を暴く「本」を作らねばならない。
彼は、叔父の警告を思い出した。
「インクであると同時に、炎でもある」
今こそ、その炎を燃やす時だった。
彼は、印刷工としてのすべての技術を使い、夜を徹して活字を組み始めた。
それは、彼にしかできない「編集作業」だった。
第一章:「ある産婆の記録」
マルタの観察記録を掲載。「呪いの痣」が「鉛の毒」であった可能性を。
第二章:「ある修道士の告白」
トマスの研究を引用。「悪魔憑き」が「てんかん」や「麦角中毒」であった可能性を。
第三章:「ある傭兵の覚書」
クノの記録を基に、「魔女裁判」が「政治的暗殺」の道具として使われた実例を。
最終章:「法律家としての提言」
ルーカス自身の、法律家としての痛烈な告発文。
『――諸賢。我々が拠って立つべき法とは、証拠に基づくべきである。しかし、現行の裁判はいかなる証拠に基づいているか。「自白」である。その「自白」はいかにして得られるか。「拷問」である。
拷問とは、被告の口から真実を引き出す道具ではない。拷問官の望む虚構を、被告の肉体に刻み込む道具である。
我々は神を裁いているのではない。病人を、無実の人間を、そして政敵を、自らの恐怖と欲望のために殺しているに過ぎない。これは「神の裁き」ではなく、「人間の愚行」である――』
彼は、その本に、あえて著者名を記さなかった。
ただ、痛烈な皮肉を込めたタイトルをつけた。
『魔女裁判の虚構』
明け方、刷り上がった原稿を見た叔父は、顔面蒼白になった。
「ルーカス! お前は…我ら一族全員を火刑台に送る気か!」
「叔父上、これは百部だけです」ルーカスは、まだインクの匂いが乾かない紙の束を抱きしめた。
「法廷では、一人の声は消される。しかし、百冊の本は消せない。彼らが一冊を燃やしても、九十九冊が残る。これが、私の『法廷』だ」
その朝、百冊の小さな本が、フッガー家の通商ルートに乗る商人や、大学に戻る学生たちの手によって、密かにアウクスブルクから運び出された。
「パリへ」「パドヴァへ」「ヴィッテンベルクへ」
それは、法を信じる若者が放った、百の火種だった。
案の定、その本は一週間で禁書となった。
印刷所は徹底的に捜索され、残っていた原版と数冊の本が、フリードリヒの命令によって広場で公然と燃やされた。
叔父は投獄され、ルーカスは指名手配の身となり、都市から逃亡した。
すべては、敗北に終わったかのように見えた。
ルーカスは、スイスへ向かう山道で、凍えながら振り返った。
アウクスブルクの空が、ウルズラたち八人を焼く炎で、赤く染まっていた。
彼は、インクに汚れた手で顔を覆った。
百冊の火種は、あまりにも小さく、時代の狂気の炎は、あまりにも大きかった。
だが、彼は知らなかった。
その火種の一つが、何年もかけてヨーロッパを巡り、やがて一人の女医と、一人の老いた審問官の運命を、根底から変えることになるということを。
(続く)




