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第八話:書

挿絵(By みてみん)


1484年、ケルン大学。

神学者ハインリヒ・インスティトールは、神に選ばれたと信じていた。

しかし彼が選ばれたのは、フリードリヒのように「秩序」を守るためでも、マシューのように「金」を得るためでもない。「世界を説明する」ためだと信じていた。

彼は、その人生を書物と共に生きてきた。7歳でラテン語を解し、12歳でトマス・アクィナスを引用して司教を論破した。彼は、この世界が神の完璧な設計図ロゴスに基づいて創造されたと信じて疑わなかった。

だが、彼の聡明すぎる知性は、その設計図にある「シミ」を許すことができなかった。

「神は全知全能で、完全なる善である」

彼は、夜の書庫で、冷え切った石畳の上を歩きながら、何千回も繰り返した問いを、再び自らに投げかけた。

「ならば、なぜ『悪』が存在するのか?」

なぜペストが善男善女を等しく殺すのか。なぜ百年も続く戦争が神の許しを得ているのか。なぜ無垢なる赤ん坊が(マルタの村のように)青い痣を浮かべて死ぬのか。

これは、神学における最大のパラドックス、「神義論」だった。

多くの先達たちが、それを「信仰の神秘」として受け入れ、思考を止めた。

しかし、インスティトールは、それを「知的な敗北」として許すことができなかった。

神が完璧なら、その設計図も完璧なはずだ。この「シミ」に見えるものも、必ずや論理的に説明できる「設計図の一部」であるはずだと。

彼は書庫に篭った。昼も夜もなく、羊皮紙の匂いとロウソクの煙の中で、彼は古代の文献を渉猟した。

そして、ある啓示を得る。

「そうか…! 神は『悪』を許しているのではない。『試している』のだ!」

神は、自らが至上の愛をもって創造した「人間」に、「自由意志」という最大の贈り物を与えた。そして、その自由意志が本物であるかを試す「試金石」として、悪魔の存在を許容しているのだ、と。

「悪魔は、神が与えた『自由意志』という門を通って侵入する。悪魔は人間を誘惑し、内側から堕落させ、この世界を内部から崩壊させようとしている!」

彼の理論は、ほぼ完成した。神の全能性も、悪の存在も、人間の自由意志も、すべてを一つの壮大な論理体系で説明できる。

ただ一つ、決定的なピースを除いて。

それは、「悪魔は、具体的にどうやって人間に干渉するのか」という、現実世界との接続点だった。

彼は、その協力者こそが、古来より各地の伝承に残る「魔女」であると仮説を立てた。

だが、それはまだ仮説だった。

彼は、自らの完璧な「理論」を「真実」にするために、現実世界の「証拠データ」を渇望した。

彼は学者であり、同時に、自らの理論を証明するための「実験場」を求める、冷徹な科学者の顔を持っていた。

彼が異端審問官の職を求めたのは、人類の魂を救うためではなかった(それは弟子であるエルンストのような現場の仕事だ)。

彼自身の「神学体系」を完成させるためだった。

インスティトールは、他の審問官とはまったく異なっていた。

彼は、告発された農婦の恐怖に満ちた目を見て「悪魔の影」を感じたりはしない。彼は彼女の「言葉データ」にしか興味がなかった。

「実験」は、まず文献の収集から始まった。

彼は、ヨーロッパ各地の異端審問所から、過去の裁判記録を取り寄せた。

15世紀初頭、アルプス西部のヴァレー州で始まった「ワルドー派(異端)」の裁判記録。そこで初めて「魔女」という言葉が、異端の集会と結びつけられていた。

「…悪魔を崇拝する」「子供を捕えて食べる」「聖なる物品を侮辱する」

それは、かつて異端の集会で行われていたとされたもの、そのものだった。

「これだ…」インスティトールは呟いた。

「異端の『根』は同じなのだ。形を変え、呼び名を変え、今や『魔女』として、我々の社会に潜伏している」

彼は、自ら現場に出向き、「データ」を収集し始めた。

彼は、拷問によって引き出された「自白」を、熱に浮かされたように記録し、比較し、分類し続けた。

ある日、彼の執務室に、助手の一人である若き修道士(かつてのトマスのように、純粋な信仰心を持つ男)が、震える手で報告書を持ってきた。

「インスティトール様…。北の辺境の村(マルタの村)で、不可解な死が相次ぎ、産婆が魔女として私刑に遭いました。ですが、それを調査した弟子トマスによれば、原因は『鉛の毒』ではないかと…」

インスティトールは、その報告書を助手からひったくった。

「愚かな!」

彼は、その報告書を即座に異端文書として破り捨てた。

「悪魔はかくも巧妙か! 自らの『わざ』を、ただの『鉛』のせいにするとは! そして、我が教会の修道士トマスまでもが、その『合理』という名の毒に惑わされたと!?」

「悪魔は、そのようにして神の摂理を『自然の原因』と偽り、我々知性ある者の傲慢を誘うのだ!」

インスティトールは、この「事件」こそ、自らの理論の正しさを証明するものだと確信した。

悪魔は、もはや無知な農民だけではなく、教会の内部にまで、その「合理的な嘘」を広め始めている。

彼は、収集した「データ」を再び検証した。

北の果ての村で捕まった文盲の老婆(マルタの事例)と、南の都市で捕まった裕福な商人の妻が、全く異なる尋問官(エルンストと、別の地域の審問官)の前で、酷似した「自白(あるいは噂)」をしている。

「黒い山羊との契約」「サバトでの饗宴」「空を飛ぶ軟膏」…。

助手は恐る恐る言った。「それは、審問官が『手引き書』に従い、同じ『問い』を立てているからでは…?」

インスティトールは、助手を見据え、まるで愚かな生徒を諭すように言った。

「逆だ。なぜ、その『問い』が生まれた? それが『真実』だからだ!」

「彼らが同じ自白をするのは、我々が誘導しているからではない。彼らの魂に巣食う悪魔が、同じ『組織』に属しているからだ!」

「これは個人が考えつく嘘ではない。これこそが、国境を超えて存在する、悪魔の『国際的陰謀』の動かぬ証拠なのだ!」

彼にとって、この発見は、ガリレオが天体望遠鏡で木星の衛星を発見した時の喜びに勝るとも劣らない、知的興奮だった。

1486年。

彼は、その収集した「データ」を基に、すべての知識を注ぎ込み、一冊の書物を完成させた。

それは、彼の「神学的正義」の集大成。

彼の完璧な「理論」の最終証明。

この世界の「悪(不合理)」のすべてを説明し尽くす、壮大な体系図だった。

第一部:魔女は存在するか?(理論)

第二部:魔女はいかにして悪魔と契約し、いかなる悪事を働くか?(実践・分類)

第三部:魔女をいかにして裁き、断罪するか?(法学・手順)

彼は、当時まだ新しい技術であった「活版印刷」の力を借り、この書物を世に送り出すことにした。

書物の名は、『魔女に与える鉄槌マレウス・マレフィカルム』。

彼は、印刷されたばかりのその書物を、まるで我が子のように愛おしそうに撫でた。

その革の表紙の匂いを深く吸い込む。

「これで、世界は救われる」

彼は私利私欲ではなかった。彼は本気で、「世界の不合理を説明し尽くすこと」で、人類の魂を救おうとしていた。

「この書物こそが、神が悪魔と戦うために、私という器を通して与えたもうた『聖剣』なのだ」

「もはや誰も、『なぜ悪が存在するのか』と疑い、神の御心を惑う必要はない。答えはすべて、ここに記した!」

インスティトールは、この書物を、ヨーロッパ全土の司教、裁判官、そして王侯貴族に送りつけた。

それは、意図せずして、最悪の「武器」の供与となった。

冷徹な裁判官フリードリヒは、この書物に、自らの「社会的秩序」を維持するための完璧な「法的根拠」を見出すだろう。

冷笑的な傭兵マシューは、この書物に、人々を騙すための完璧な「営業マニュアル(脚本)」を見出すだろう。

そして、敬虔な審問官エルンストは、この書物に、自らの「神学的正義」を実行するための、神から与えられた「御墨付き」を見出すだろう。

インスティトール自身は、もはや現場に立つことはない。

彼は書斎で、自らの「理論(正義)」が、現実世界で次々と「証明」されていく(=何千人もの人々が彼の理論通りに処刑されていく)報告を聞きながら、自らが構築した完璧な「神学体系(秩序)」の美しさに恍惚としながら、次の論文の執筆を続けるのだった。

(続く)



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