第七話:金脈
マシューは貧農の息子だった。
彼が唯一持っていたのは、聡明で気丈な母親だけだった。夫を亡くした後も、彼女は薬草学の知識を頼りに、村の誰にも媚びず、マシューを一人で育て上げていた。
彼が九歳の秋、村の家畜が理由もなく倒れ始めた。
「呪いだ」
「誰かが井戸に毒を…」
村は、中世から続く「説明のつかない恐怖」の前に、いとも簡単にパニックに陥った。
マシューは、その原因を知っていた。数週間前、母親と薬草を摘みに行った川上で、異様な光景を見ていたからだ。上流の沼は淀み、水面が奇妙な赤い藻で覆われ、腐敗臭が漂い、岸辺には腹を返した魚が打ち上げられていた。
「マシュー」と母親は言った。「この沼は病気だ。下流の水は、決して飲んじゃいけないよ。家畜にもだ」
彼女の合理的な「観察」は、村の誰にも共有されなかった。
村人たちにとって、その「真実」はあまりにも複雑で、救いがなかった。
天災や病は、祈るしかない「理解不能な恐怖」だ。しかし、「誰かの悪意」ならば、それを取り除けば解決できる。
噂は、最も都合の良い生贄を選んだ。
薬草に詳しい。夫がいない。教会の寄付に(貧しいから)協力的ではない。そして何より、誰にも媚びず、気丈に振る舞うマシューの母親。
「あの女が沼に呪いをかけた」
「あの女が家畜の命を吸っている」
ある夜、松明を持った村人たちが家に押しかけてきた。
「お前がやったんだろう!」
先頭に立つ男の目は、憎悪ではなく、何かに怯えきった子供の目だった。フリードリヒがかつて見た「獣」の目とは違う、もっと哀れで、愚かな目だった。
九歳のマシューは、母を守ろうと叫んだ。
「違う! 母さんは悪くない! 川上の沼が腐ってるんだ! 赤い藻が浮いて、魚が死んでた! だから、そこの水を飲んだ家畜が死んだんだ!」
その「真実」が、最後の引き金となった。
村人たちの顔が、恐怖から一瞬で「納得」に変わった。
「…知ってただと?」
「そうだ! あの女は『知って』いた!」
「沼が腐るのを『見て』いたんだ! 祈祷師(※)様が言っていた、悪魔が『徴』を見せるという、まさにそれだ!」
(※当時の村には、キリスト教とは別の、土着の呪術的な信仰も色濃く残っていた)
「こいつが元凶だ! こいつが沼に呪いをかけたんだ!」
「真実」は、彼らが信じたい「嘘」の前では無力だった。
それどころか、「真実」は「嘘」を補強する、最高の「証拠」にすり替えられた。
一家は石を投げつけられ、家財は燃やされ、村を追放された。
凍える冬の道すがら、母はマシューの腕の中で高熱にうなされ、やがて冷たくなった。石をぶつけられた傷が、化膿していた。
「…マシュー…」
「母さん…」
「…あの子たちも、ただ…怖かっただけなんだよ…」
それが最期の言葉だった。
マシューは泣かなかった。彼は、母の優しさが母を殺したのだと悟った。
正義も真実も、飢えた獣の前では何の役にも立たない。
人間は真実を欲しない。自分が信じたい「嘘」を欲するのだ。
そして、その「嘘」を巧みに操る者だけが、すべてを手に入れる。
彼は、凍てつく大地に母を埋め、生きるために「操る側」になることを誓った。
【十五年後。“魔女狩り将軍”の誕生】
天涯孤独となったマシューは、戦場を渡り歩く傭兵団に拾われた。
そこで彼は、クノとは異なる哲学を学んだ。クノが「ゲームのルール(都合と金)」を見抜いたのに対し、マシューは「プレイヤーの心理(恐怖)」を学んだ。
彼は、戦場で「死」そのものよりも、「死への恐怖」が屈強な兵士たちをいとも簡単に支配する様を飽きるほど見た。恐怖こそが、最強の武器なのだ、と。
戦争が終わり、あぶれた傭兵となったマシューがたどり着いたのは、1580年代、宗教改革の混乱と、小氷期による凶作に怯える、とあるドイツの町だった。
市場は閉じ、家々の窓は固く閉ざされ、広場には疑心暗鬼の影だけが漂っていた。幼き日の村の光景が、完璧な形で再現されていた。
だが、今のマシューは九歳の少年ではない。
彼は酒場へ向かい、最も声が大きく、最も恐怖に怯えている男たちの一団に、わざとぶつかった。
「…ひどい匂いだ。この町は」
男たちが色めき立つ。
「この匂いは知っている。悪魔が巣食う匂いだ」
彼は、戦場で磨き上げたハッタリと、生まれ持った冷徹な観察眼で、芝居がかった仕草で続けた。
「俺は“魔女狩り将軍”マシュー・ホプキンス。神の命により、悪魔の僕を狩る者だ」
「恐怖」という乾いた薪に、「救世主」という火種が投じられた。
噂は一瞬で町を駆け巡り、人々は熱狂した。町の領主は、フリードリヒのような冷徹な政治家ではなく、民衆の熱狂に怯える「弱い」指導者だった。彼は、この民衆の熱を鎮めるため(そして、自らが生贄になるのを避けるため)、マシューを公的に雇い入れた。
マシューは「魔女」を探し始めた。
彼の目は、すぐに一人の男に向けられた。町一番の嫌われ者であり、町一番の金持ちである、強欲な金貸しだ。
彼を告発すれば、誰も彼をかばわない。
人々は溜飲を下げ、領主は(恩赦と引き換えに)金貸しから多額の「寄付」を得て潤う。そしてマシューは、その両方から莫大な「報酬」を得る。完璧な「商談」だった。
「尋問」は、もはや拷問ですらなかった。
それは、大衆の期待に応えるための、完璧に演出された「儀式」だった。
マシューは、神学者インスティトールが書いた『魔女に与える鉄槌』の、粗末な翻訳版を持っていた。エルンストが「聖書」として読んだそれを、マシューは完璧な「営業マニュアル(脚本)」として使った。
彼は金貸しを三日三晩、眠らせなかった。
「悪魔は夜に力を増す。祈りの力で、汝の魂に巣食う悪魔を弱らせるのだ」と、集まった民衆には説明した。
疲労困憊で意識が朦朧とする金貸しの耳元で、彼は優しく、しかし執拗に囁き続ける。
「お前は契約したんだろう? 黒い山羊と。あの十字路で。この『脚本(聖なる書物)』に、そう書いてある」
「言え。言えば楽になれる。神は寛大だ。告白すれば、魂だけは救ってやろう。俺も、報酬が手に入れば、それでいいんだ」
彼は、民衆が「聞きたいと望んでいる嘘」を、金貸しに教え込み続けた。
四日目の朝、金貸しは、マシューが教えた通りの「自白」を、民衆の前でオウム返しに呟いた。
火刑の日。町は祭りのような熱狂に包まれていた。
人々はマシューを「英雄」「聖者」と讃え、涙ながらに彼の手を握った。
マシューは、厳かな顔で十字架を掲げ、民衆の熱狂と、炎に焼かれていく金貸しの苦悶の顔を、冷め切った目で見比べていた。
傍らには、領主から渡された、ずっしりと重い報酬の袋があった。
彼は悪魔など一欠片も信じていなかった。
彼が信じていたのは、「人間の恐怖心と愚かさ」だけだ。
(そうだ、もっと怯えろ。もっと騒げ。お前たちのその恐怖こそが、俺の金脈だ)
「恐怖は最高の商材だ。俺が“魔女”という恐怖を売れば、人々は“安心”という商品を買ってくれる」
彼は、魔女狩りを冷徹な「ビジネス」として完成させた。
袋の重みを確かめながら、マシューは次の町(金脈)を探すため、地図を広げた。
彼の「利己的正義」は、フリードリヒの「社会的正義」とは異なる形で、しかし確実に、この時代の「狂気」の車輪を、力強く回し始めていた。
(続く)




