第六話:獣
フリードリヒは、すべてを持つ貴族の家に生まれた。ただし、次男として。
長兄が相続する領地も爵位も、彼のものではない。彼にあるのは、優れた家名と、それを汚さぬよう秩序を学ぶための書物だけだった。彼は生まれながらにして「傍観者」であり、それゆえに誰よりも冷徹に物事を「観察」する癖がついた。
彼が10歳の夏、1492年。世界は、乾ききっていた。
数ヶ月にわたる大干ばつが、父の領地を埃と絶望で満たした。
フリードリヒが書斎の窓から見ていたのは、乾ききった大地と、そこで働く「農民」という名の、理解可能な存在だった。彼らは暑さに文句を言い、神に雨を乞い、しかし最後は領主である父の権威に従う、秩序の一部だった。
だが、その日、書斎に届いたのはインクの匂いではなかった。
松明の脂が焼ける臭い。汗と埃が混じった、獣じみた体臭。そして、何百もの喉から絞り出される、一つの地響きのような怒号。
「穀物庫を開けろ!」
フリードリヒは窓辺に駆け寄った。
昨日まで「旦那様」と地面に頭をこすりつけていた農民たちが、そこにいた。しかし、それはもう彼が知る「農民」ではなかった。
目は血走り、理性の光は消え、ただ「飢え」という一つの本能に突き動かされる「獣の群れ(パニック)」だった。
群れは、一人の男を捕らえた。
領主である父の代理として、彼らに冷静になるよう説得していた、老執事のクラウスだ。クラウスは、フリードリヒにラテン語の読み書きを教え、今朝も「若様は賢くなられる」と目を細めていた男だった。
「裏切り者!」「我々を見殺しにする気か!」
クラウスの懇願は、群れの怒号にかき消された。
フリードヒは見た。乾草用の熊手が、何度も何度も振り下ろされるのを。昨日まで人に仕えていたはずの「手」が、人間を引き裂く「爪」に変わる瞬間を。
クラウスが最後に見たのは、恐怖に凍りつき、窓枠を握りしめるフリードリヒの白い顔だった。
一揆は、父が呼び寄せた兵士たちによって、血の海の中に鎮圧された。
その夜、フリードリヒは自室で震えながら、一つの真理に到達した。
人間を人間たらしめているのは、理性でも信仰でもない。
ただ、薄氷一枚の「法」と「秩序」だ。
そして、その薄氷の下には、飢えや恐怖という些細なきっかけで、いつでも目覚める「獣」が潜んでいる。
彼の心に、生涯消えない恐怖が刻まれた。
「最大の敵は、地獄の悪魔ではない。秩序を失い、獣と化した大衆だ」
彼は、傍観者であることをやめた。法学を学び、自らが、その「薄氷」を守るための冷徹な杭になることを誓った。
【十年後。若き裁判官として】
若き裁判官として赴任した都市は、フリードリヒにとって、幼き日の悪夢の再現だった。
1503年、原因不明の疫病(ペストあるいは発疹チフス)が、湿った路地から這い上がり、富裕層の館までをも蝕んでいた。
都市は死臭と、酢の匂い(消毒のためと信じられていた)、そして何よりも「恐怖」で満ちていた。
人々は隣人を疑い始めた。鐘の音は、祈りのためではなく、死者を運ぶ荷車のために鳴らされていた。
ある日の昼下がり、フリードリヒは護衛と共に広場を視察していた。
そこで彼は、あの「目」を見た。
十数人の男たちが、一人のパン屋を店の隅に追い詰めていた。
「こいつが井戸に毒を!」「昨日こいつのパンを食べた隣人が死んだ!」
石が投げられ、パン屋の額から血が流れた。
幼き日に見た、クラウスを打ち据えた「獣の群れ」が、今まさに生まれようとしていた。
「止めよ! 裁判所の名において!」
フリードリヒの冷徹な声と、護衛の剣が、かろうじて群れを押しとどめた。
だが、彼は知っていた。これは一時しのぎに過ぎない。
獣は飢えている。怒りと不安のはけ口(=生贄)を求めている。パン屋を解放すれば、次はユダヤ人地区が襲われるだろう。そうなれば、都市は内側から崩壊し、疫病が成し遂げる以上の速度で、すべてが地獄と化す。
彼は、素早く、冷徹に「装置」を作動させた。
民衆の怒りと不安を、一つの「分かりやすい出口」に誘導する必要があった。
彼の脳裏に、一人の人物が浮かんだ。
街外れで薬草を売る、老婆だ。
彼女は誰とも交わらず、常に一人で、時折、教会への寄付を拒んでいた。反感を買うには十分すぎる条件だった。
彼女が有罪か無罪かなど、フリードリヒにとってはもはや問題ではなかった。
彼は衛兵隊長に命じた。
「街外れの薬草師を逮捕せよ。容疑は、悪魔と契約し、この疫病を撒き散らした魔女の疑いである」
裁判は、フリードリヒの完璧な演出のもとで行われた。
当時の法廷は、まだ「告発的訴訟手続」(告発者が罰せられるリスクがある)の慣習が残っていたが、フリードリヒは司直(裁判官)が職権で捜査を開始できる「糾問主義」の萌芽を巧みに利用した。
彼は、民衆の「噂」こそを「証拠」として採用した。
「あの女が笑った夜、うちの家畜が死んだ」
「彼女の煮炊きする鍋から、不気味な光が見えた」
フリードリヒは、都市のすべての恐怖と不安を、ただ一人の老婆の背中に背負わせた。
老婆の無罪の叫びは、群衆の「有罪!」という熱狂的なコーラスにかき消された。
火刑が執行されたその夜、都市は嘘のような静けさを取り戻した。
人々は「原因(魔女)が取り除かれた」ことに安堵し、怯えながらも、互いへの疑心暗鬼を解き、日常へと戻っていった。
フリードリヒは、書斎で一人、冷めた赤ワインを飲み干した。
窓の外からは、老婆が焼かれた灰の匂いが、まだ風に乗って漂ってくる。
彼は、グラスの底に溜まった澱を見つめた。
罪悪感はない。あるのは、巨大な機械の歯車を、自らの手を汚して回しきったという、冷たい疲労感だけだ。
「一人の犠牲で、千人の秩序が守られる」
彼は、あの獣の群れから、この都市を守り抜いたのだ。
「法とは、時に非情な装置でなければならない。それこそが、法を司る者の『正義』だ」
彼は、もう一杯ワインを注いだ。その味は、まるで鉄のようだった。
この経験が、彼を「秩序の番人」として完成させた。
彼は、来るべき時代、インスティトールの『鉄槌』が印刷され、ルーカスが『虚構』を暴こうとする、その遥か以前から、すでに「魔女裁判」を、自らの「社会的正義」を維持するための、最も効率的な道具として使いこなしていたのである。
(続く)




