第五話:配役
クノは、酒場の安宿の一室で、二つの「書物」をロウソクの光に照らしていた。
片方は、ボルジア伯爵が金で買った、完璧な「嘘の台本」。
もう片方は、マルタとトマスが命懸けで記し、アントンが銀貨二枚で売った、完璧な「真実のタネ明かし」。
彼はまず、伯爵の「台本」――ヘス男爵を告発する罪状書き――を読んだ。
「…第一。被告ヘスは、都市の水源にて悪魔と契約し、水を呪い、民衆に病を撒き散らさんとした…」
クノの口元が歪んだ。
彼は次に、マルタの帳面を開いた。あの拙い文字とスケッチ。
『鉛の管。甘い水。青い痣』
クノは、この数日間、傭兵の情報網を使い、この二つの記述の「裏」を取っていた。
結果は、滑稽なほど明白だった。
ボルジア伯爵家は、この都市の古い水道管――ローマ時代から続く「鉛管」――の利権を握っていた。
一方、政敵であるヘス男爵は、民衆の支持を得るため、最近「原因不明の病(鉛中毒)が多発している」として、私財を投じて水源を改修し、古びた鉛管を「石の管」に取り替える事業を始めていた。
「…なるほど」
クノは、二つの羊皮紙を並べた。
伯爵の「台本」は、真実を巧みに反転させていた。
ヘス男爵の「善行(石の管への改修)」を、「悪行(水を呪う魔女の業)」へと完璧にすり替えていたのだ。
クノの脳裏に、二十年前、ルーアンの広場で聞いた古参兵ゲルハルトの言葉が蘇る。
『どっちが「都合がいい」かだ』
ボルジア伯爵にとって、クノは「都合のいい」駒だった。金で雇った傭兵が、審問所の「やり方」を知っている。伯爵の陰謀を実行するには最適の手駒だ。
だが、伯爵は致命的な間違いを犯した。
彼は、クノが「文字を読める」こと、そして「物事を分析する」こと、何より「自分より愚かな主人を軽蔑する」人間であることを知らなかった。
クノは、マルタとトマスのノートを、懐の奥深くにしまい込んだ。
このノートは「タネ明かし」であると同時に、最高の「鑑定書」だった。ボルジア伯爵という男が、いかに陳腐で、愚かで、そして「都合の悪い」雇い主であるかを証明してくれた。
「ゲームのルールだ、伯爵」クノは呟いた。「あんたの『都合』は、俺の『都合』と反する。そして、あんたはヘス男爵より『金払い』が悪そうだ」
クノが言う「金払い」とは、報酬の額面だけではない。ヘス男爵を救えば、彼はクノに「命の借り」ができ、伯爵以上の「金(あるいは便宜)」を将来にわたって差し出す可能性が高い。
クノは、常に「より儲かる」方を選ぶ。それが彼の哲学だった。
「…配役を変えるか」
彼は、金貨500枚の前金が入った袋を懐に入れ、もう一つの袋――伯爵から預かった「偽の証拠品(異教の偶像、黒魔術の書物)」――を掴んだ。
そして、ロウソクを吹き消し、音もなく夜の闇に消えた。
彼の目的地は、ヘス男爵の屋敷ではなかった。
ボルジア伯爵の屋敷は、都市で最も豪奢で、最も警備が手薄だった。伯爵は、自らの権力を疑う者などいないと信じきっていた。
クノは、かつて戦場で敵の砦に忍び込んだ時のように、音もなく壁を乗り越え、書斎の窓をこじ開けた。
(愚かな男だ。証拠を捏造するなら、自分の屋敷も掃除しておくものだ)
クノは、伯爵から預かった「証拠品」を、書棚の奥、目立たないが必ず見つかる場所に仕掛けた。
作業を終えようとした時、ふと、彼の目に、鍵のかかった小さな箱が留まった。
彼は、戦場で覚えた技術で、音もなくその錠前を外した。
中に入っていたのは、黒魔術の書物などではなかった。
それは、伯爵が熱心に集めていた「占星術」の精密なホロスコープ(天宮図)と、一瓶の「賢者の石」を夢見る錬金術の粉末だった。
これらは、当時の知識人が密かに嗜む流行であったが、インスティトールやエルンストのような厳格な審問官の目には、「神の摂理」を盗もうとする「異端の萌芽」と映る、極めて危険な代物だった。
「…おまけだ、伯爵」
クノは、それらの「本物の証拠」を、自らが仕掛けた「偽の証拠」の隣に、丁寧に並べた。
そして、再び闇に消えた。
翌日、審問会は異様な熱気に包まれていた。
都市の二大巨頭、ボルジア伯爵とヘス男爵が、審問官エルンスト(彼は師グレゴールの後を継ぎ、この地を管区としていた)の前に揃っていた。
エルンストは、トマスを処刑して以来、その「神学的正義」に微かな「棘」が刺さったままだったが、職務は忠実に遂行していた。
ボルジア伯爵が、立ち上がった。
「審問官様! 本日、私がここに参りましたのは、この都市に巣食う、許されざる『悪』を告発するためであります!」
伯爵は、芝居がかった仕草で、ヘス男爵を指差した。
「ヘス男爵こそ、悪魔と契約し、我らが都市の水を呪わんとする魔女に他なりません!」
法廷が、どよめいた。
ヘス男爵は、血の気が引いた顔で「何を…!」と叫ぶ。
エルンストが、ボルジア伯爵に「証拠は?」と厳かに問うた。
「証拠は!」伯爵が叫んだ。「我が忠実なる部下、傭兵クノが、昨夜、命懸けで押さえました! クノ! 入ってまいれ!」
扉が開き、クノが、あの「証拠品」の袋を抱えて入ってきた。
ボルジア伯爵は、勝利の笑みを浮かべていた。
クノは、エルンストの前まで進み出ると、袋を祭壇の前にぶちまけた。異教の偶像や、不気味な粉末(錬金術の薬)が転がり出る。
「お待ちください、審問官様!」
クノは、伯爵の期待とは裏腹に、悲痛な声で叫んだ。
「昨夜、私は悪魔の気配を感じ、この都市の邪悪の根源を突き止めました!」
「うむ」と伯爵は頷いた。「それで、それはヘス男爵の…」
「いいえ!」
クノは、ボルジア伯爵を指差した。
「この証拠品はすべて、ボルジア伯爵様の書斎の、隠し箱から発見されたものであります!」
「なっ…」
ボルジア伯爵の顔から、笑みが凍りついた。
「何を…何を言うか、貴様! その証拠は! お前に! 私が! ヘスの屋敷に植え付けよと…!」
伯爵は、罠に気づき、激昂して「真実」を叫んだ。
だが、その叫びは、最悪の「自白」となった。
「審問官様!」
クノは、まるで聖女ジャンヌの殉教でも見るかのように、悲痛な顔で叫んだ。
「お聞きください! 伯爵閣下は、悪魔に魂を食われ、記憶が混乱しておいでです! 彼は、この忌まわしき品々を『ヘスの屋敷に植え付けろ』と、昨夜、私に命じられました! 己の罪を、無実のヘス男爵に擦り付けようと!」
「き、貴様ああああ!」
「そして」クノは、懐からもう一つの「台本」(伯爵がクノに渡したもの)を取り出した。
「これこそが、伯爵閣下が悪魔と交わした『契約書』の写しに違いありません!」
エルンストは、その羊皮紙を受け取った。
そこには、ボルジア伯爵の筆跡で、完璧な「悪魔の自白(ヘス男爵の罪状)」が記されていた。
「『我、黒い山羊と契約し、都市の水を呪う…』」
エルンストは、かつてトマスが持ち込んだ「鉛の毒」のノートを思い出していた。
(ヘス男爵…水を改修しようとしていた…? ボルジア伯爵は、その利権を…?)
エルンストの心に刺さった「棘」が、わずかに痛んだ。だが、彼にとって、目の前の「物証」と「自白(に見えるもの)」は、神学的な「正義」を執行するに十分すぎた。
ボルジア伯爵は、この茶番の結末を悟った。
「罠だ! こいつが私を陥れた! 私は無実だ! その証拠は偽物だ! 私が作ったんだ!」
広場に集まった群衆は、一斉に彼に罵声を浴びせた。
「聞け! 自分で『証拠を作った』と白状したぞ!」
「悪魔め! 恥を知れ!」
「そうだとも!」クノは群衆に向かって叫んだ。「完璧な証拠を用意したのは、伯爵閣下、あなた自身なのだから!」
ボルジア伯爵は、自分が積み上げた薪の上で、自分が用意した「台本」通りの罪状で、火刑に処された。
彼が最後に見たのは、群衆の中で冷ややかにその光景を眺めている、クノの姿だった。
ヘス男爵は、命の恩人であるクノに礼を言おうとしたが、クノの姿はどこにもなかった。
クノは、金貨1000枚(伯爵からの前金500と、ヘス男爵が「礼」として秘密裏に置いていった500)を手に、町を離れた。
彼は英雄ではない。ただ、契約を「より面白い形」で完遂しただけだ。
道中の酒場で、彼は一人の若者が熱心に本を読んでいるのを見つけた。印刷されたばかりの、法律に関する書物だった。
クノは、懐から例の二冊のノートを取り出した。
もはや、この「タネ明かし」の書物は、彼にとって何の価値もない。
彼は、若者のテーブルに、ノートを無造作に放り投げた。
「坊主。法律もいいが、こっちの『殺人事件のトリック』もなかなかだ」
「え?」
「犯人は『鉛』と『腐ったパン』だ。だが、捕まったのは全員、無実の人間。つまらん芝居さ。あのフランスの聖女様の時代から、何も変わらん」
若き法律家は、訳が分からないまま、その二冊のノートを手に取った。
クノは、エールを一杯飲み干すと、二度と振り返らずに酒場を後にした。
知のバトンは、今や「医学」「神学」に加え、「人間の愚かさと歴史の記録」という冷徹な現実を携え、法を志す者の手に渡った。
(続く)




